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マズローの欲求段階はピラミッド型ではなかった!?【夏の自由研究 from ギリシャ レロス島】


「わたしたちは人間について何か大きな勘違いをしているのではないか?」


ギリシャの小さな島でパソコンもスマートフォンも使わない夏休みの時間を過ごしていたわたしの頭の中にはそんな問いが浮かんでいた。


きっかけは、「『他の人の気持ちや欲求を想像する』という行為は、人間関係における悩みの多くをつくり出すことにつながっているにも関わらず、なぜ続けられているのだろうか」と考え始めたことだった。

このテーマついてはまた別の機会に詳しく言葉にしたいと思うが、今のところのわたしの結論は、人間の気持ちや欲求に関してわたしたちの根本的な認識の誤りがある(人生の初期に必要だったものと中盤以降に必要になるものが混同されている)のではないかというものだ。

社会に出て関わる相手やものごとが多様になるごとに、また、世界を捉える意識そのものが成長し、繊細かつ複雑な言語表現ができるようになるごとに、わたしたちの気持ちや欲求も多様で複雑になっていく。

にもかかわらず、わたしたちは他者の気持ちや欲求をシンプルで究極的なものに近づいていくと認識している。(そして、他者の気持ちを想像し、想像上の他者がどう思うかといったことに思い悩む)

ひとりひとりが全く異なる経験をし、異なる価値観で世界を見、様々な感情や欲求を持つようになっていくにも関わらず、なぜわたしたちは他者の欲求や感情を想像や理解しうるものだという認識を持っているのだろうか?


そのときに浮かんだのがマズローの欲求段階説を表すピラミッド型の図だ。

これはわたしたち人間の持つ基本的な欲求を表しているもので、マネジメントやマーケティングなど多くの分野で紹介・活用がされている。

わたし自身、このピラミッドを人間に関する理解の助けになるとして活用してきた。

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このピラミッドの図はわたしたちの持つ欲求にはどのような種類と関係性があるのかということを分かりやすく伝えている。

しかしこの図は、わたしたちの欲求が何か「万人にとって共通かつ究極的なものに向かっていく」というイメージも想起させる。

生理的欲求や安全欲求はわたしたちの土台であるということが理解できるが、ピラミッドの上の方の欲求ほど高尚であるとか、より上位の欲求を持っている人の方が優れているといったイメージも招きかねない。

仮にこの図をもっと違う形に描き変えるとするとどうだろうか。

そう考え、あれこれと図を描いているときに、ふと新たな問いが浮かんできた。

「そもそもマズローは本当にピラミッド型を唱えたのだろうか?」
「もしそうだとしたら、そこにはどんな意図があったのだろうか」


そんなわけで、インターネットを使わないと決めていた一週間の期間を終えて、一番に検索したのがマズローの欲求段階説を表すピラミッドについてだった。

できれば原典をあたりたいと思い、英語で検索をしたところ、こんな記事が目に留まった。

タイトルを日本語に訳すと『マズローの欲求段階 −ピラミッドはでっち上げなのか?』、まさに浮かんでいる疑問に何か答えもしくはヒントをくれるのではないか。

そう思って、記事を読み進めた。

この記事によると、「マズローの欲求段階」として知られるようになったピラミッドの図は原著には登場していないという。

記事にはこのようなことが書かれている。

<要約>
・マズローの欲求段階について、1943年の論文か1954年の著書のどちらかから引用されていることが多い。
・しかし、そのどちらにも、ピラミッドの図は描かれていない。(図やイラストが一つもない)
・「Maslow Motivation and Personality」の原案はマズローだが、ピラミッドはマズローが作ったものではない。
・ピラミッドは誰かが解釈したものだが、マズローを象徴するものになっている。

この記事は教育現場におけるアカデミック・インテグリティ(学術的な健全性や誠実さ、一貫性)や倫理性を提唱しているカナダのサラ・エレイン・イートン(Sarah Elaine Eaton)教授の書いたもので、そのほかにもオリジナルソースを見つけることの重要性などが伝えられている。

