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アヴァンギャルドな開発日誌vol.10 『アートについて話すときに気をつけていること』
毎週末は肩の力を抜いて、運営のウラガワをお伝えするアヴァンギャルドな開発日誌をお届けしています。
さて、アートのメディア運営を行なっていると、アートの話題をすることも多く、そんな時にお互いの知識量や仲の良さを問わず、うまくいく時とうまくいかない時があります。
なんでそんなことが起こるんだろうと考えた時に見えてきたものがあったのでそれを今日は書きたいなと思います。
前提を共有すること
まず失敗するパターンをみていくと、言葉の定義が不明確であることが多いんです。例えば「アート」という言葉においても何を指すのかはざっくりと定まっているんですが、その会話の中で芸術作品のことを言っているのか、とある人の考え方なのか、はたまたアートと一般的に捉えづらいものだったりする場合もあって、スタートの時点でコミュニケーションが崩壊してしまうパターンがあります。
定義があったとしてもそれが感覚的・抽象的であって、事象ごとに変化するものだからこそ結果としてそれがコミュニケーションの中でのズレに変わることがある。
その中で定義とともに前提を共有することでコミュニケーションが比較的取りやすくなってきました。
前提の共有とは相手との合意が取れた考え方であり、これによって論点を絞ることができます。
前提とは例えば、「アートとデザインは正反対の意味を持ち、同時には存在し得ない」であったり、「アートとデザインは両方を兼ね揃えたものも存在し、その混じり合う比率はグラデーションのように無数に存在する」というものであって、もし、これが共有されていない状態で相反する考え方だった場合、議論が前に進むことがなく、結局はこの前提の確認に戻ってくるというすれ違いコントのような結果になってしまいます。
だからこそ、前提の合意を取った上で絞ったテーマの中で議論を進めていき、議論が白熱して違うフィールドになったときにまた合意できる前提を確保した上で進めていくという方法が1番の近道であると感じています。
ちなみに前提が合わない場合は合うまで探り合うしかないですね。もしくは途中で前提が崩れてしまうこともありますが、その時はその学びも含め、改めて前提を組み直していくことで確実に議論を前に進めることができます。
アートを議論すること
こうした議論の中で「アートという感覚的なものを言語化するというのは陳腐ではないか?」という問いも当然出てきますよね。その意味では言語化する目的が明確でないといけないと思っていて、それは他者とのコミュニケーションでしかないとも思っています。
究極的なことをいうと他者とは全てをわかりあえないという限界があって、その中でもそれに近づけようとするプロセスが言語化であり、論理だと考えることで気づきや発見を繰り返していける。
そこには新しいものはなくて、ある種の学びなおしになるのかもしれません。が、その解像度をあげていくことが結果としてアートと出会った時に感じることの幅が増えたり、もしかするとそれまで気づけなかったアートを認識できるようになるかもしれません。
こうしたアートを対話するイベントも行っていきたいですね。読者のみなさんともそんな話ができる日が来ることを密かに練っていたりします。
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