戦争から目を背けるな

皆様こんにちは。
本田拓郎(Takuro Honda)と申します。
この記事へお越しくださいまして、ありがとうございます。

 このnoteでは、今現在観光業に就いている私が、私の目線で、「観光・旅行・歴史・文化・教育」について、知識や新たな発見の提供、その他自論を展開し、「勉強になった!」「こんな考え方もできるなぁ」という、古代ギリシャでいう、「アゴラ」のような場所を目指します。
 私が勉強していることを皆様とも一緒に学ぶというスタイルで、記事を創っていきます。

 本日8月15日は、日本がポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終結した日です。今年で終戦から75年。戦争の歴史は暗く、怖いイメージを持つ方が多いですが、地球市民である私たちにとって、決して逃げてはいけない歴史です。「人類の過ち」とも言える戦争を、二度と起こさないための教訓が、「戦争史」です。
 今日は、その戦争史を、現代の私たちに伝えてくれる世界遺産3件忘れてはいけない日をご紹介します。少しでも平和を願う気持ちを持ってくだされば良いなと思います。

拙い文章力と乏しい考察力ではありますが、
最後までお付き合い、お願いいたします。

1. 1944年8月1日

 ポーランドの首都であるワルシャワは、ヨーロッパ屈指の大都市として経済や観光業界を支えています。しかし、この都市は第二次世界大戦で大きな被害を受けた街でもあります。

 そもそもポーランドは、石炭が豊富に取れることから、西のドイツ、東のソビエト連邦から狙われていた国。大国2か国に狙われ、幾多の戦火に巻き込まれたこの国は、政治は機能しなくなり、政府はイギリスに亡命

 1939年にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が結ばれますが、ドイツがそれを破ったため、第二次世界大戦が勃発。ポーランドはここでも戦火に巻き込まれることになります。

 1944年8月1日、ドイツ軍の侵攻を受けていたワルシャワは、亡命政府指揮の下、ポーランド国内軍が武力抵抗することを決めます。同日の17時、国内軍が動き始め、「ワルシャワ蜂起」が発生します。国内軍は官庁や駅舎、ドイツ軍の兵舎や補給所を襲撃し、ドイツ軍兵舎と補給所の占領に成功。このままドイツ軍を撤退に追い込むと思われました。

 兵舎と補給所が占領された報告を受けた、ドイツ首相のヒトラーは、即座にポーランド国内軍の弾圧とワルシャワ市街の破壊を指示します。数で圧倒的不利だったドイツ軍でしたが、攻撃力で上回り、国民軍を抑え付けていきます。

 窮地に陥ったポーランド国内軍は、ソ連赤軍へ航空支援を要請するも、ソ連側はこれを拒否。蜂起から1か月経った8月31日に国内軍は南北2つある解放区の内の、北部解放地を完全放棄し、南部へ逃亡を開始します。そして10月2日に降伏宣言を発し、蜂起の失敗が決定します。

 しかし、まだ悲劇は終わりませんでした。ドイツ軍は蜂起終了後にワルシャワ市街地の徹底破壊を開始します。歴史的建築や史跡、史料のほとんどが焼失。街の85%が失われ、市民の66%に上るおよそ85万人の犠牲者を出す惨劇となりました。

 ワルシャワ市民は失われた街を取り戻すために立ち上がります。なんと、街の完全復元と復興を決めるのです。合言葉は「すべては未来のために」。ドイツ軍による意図と目的をもって破壊された街並みは、ワルシャワ市民による意図と目的をもった、「壁のひび一本まで忠実に」復元の下で、見事に復興し、美しい街並みを取り戻したのです。

 破壊前よりも昔のワルシャワの面影を感じるという、復興したワルシャワは、1980年に世界文化遺産に登録されました。歴史地区として世界遺産になっている街は多くありますが、都市全体を再建した世界遺産はワルシャワ以外認められないことになっています。そして、毎年8月1日の17時、「ワルシャワ蜂起」開始の時刻に合わせて、街にサイレンが鳴り、市民は足を止め、1分間黙祷を捧げ、犠牲者を悼みます。世界史上において、絶対に忘れてはいけないピースの1つです。

2. 1945年8月6日

 我が国日本は、世界で唯一の戦争被爆国です。1945年8月6日午前8時15分広島に原子爆弾「リトルボーイ」が、同年8月9日午前11時02分長崎に原子爆弾「ファットマン」が投下され、広島ではおよそ9万人、長崎ではおよそ7万5千人もの命が奪われました。

 中でも広島は世界で初めて原子爆弾が投下された場所であり、核兵器の恐ろしさを現代に伝え、「核のない世界」の実現を目指す、世界のリーダ的都市です。

 それを象徴していると言えるのが、原爆ドームです。原子爆弾で大きな被害を受けた街の中で、骨組みと外壁の一部が残り、世界平和を強く願う大きな意味が込められています。

 戦後当初は、惨劇を想起させるものなので取り壊すべきか、世界平和を後世まで伝えるために保存するべきかで大きく意見が分かれていましたが、被爆して亡くなった楮山ヒロ子さんの日記の内容がきっかけとなり、1966年に広島市議会が永久保存を決定します。

 戦後51年を迎えた1996年、原爆ドームは世界文化遺産に登録されました。ユネスコは、

「歴史的価値や建物としての価値は認められないが、
世界平和を目指す活動の記念碑として、世界でも他に例を見ない建物だ。」

として、「世界平和」への象徴的役割を担う世界遺産として高く評価しました。しかし、アメリカと中国の2か国が、登録に反対の姿勢は示さなかったものの、決議後に声明を発表します。アメリカ側の見解としては、

