見出し画像

ふうふでもパートナーでも、そうでなくてもいい

ふと目にした記事を読んで、自分もこの「#多様性を考える」について言葉にしてみたくなった。


オランダ人のパートナーと一緒に暮らしを始めて、生き方や関係性にはいろいろな形があるのだということを強く実感している。

ひとまわり年上の彼は今、働いていない。

おそらくもう2年くらい働いていないんじゃないだろうか。

「自分の年金(貯金)を使っているよ」と笑っている。

「毎月お茶を飲みにいくくらいの収入があったらいいかなあ」と言っているが、特段この先のことを心配している様子もない。

ニカラグアにいるときは毎日、湖で泳ぎハンモックに揺られていた。

時折、友だちや親戚に専門である会計の相談をされて、そのときは半日はパソコンに向かうけれど、「今日はもう終わり!」と切り上げてあとは本を読んだり、のんびりしたりして過ごしている。

コロナの前はアジアのいくつかの国に滞在しながらリモートで仕事をしていたらしい。

そして数年に一度は一年間の旅に出ていたそうだ。


大学院の在学中に友達と会社を作って何年かその会社を経営した後、会社を売って、それからは数ヶ月から数年の契約で企業と契約をし仕事をしてきたという話は、今となっては珍しくないかもしれないけれど、オランダでも当時は決して多数派だったわけではない。

自由だけれども、贅沢をするわけではない。

むしろ、社会的な成功や豊かさのの基準を手放しているからこそ自由であれるとも言えるだろう。


そんな彼には「Sister」と呼ぶ女友達がいる。

きょうだいのように仲が良い友達のことをそう呼んでいるらしい。

(仲がいい男友達もいるけれど、彼らのことを「Brother」とは呼ばない)


付き合い始めた当初、この人はなぜそんなに女友達が多いのか!?と思ったけれど、ともにする時間を重ねて、実際に何人かの彼の友達に会って、そこにあるのは人間愛なのだということが分かった。


そんな彼も決して順風満帆に生きてきたわけではなく、幼少期を複雑な家庭で過ごし、悲しいこともあり、住む家がなくなったこともあるそうだ。

それでも自分の境遇を悲観せず、目の前のことを一つ一つやってきて、きっと今があるのだろう。

自由に生きるというのは決して楽なことではない。

社会の規範から外れる自分を自分で許すことほど難しいことはない。


そんな彼との毎日は、共同創造の繰り返しだ。

何せわたしたちには固定された役割がない。

料理が得意な彼がごはんを作ってくれることが多いが、彼が作ると決まっているわけではない。

5ヶ月を滞在したニカラグアをはじめ、この1年滞在してきた国や場所では日本やオランダのように色々な種類の野菜が手に入らないことも多かった。

食材をどうやって調達し、何を作るか。

見知らぬ土地でどうやって暮らしをつくっていくか。

お互いに様々な役割を担い合いながらわたしたちは「ともに暮らしをつくる仲間」として過ごしてきた。

そんな毎日は決して楽ではないけれど、その中でわたしの中の多様な自己が生き生きと発揮されていることを感じている。


ちなみに生活費は半々で出し合っている。
けれどお互いカードで支払いをすることもあるのでそれも厳密ではない。

わたしは彼のことをパートナーと呼び、彼はわたしのことをガールフレンドと呼ぶ。

けれど、どうやらわたしの思う「ガールフレンド」と彼の思う「ガールフレンド」は違うようで、新しい国に入国するためのカードを書くときには迷いなく「家族と同伴」みたいな欄にチェックをつける。

(わたしは「え!?家族ではないんじゃ」と思うけど、今のところ何か聞かれたり止められたこともない)


誰が働いても料理をしてもいい。
毎日、ただただのんびり過ごしてもいい。

子どもはいてもいなくてもいい。
実子でも、養子でもいい。
がんばって自分たちだけで育てなくてもいい。

情熱を向ける仕事があってもなくてもいい。
決まった場所に暮らしても、そうでなくてもいい。


そんな風に思える毎日は心地いい。

けれどわたしたちには今、叶えられないこともある。

一緒に日本を訪れることだ。

婚姻関係にないわたしたちは、「特段の事情」があるとは認められないので、一緒に日本に滞在することができない。

ここ数ヶ月でようやく「外国人」と呼ばれる人たちのいろいろな形の日本への入国が許されるようになってきたけれど、それでもまだ制限はある。

いっそのこと結婚してしまった方がいいのかとも思うけど、それもどうかと思ったりもする。

今は個々人の健康や医療体制を守るため、大きくは国の治安を守るためということなのだろうけれど、婚姻関係にない人たちが社会的な信頼や保障を得ることができないというのはどういうことなのだろう。

希望する人同士がパートナーシップを結べるというのは喜ばしいことだけれど、誰かとパートナーシップを結ぶことだけが幸せの形なのだろうか。社会で目指す姿なのだろうか(そうではないはずだ)


誰かとともに歩む人生は楽しくて幸せだ。

だけれどもそうではない人生も楽しくて幸せかもしれない。

少なくとも、誰かと一緒にいないからって、何かが欠けているわけではない。

誰かと一緒にいたとしても、その関係性にはいろいろな形があって、それは変化をしていくかもしれない。



わたしたちは「多様性を認める」というお題目のもと、ある特定のゴールに向かうことを続けてはいないだろうか。

ゲームのルールを変えずに、そのゲームの参加者を増やそうとしてはいないだろうか。


ロールモデルのない生き方を自分で認めていく。

それは自分の中の多様な自己を認め、発揮していくプロセスでもある。

それを実践しようとすると、いろいろな壁にぶつかるかもしれない。

だけれども、諦めずにひとりひとりが多様な生き方や関係性を認め合い、体現した先に、「ともにいのちを生きる」世界は広がっているのではないかと思う。




オランダ人のパートナーと暮らしの様子はこちら▼


awaiでは、本来持っている感性や力を発揮し、生き生きといのちを生きていくことに向けた取り組みを開催しています。

最新の取り組みやご案内はこちら▼


この記事が参加している募集

このページをご覧くださってありがとうございます。あなたの心の底にあるものと何かつながることがあれば嬉しいです。言葉と言葉にならないものたちに静かに向き合い続けるために、贈りものは心と体を整えることに役立てさせていただきます。