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人生の半分オーストラリアに住んでみて「ふっ」と振り返ってみた。 第1話

今年でオーストラリアに初めて渡航して27年が経っていた。最近はオーストラリアでの仕事も生活も充実して、これまでこのような事を振り返る事もなかったけど、新型コロナウイルスの影響もあって時間が余裕ができたのか「ふっ」と振り返ってみた。

このような自分の半生を公共の場所に公開するのもどうなのかと思ったが、20年以上前のあの日の出来事からここまでの道のりは、数人の友人には多少掻い摘んだ形では話した覚えがあるが、全てを語った覚えはない。そこで普段日記などをつけない自分なのでこの”note”との出会いをきっかけに書き留めていこうと思います。

簡単に自己紹介をすると、昭和40年代の東京生まれ東京育ち、質素でもなく裕福でもない普通の家庭に育ち、学校の成績も良くもなく悪くもない中程度、高校の成績も当時の有名大学には手も届かず、惰性で専門学校だけは卒業して初めての就職先はIT関連の会社。現在はオーストラリアの現地企業で営業職として働く。

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沖縄への旅立ちの日

このオーストラリアへの道のりで欠かせない場所がある、それはズバリ沖縄の石垣島との出会いである。オーストラリアなのになぜ石垣島・・・、と少し遠回りになるが、この石垣島での生活がなかったら恐らく今の海外に住む自分はいなく、そして今ころは東京で会社員をして違う家庭を持って生活していたのではないかと思う。まあもしかして今よりも充実して生活をしていたかもとか考えもしたことはこれまではなかったが、自分では今が正解と受けとめてきたし、今現在もそう思っているのが本音だろう。

さてさて沖縄に旅立ったきっかけを簡単に。初めて就職したIT関連の会社はIT技術や社会人常識も学ばしてもらい、上司とも仲良くとても感謝している。その当時の上司は現在も帰国の際には盃を交わす「友人」でもある。退職時の仕事もプロジェクトのチームリーダ的な立場で部下も4-5人いた感じ。ただ先に述べたようにIT関連の会社には惰性で就職してしまった経緯もあり、自分がやりたい仕事ではなかった事を常々感じてはいたが、勢いで購入した高級車のローンがあり維持費もあり辞められず、またまた惰性で続けていたような思い出がある。そんな生活を送る中、ある重要な1つのプロジェクトが落いた頃で仕事を抜けるのに良いタイミングだったのと、そのプロジェクトチーム内で色々面倒なことも発生したタイミングであり、今でも友人の上司に退職したい旨を相談したところ、とりあえずは長期休職を、という流れになった覚えがある。

てな感じで、いきなり仕事から開放され、「さてどうするか?」と一番に思い立ったのが、今まで忙しくなかなか行く機会もなかった当時の夢だった「沖縄離島めぐり」で、そして人生を変えるきっかけになったあの日が訪れるのでした。

取り合えず今回はここまでにして、これから数回に分けて書き留めていこうとおもいます。今回1回目を書いてみたが予想以上に書くことがあることにきがついたので、なんか長期連載にでもなる予感です。


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