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「障害者」と「健常者」のはざまで

電車の中で大人が1人で騒いでいる。
その人には何かしらの「障害」がありそうだと、その場にいた私は直感した。
周りの人は一瞥して何かを察し、何事も無かったかのようにスマホに目を戻す。
ぶつかられそうになった人はただ黙って車両を変える。

私も、無反応を決め込んでいた。

自分もこうして社会から存在がなかったことにされてしまうのではないかという恐怖に怯えながら。

・・・・・・

あの場で「健常者」だった私は、別の場面では支援が必要な「障害者」だ。
いつでも「立場」が逆転することはあり得る。

自分の障害に診断名がついた時、その「障害」について本やインターネットで情報を収集した。
本には、医学的にわかっている情報に加え、誤解や無知により不当な扱いを受けてしまう例があるという現状について触れられていた。
インターネットには、心無い言葉や当事者が受けた差別が生々しく書かれていた。
だから私は、私を支援してくれる人以外には一切自分の障害について明かさずに生きている。
同じ「障害」がある人に対する心無い言動を見るたびに、自分の置かれている環境に恐怖する。
障害をカミングアウトしなければ配慮を求めにくく、多数の人より不利な状況を黙って受け入れるしかないこともある。
「障害」について困っていることが、「障害」のせいで言い出せない、負の連鎖だ。

一方で、私も「障害」を障害たらしめることに加担している。
差別や偏見を見た時、私は沈黙を貫き、無知を装う。
私は自分の当事者性以上に説得力のある、差別や偏見を否定する根拠は持ち合わせていないし、そこで何かのアクションを起こすことには自分が差別や偏見の対象であることが露呈するリスクが伴う。
差別や偏見を積極的に助長しこそしないが、決して否定はできていない。
その黙認はいじめと同じで、れっきとした加担である。

・・・・・・

差別や偏見というのは、電気や水の無駄遣いより分かりにくくて、改善しにくい。
なかなか数値化しにくいし、どう行動したらいいかも分かりにくい。
エアコンの設定温度を上げたり、節水のシャワーヘッドを使ったりするようには簡単にいかない。

それでも、ただ黙っていたらいつまでもこのままだ。

いまの私にできる精一杯は、こうして匿名で文章を書くこと。
実名で何かをするのはどうしても怖い。

だけれど、一人、また一人と見て見ぬ振りをしない人が増えたら。
そこにはきっと、今よりあたたかい未来がある。

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