「原爆ドームの世界遺産推薦には、歴史的視点が欠如している。
核兵器の使用は、第二次世界大戦を終結させるために使用し、
1945年を迎えるまでの歴史的精査が必要。
世界遺産に戦争関連の物件を登録する妥当性を審議することを要望する。」

中国側の見解としては、

「第二次世界大戦中にアジア各国は、侵略・略奪などを経験し、
その事実を否定し続ける人が、少数であるが存在している。
この世界遺産登録がそのような人によって悪用されないとも限らない。
国際平和維持に良い効果を上げるものではない。」

 ポイントは、核兵器使用の正当化、歴史認識を改めるべきだということ。しかし、2020年8月6日、アメリカのロサンゼルス・タイムズに「日本に原子爆弾を落とす必要はなかった」という論説が発表されました。最近の若年層は、「核兵器の使用は許されないことだった」という意見を持つ者が多いとも言われています。この論説は、これから大きな議論を生みそうですが、日本は原子爆弾で多くの犠牲者を出したという事実は変わりません。

 日本は、広島と長崎を先頭に、核兵器のない平和な世界の実現へ、常に前進しなければいけないと私は考えます。

3. 1954年3月1日

 マーシャル諸島という国は、人口およそ6万人という、太平洋に浮かぶ小さな島国です。タックス・ヘイブンと知られ、近年では、美しい海とサンゴ礁を軸に、観光業への注力も見られています。

 そんな美しい島国は、1946年から、アメリカの核実験の標的となってしまいます。終戦からわずか1年での悲劇とも言えるでしょう。

 マーシャル諸島で行われた核実験は、全部で67回。その内、23回もの核実験が行われたのが、ビキニ環礁です。そう、水着のビキニの名前の由来はここ。ビキニの製作者が、肌を覆う部分の小ささと、周囲に与える興奮が破壊的であることを、ビキニ環礁での実験に使われた核兵器に例えたことから名前が付いたと言われています。

 多くの核実験の中で最も有名なのが、1954年3月1日に行われた、キャッスル作戦ブラボー実験。この実験では、原子爆弾よりも強力な威力を持つ、水素爆弾が使用されたことで知られていますが、この核実験が、再び世界を震撼させる大事件になるのです。

 近海で操業していた漁船数百隻が被爆したのです。その中には、日本のマグロ漁船、第五福竜丸が含まれていました。さらに、近隣の環礁には、「死の灰」と呼ばれる放射性降下物が降り、およそ2万人が被爆しました。

 これだけでは終わりません。核実験が行われた島は、水素爆弾の威力で消滅。直径2㎞のクレーターが出来ました。ブラボー実験から、「ブラボークレータ―」と呼ばれています。そして、28種のサンゴが絶滅。人間だけでなく、豊かだった自然も、大きな被害を受けたのです。

 このブラボー実験は、史上最悪の被爆事故と言われ、多くのものに影響を与えました。被爆したマーシャル諸島の原住島民たちは、住んでいた島が放射能に汚染され、移住を強いられました。そして、現在も帰島できていないままです。代々守り続けた島に帰ることなく亡くなる島民も多く、社会問題として取り上げられることも多いです。

 映画界にも大きな影響を与えます。『ゴジラ』の誕生です。ビキニ環礁での核実験の悲惨さから着想を得た「水爆大怪獣映画」は、日本だけでなく、世界中で大きな話題となります。放射能を吐く怪獣として、核兵器の恐ろしさを伝えるとともに、人間が生み出した核兵器によって現れた怪獣を、人間自ら処分するという、人間の身勝手さを表現しています。

 ビキニ環礁は、2010年に世界遺産に登録されました。自然遺産ではなく、文化遺産として。美しい海洋に囲まれているにも関わらず、文化遺産として登録された背景には、「核の時代」の幕開けを象徴するものであるいうことがあります。

 失われた生態系やアイデンティティを取り戻すのは難しいです。マーシャル諸島で失われたそれらは、いつ、国民に返されるのでしょうか。

4. 「戦争史」を学ぶ意味は

 「歴史」は暗記科目ではないです。まぁでも、カテゴリーによっては暗記科目ですけどね。中学生、高校生までは暗記科目と思ってもらって大いに結構。受験ツールとして考えてもらって大いに結構。

 しかし、大学生、社会人になると、暗記科目として捉えてはいけません。歴史上で何が起きて、それを今、そして未来にどのように繋いでいくか、考え、行動していくことが、私たちが今を生きる意味でもあると考えています。

 「戦争史」は、歴史を構成する一部に過ぎませんが、冒頭にも述べたように、私たちが絶対に向き合わなければいけない歴史です。暗く、怖いですが、目を背けてはいけません。事実として捉え、二度と戦争を起こさないように考えていくことが、私たちの責務です。

 「歴史」にとって重要なのは、認識の仕方ではなく、考察の仕方です。「過去起こしたことを謝れ」とか、「やっていたことが間違っていたと認めろ」ではなく、同じ過ちを繰り返さないように、未来のために歴史からヒントを得て、世界を創ることこそ、歴史がある意義だと私は考えています。

今回も最後まで読んでくださいまして、誠にありがとうございます。
また次回お会いしましょう。
Ciao...

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