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欲に関する自分研究

人間の三大欲求、食欲・性欲・睡眠欲。

それが今の私にはない。

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マズローという心理学者が、欲求の5段階説というものを提唱したらしい。
人間の欲求は低層から「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」の順で5つに分かれたピラミッド状の階層になっているという理論で、低い階層の欲求が満たされることによって次の段階の欲が出るようになるという。


私の欲求は、その階層がぐちゃぐちゃである。

食べたい/寝たいといった生理的欲求が満たされなくても、様々な代償と引き換えにその欲求を見ないふりして活動することができる。
その代償である拒食・過食や徹夜は安全欲求に正面から対抗するものであるし、服薬放棄だって、自傷だって、自暴自棄になって健康ごと放り出した証拠だ。

なのに、生理的欲求や安全欲求より上に位置する社会的欲求はとても強い。
恋人のような等価でいつ裏切られるかわからない関係では無く、ただ無条件に、一方的に愛されたい。
親から無条件の愛情をもらえなければ、それ以降社会に出ても、どうもその欲求を満たすことはできないらしい。
だから一部の人は、「お金」という条件に目を瞑り、あたかも無条件に愛されているような錯覚を求めに行くのだ。

私は、社会的欲求のさらにその上の階層である承認欲求によって、社会的欲求がもう満たされ得ない現実から目を背ける。
これまでの階層の欲求にから逃げるように、世の中で認められるような成果を求める。

マズローの言う、「低い階層の欲求が満たされることによって次の段階の欲求が出るようになる」ということは、私には当てはまらない。
私はあのピラミッドを、三次元では無く二次元で捉えているのかもしれない。
つまり下から積み上げていくものでは無く、どこか一つが満たされればそれ以下も全部ひっくりかえる、オセロのようなギャンブルに人生を賭しているのだ。
だから、社会で成功するためには、食事や睡眠、精神的健康が犠牲になってもいい。
その犠牲を払ってでも得た成功は、今までの私の人生の穴を埋めてくれるようなものだと、そう信じて、それに縋って、なんとか生きている。

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欲、というのは、満たされている時には自覚されない。

私に三大欲求が無い話をしよう。
私が欲について普通では無いことに気がついたのは、本当につい最近のことだった。
食欲・性欲・睡眠欲は全て、一番下の階層である生理的欲求に属するものだ。
それが満たされないどころか「無い」らしいということを認識するためには、誰かに“普通の“欲について語ってもらう必要があった。


食欲というシステムが壊れたのは、摂食障害をやったとき。

毎日摂取カロリーを計算して、それが基礎代謝の8割に収まらなければならなかった。
栄養が足りなくて本能は食べたがっているのに、「理性」が食べ物は悪だといってどんどん痩せていった時に、お腹が空く感覚は忘れた。
その時は1kcalでも摂取を減らしたかったのに、インターネットで料理やスイーツの情報ばかり調べていた。
だから、私にとって食欲という欲は都合が悪かった。
それを見ないふりする必要があった。

その後、しばらくして過食に転じた。
苦しくてもう食べたくないのに、泣きながら食べ物を詰め込むようになって、お腹がいっぱいになる感覚もわからなくなった。

今でも過食欲はでることがある。しかしそれは、食欲ではない。
過食欲が出る時、必ず食に対する醜さがついて回る。
空腹や満腹といった感覚を取り戻すことはもうできないのではないかと思うと、えも言われぬ空虚に襲われる。


性欲というシステムも、無い。

物心ついてからの過半数を抑うつ状態で過ごしているからないのかもしれない。
もしくは、性に関することはとても穢らわしいことだという価値観を植え付けられてきたかもしれない。
そして、性欲が発達する前にトラウマができてしまったことも、大きな理由なのかもしれない。
とにかくこれについては、これ以上に語り得ることがないほど、無縁な欲だった。
他の二つの欲と違い、あったものが壊れたのではなく、もともと無いらしい。


睡眠欲というシステムも、あるところで壊れてしまった。

あまりの持ち帰り仕事の量に眠いのに寝られず、過食してでも自傷してでもなんとか覚醒状態を保ち続けた日々。
誰も助けてくれなかったし、自分でもその環境がおかしいと思えないくらい、パワハラに支配されていた。
そんな私が敵にとったのは、環境ではなく、自分の睡眠欲だった。

あとは単に、中学生くらいの時に、自分の部屋もない息苦しい実家で唯一一人になれる空間が、深夜のリビングだった。
あの時間だけは、寝静まった住宅街でも、なんとも言えない暖かさがあった。
世界に、親の付属品としてではなく、一人の人間としての私の人生が受け入れられているような気がした。

眠ればまた朝目が覚めて、日常が繰り返されるだけだ。
辛い人生が続くことがわかっているのに、寝たって良いことはどこにも無いように思えた。
気がつけば、「眠い」は「寝たい」ではなく「死にたい」に変換されるようになっていた。

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いまでも、仕方なしに、徹夜で仕事を終わらせることはある。
本当は寝られるに越したものはないことは頭ではわかっているし、無条件に眠気が希死念慮に変換されて辛くないわけがない。
でも、その辛さを乗り越えた先にある、明け方だんだんと空が白んでカラスが鳴き、新聞配達の音が聞こえてくるあの時間が大好きだ。

窓から優しい風が吹いてきて、ふと外を見やると空がほの明るく、私のパレットからは作り出せないような美しいグラデーションになっている。
眠ろうとする身体を無理やり起こし続けてまで取り組もうとした仕事の手を止め、窓際に座って、イヤホンをつけて、深呼吸をする。
あと数時間もすれば街はまた喧騒に包まれるだろうというのに、この瞬間、こうして空を見上げてぼんやりとしている人は、世界に自分だけのような気がしてくる。
あの平穏は、私と、人々を起こさぬよう静かに空をゆく鳥だけの内緒だ。
あの瞬間だけは、たとえ睡眠欲が無くなったとしても誰にも奪われたくない。

そんな時に決まって聞く曲を.

願っても満たされないなら願うだけ無駄なのだ。
人はそれを学習性無力感と呼ぶ。
まるで実験装置に閉じ込められたラットのようじゃないか。


それでも、たった一瞬でも世界を自分のものにできる限り、たとえ三大欲求が無くても私は人間であり続ける。

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