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名作コラム・ボルヘス「ばら色の街角の男」「刀の形」 ~語り手が嘘を付くその理由~

 さて今回の名作コラムは私の愛読書であるボルヘス作品を取り上げようと思います!(=゚ω゚)ノ
 ボルヘス作品に一度でも触れた経験のある方はご存知かと思いますが、その無数の短篇、詩篇、エッセイの中で古今東西の様々な手法や技巧を使用していて、”ボルヘスの特徴はこう!”という事が出来ず、ひとつの作品についてそれぞれ数篇のコラムが書けるほどの密度を持ちます。
 と、言う事なので今回は「ばら色の街角の男」(『汚辱の世界史』1935年)「刀の形」(『工匠集』1944年)の二篇、技巧として信頼できない語り手という手法を使ったものを取り上げたいと思います。

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 信頼できない語り手、つまり物語の本筋を語る人物が本当の事を語っているのが読者が疑問を持つに値する、現代小説の基本にもなっている手法の一つです。
 実際は100年以上前の古典から使用されていて、代表的な作品はポーの「黒猫」でその後、ビアース「月明かりの道」、クリスティ「アクロイド殺し」、ケイン「郵便配達人は二度ベルを鳴らす」、そして日本の芥川「藪の中」と名作が並びます。

 実は一人称でも実存論小説、カミュ「異邦人」などは”(アウトサイダー的思考を)可能な限り誠実に伝えよう”という根幹に寄って描かれており、信頼できない語り手とは距離を置き、視点を重視して描かれていると言えます。

 では何故、信頼できない語り手を著者は選ぶのでしょうか?

 やはり一番多いのは推理小説的な効果です。代表的なのはアガサ・クリスティの「アクロイド殺し」「そして誰もいなくなった」で、語り手の手によってトリックやミスリードが実行され、いわゆる叙述トリックを成立させているというものです。
 もう一つがホラー効果。これはポーの「黒猫」からラヴクラフト「アウトサイダー」などを起源にするもので、主格の幻覚や幻聴、あるいは勘違いが一種のミスリード効果を生んで、最終的な転換&結末部分で大きな効果になる、というものですね。
 最後の一つが、齟齬や視点のズレ。これは芥川「藪の奥」やヘンリー・ジェイムズの多数の作品に言える技巧です。一つの物事、あるいは一人の人物でも、それを捉えている人物が異なると全く違う印象や事実が浮かんでくる、という手法です。この手法は上の2つの手法より更に現代小説的な効果をもたらして、第一に”作品上の文脈的事実からは、事象の事実&真実が特定できない””読者の読み方次第で結末が決まるミステリー的効果が有る”と、この二点が挙げられますね。

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 ではボルヘスの「バラ色の街角の男」「刀の形」はどう言った作品なのでしょうか?
 いずれも語り手は一人。
 「刀の形」は、語り手や仲間を裏切った男が、その代償に頬に刀傷をつけられ、必死の体でイギリスから南米に逃れる、と言う話をする物語です。
 一般的に語り手はその裏切り者―――ヴィンセント・ムーン―――を探しに南米に来たという流れになりますが、実際は語り手がムーンその人だった、というなりすました語り手です。
 実際に本編の語り口も、ムーンを第三者から見る視点とムーン自身の視点が交錯し、慎重に読むと様々なヒントが散りばめられているのに気付きます。
 「ばら色の街角の男」は、名もなき第三者がボルヘスを相手に”二人のガウチョのボスと愛人の間に起こった殺人事件”を語る物語です。単純に考えれば語り手が殺人犯という事になるのですが、実際は愛人を庇った真実、あるいは姿を消したボスが真犯人という真実、更に言えば姿を消したボスが実は語り手だった、という所まで踏み込める作りになっている作品です。
 この2作品のいずれも、「語り手が誰かになりすましている」可能性を加える事で、本編の視点に対する疑問、つまり”この場面を視られるのは、実はあの人物じゃないのか?”という可能性を付加出来て、一人称でも特異な効果が出てくる事を証明していますね。

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 最後にさらの後期になって発表されるボルヘス「不死の人」に少し触れましょう。
 これはローマ時代の部隊長が不死の小川の水を飲み、その後不死の街で暮らし、更に定命に戻るための小川を探すのに現代まで時間を必要とする、という事を『イリアッド』の余白に顛末が書いてあった、という作品です。
 これは信頼できない語り手の究極系で、物語自体、二人以上の主観が混じり合ってポリフォニックに描かれ、結論として”仮に人間が不死となったら、あらゆる英雄や大詩人の経験をして誰の主観を用いても同じ事”という、一人称が多人称と同値、という物語だったと明かされる形式です。
 これは信頼できない語り手ではありませんが、多人称・ポリフォニーを用いたフォークナー「死の床に横たわりて」と比較して読むと面白いかと思います(・ω・)ノシ

 主観の問題は云わば読書の幅、読者の選択の余地を増やす要素です。一本道の隙の無い物語の傑作も多いですが、以前「人頭獣体のミノタウロス」で語ったように、100%著者の作品と言うのは世の中に存在しませんので、
 現代に入り、書き言葉の匠たちがその性質を十分利用した作品を楽しむのもとても良いと思いますね。
 では今宵はこのへんで(・ω・)ノシ

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