もうひとつ、こんな記事も見つけた。

『マズローのアイコンであるピラミッドは誰が作ったのか』という記事の中では、副題にもあるように、マズローのピラミッドの起源について探った論文が紹介されている。

論文についてはこちらの記事でも詳しく紹介されているが、論文の内容を要約するとこのようになる。

<要約>
・経営学では基礎的な考え方が原著とはまったく異なる形で表現されていることが多い。(論文は経営学の教科書に載っているピラミッドのマズローの理論の拡大と経営への影響をテーマにしている)
・マズローが作成したものではないのに「マズローのピラミッド」と表現されており、マズローの欲求段階をうまく表現できておらず、見る人に誤った印象と理解を与えている。
・たとえばマズローは人は、下位の欲求が部分的にしか満たされないまま上位の欲求が出現することがあることや、欲求が出現する順序は固定されていないことを信じていた。
・マズローをビジネス界み広めた人物であるダグラス・マクレガーは、ニーズの階層化が経営に適用できる可能性を見出し、経営学への翻訳を容易にするためにマズローが明確にしていたニュアンスや条件の多くを意図的に無視し、マズローの理論を簡略化した。
・現在誤って伝わったマズローの理論に対して多くの批判があるが、そのほとんどは実際はダグラス・マクレガーの解釈に対する批判である。
・マズローが生きている間に、他の人によってマズローの欲求段階がピラミッドの図を用いて紹介されたがマズローはそのピラミッドを見ても反論しなかった。
・マズローの日記からは、マズローがピラミッドでの説明に異議を唱えなかったのはピラミッドがマズローの理論を正確に表現していると考えたからではなく、それまで評価されていないと感じていた心理学の分野で評価を得るためや経済的な理由からだったと読み取ることができる。

これを読むとマズローの理論を意図的に簡略化しピラミッド型で表現したことがあたかも悪いことだったかのように思えるかもしれないが、必ずしもそうとも言えないだろう。

わたしたちは文字だけで表現されたものに比べて、文字と絵や図で表現されたものは約6倍記憶に残りやすいと言われている。

また、わたしたちの中にすでにある価値観に沿ったものの方が容易に受け入れることができる。

マズローの欲求段階説はピラミッド型で表現されたからこそ、多くの人が知り、活用するものになっているとも言える。


一方で、ピラミッド型で表現することにおいて、本来の説とは違った意図が強く働いていたとしたらどうだろうか。

ピラミッド型が作られたときの時代背景(たとえば、経済や数値的な上昇は続けることができる・上昇をする方がいいといった価値観の中に多くの人が生きている)が強く働いていたとしたらどうだろうか。

複雑化・カオス化した社会の中で、これまでのフレームで人間や世界を理解することが難しくなっているとするとどうだろうか。



ピラミッド型は、マズローの唱えた欲求段階説の一部を、分かりやすく表しているかもしれない。

一方で、人間について大きな勘違いを生み出しているかもしれない。

そう思うと、その表現の方法(形)について再考をするときがきているのではないかと思う。(どのような形が提案できるかはまた別の機会に深めたい)


これについては他の人間に関する理論についても言うことができるだろう。

ここ30年間での急速なコミュニケーションツールの発展がわたしたちの心や意識にどのような影響を与えているのかだけでなく、人の心や意識についてはまだ大部分が未知の領域だ。

少なくとも人間を単純な仕組みとして見ることや誰かが言っていることをそのまま信じることは、大切な人とよりあたたかな時間を過ごしたり、さまざまな背景を持った相手と大きな目的のために共創関係を築いていくことにはつながらないだろう。

最初に紹介したサラ・エレイン・イートン(Sarah Elaine Eaton)教授も記事の中で人の言うことを鵜呑みにするのではなく批判的に分析し考えることの重要性を述べている。

同時に、インターネットの情報を鵜呑みにしてはいけないとも警鐘を鳴らしている。

かく言うわたしも、インターネットで検索して出てきた記事のうち、二つを取り上げたに過ぎない。研究や教育の分野で実績がある教授の記事であったり、三人の研究者が共同研究をし書いた論文だというだけでその信頼性が高いとみなしているが、実際のところマズローがどんなことを考えていたかは誰にも分からないだろう。

取り上げた各記事の要約も、わたしが目に留まったところを取り出しただけだ。そもそも日本語への翻訳が適切になされているか定かではないし、取り出す時点でわたし自身の視点のバイアスがかかっているに違いない。


わたしたちは、基本的に、自分の既にある考えを補強する手助けになる情報に目が向く。インターネットの世界では、それはなおさらだ。

今は、その人の興味や関心に合わせた記事が表示されるというアルゴリズムが多くの検索エンジンやプラットフォームで採用されている。(なんだか自分の携わる分野もしくは職業が最近人気になってきているのかしらなんてことを思うのは、情報が選別されて表示されているためだ)


世界は、わたしたちが思うよりもっともっと多様で複雑だ。

もっともっとカラフルで、いろんな匂いがする。

もっともっとゆらゆらしていて、曖昧だ。



だから、たまにはパソコンを閉じて、スマホを置いて、外に出よう。


他の国や遠い場所に行けないとしても、

わたしたちは毎日、「未知」の世界や自分に出会うことができる。


「知る」ということは、

その分もっと多くのことを知らないのだと気づくことだ。


「こういうものだ」と思っていたものの見方を手放したとき、

自分自身も出会う人も世界も、一つになり、輝きを増す。



あたらしい季節の兆しを含んだ風が吹き始めたギリシャの小さな島で、
そんなことを考えている。

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昨年の夏(初夏)の自由研究はこちら▼





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