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あなたは何で語る?子どもの成長・発達、もしくは育ち

大学院に入ってよく考えさせられるのが、自分が使っている言葉の定義や意味の曖昧さ。例えば「保育」という言葉を頻繁に使うが、「では、その保育って言葉、どういう意味ですか?」と尋ねられたら、どう答える?

辞書的な回答も出来るし、社会一般で使われている言い方も出来る。でも「自分なりの言葉」だとどう答えるか。

結構、悩むな。

でも、ってことは「曖昧でぼんやりしている言葉」を普段から使っているということになる。もちろん、ぼんやりしていることを否定することではないが、学びの中ではその言葉をハッキリと定義付けしておくことで、他者と同じ目線で語り合いやすくなるそうだ。だから自分なりの解は持っていたいし、流動的で多様でも良いが、こうして自分が普段から使っている言葉や概念と対峙することはヒリヒリする一方、面白みも感じる。普段からあまりそうやって自己対峙するのが苦手な僕には良い経験である。補足としては、僕は僕個人でする自己対峙が苦手だが、他者との対話で出会う自己対峙は好きだ。他者、つまり自分とは違う存在と出会い語ることで、自分を知ることが出来る。とっても心地よい時間である。だからそんな心地よい語りが出来る環境を整えることも大事で、カフェでも居酒屋でも良い。焚き火ならなおよし。だって心が解放されて、素の自分に出会えるから。あ、森の中の散歩も良いね。


さてさて、お話はもう一つ。自分が使っている言葉の意味を認識させる一方、普段からどんな言葉を選び使っているかも大事になってくるようだ。授業「保育学特論」で内藤先生と著川田学「保育的発達論のはじまり」の輪読をしているが、その中で「あなたはどの言葉を使ってる?子どもの成長、子どもの発達、もしくは子どもの育ち」。使っているか言葉で、その人の子ども観や保育観が表れるというのだ。とても興味深い。

僕はよく「子どもの発達」と言う。クラスメイトは「子どもの育ち」という。僕は無意識にお便りなどで発達と使う。彼女は保護者との会話の中で「丸みを帯びて分かりやすい」と育ちを使っているそうだ。こっちがどんな子ども感で、そっちがどんな子ども観なのかはまだ分からないが、これから調べたい一つだ。そして使う言葉の違いによって子ども観や保育観が違った場合、その先に保育方法も違うかもしれない。そして当人の生育歴も違ってくるだろう。

いま、僕が立っているスタンスも、今までの生育的が関係してくるし、はたまた、歴史の繋がりも大きく関わってくるだろう。プラトン・ルソー・デューイ、彼を知り、そんな歴史の広さと深さの面白さにやっと出会った4月の終わりでした。さぁ、5月からさらなる新生活。先の見えない旅が始まるが、レールに沿った旅行ではなく冒険していこうと思います。


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