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Well Jiing !! 第4章、お葬式のニーズ(3)前編

前章に続き、寺がお葬式で与えられることを考察していきたいと思います。
お葬式ニーズで遺族がワカラナイ不安を大きく4つに分けています。
(1)今、何をしておけばよいのか
(2)いざというとき、どうしたらよいのか
(3)結局、何をどう考えればよいのか←今回の考察
(4)そして、いくら用意すればよいのか
 
第4章、お葬式のニーズ(3)前編
~結局、何をどう考えればよいのか~

◎葬送の意義

死は、本人とこれからも生きゆく人、双方に影響を及ぼすものです。
そのためお葬式も、死にゆく人と、これからも生きゆく人、双方の視点から見つめ直す必要があるといえます。

では、これからも生きてゆく人は何をどう考えればよいのでしょうか?
まずは、死にゆく人のために、人生を肯定して頂きたい。
そして、生きゆく人のために、現実を受け止めるための時間や場所を用意して頂きたい。と切に願います。

死にゆく人と生きゆく人、2者のために考え、できることを行う。その結果(あるいはその過程が)、死を介してこそ滲み出る生の肯定、ひいては同時代や次世代を生きゆく人のためのかけがえのない葬送を実現するのではないか。と考えているからです。

◎死にゆく人のために、人生を肯定する

家族をはじめ、本人と生前に関係をもった方々は、共有した時間も思い出も異なります。それぞれが思う本人の有り様は多様であり、その分だけ、「生きた証」が故人様には存在するともいえます。

「亡くなってしまったことは悲しいけれど、出会えたこと、生きていてくれていたことに感謝してる。」
「恨みも挙げればきりがないけど、色々と与えてくれたよね、ありがとう。」

他者を肯定する姿勢を持つことは巡りめぐって自身のためとも言える行為。仏教にはそれにふさわしい教えがあったはずですし、死者に対してだけでなく、ひるがえって日常生活においても大切な心掛けや教えは、このような時にこそ身にしみる大切な時ともいえるでしょうか。

生きる上で大切な行為を身につけるためにも、故人様と対話し、写真を見返し、想いを手紙に記してみてください。

それらは、死に際してご遺族に推奨できることといえます。
(俯瞰すると、布教の一環ともいえると思います。)

そのような行為を手助けするのが、生きゆく人のために、現実を受け止めるための時間や場所を用意することです。

◎生きゆく人のために、現実を受け止めるための時間や場所を用意する

死という現実を受け入れるには、時間も大切です。急なご逝去、長年の闘病の末のご逝去、死の前後の時間は様々に考えられますが、共に生きてきた時間の分だけ思い出が沸き上がり、感情も相まって、死を整理することは困難を要することです。

また、明日からの将来的な不安という要素も加わる状況にあるご遺族は、まさに「何をどうしたらいいのかわからない」という心境に陥ってしまいます。そのような状況で葬儀の具体的な打ち合わせ…それはとてもご負担の大きいことですし、仮に大切な行為を飛ばしてもその時は気づかないかもしれません。

簡単に死を受け入れることは難しい。レジリエンス(精神的回復力)も人それぞれです。故人様、ご遺族、双方に意味のある葬送を実現するために、少しずつでも気持ちを落ち着かせながら葬儀の日を迎えていただきたいと思う次第です。

できれば少しでも気持ちが落ち着く場所で。ご自宅が難しければ、お寺を頼っていただき、ご安置し、まずはゆっくりと対話の時間を持っていただきたいと願います。

◎お寺が、故人様とご遺族のためにできること

「死にゆく人のために、人生を肯定すること」、そして「生きゆく人のために、現実を受け止めるための時間や場所を用意すること」。その2点はお寺が支えることのできる事柄です。

前回触れたように、ゆっくりと面会できるご安置はお葬式の大切な一つの要素です。ご遺体を介した故人様との対話をもたらすために、安らげる場でご安置を。

そして面会にこられた方にお声がけすることも、葬送の一部です。自宅安置の場合、枕経がその機会にあたります。ご遺族や弔問者の心理状態や様子の把握は、葬儀での法話の内容にも影響することでしょう。故人様の初めて聞くエピソードも様々に拝聴できるかもしれません。

あらゆるタッチポイントは、お寺からの法話や対応に加味され、これからを生きゆく人のために昇華される。その過程でお寺とご遺族の親和性も高まることでしょう。

お寺は、故人様の過去の人生を集約して、次の世界へ向かうためにふさわしい戒名を授ける。意味のあるお経を捧げる。

その時、故人様のことをどれだけ知っているか、は重要な事実になるとも考えます。

◎「戒名必要」「お寺必要」は伝え方次第

火葬式をはじめ、仏教に頼らないお葬式が増えている現実を鑑みると、戒名やお経、法話の意義を伝えきれていない事実があることを、ひも解いてみる必要はありそうです。

市民の一定数がなぜ「戒名不要」「お寺不要」と思うのか?
戒名が不要であれば授戒の儀式が不要になるのは必定です。戒名はいらないけれど、お経は上げてほしいというニーズは、今はまだ存在しますが、しかしそれも次の世代になったときにどうか。

というのも、どのお寺の檀家でもないご遺族が、今、「お経はせめて上げてほしい」というニーズを持つのは、おそらく祖父母や父母のお葬式でお経を上げてもらうのが自然なこととして経験し、認識している方々だと思うからです。

逆に、火葬式で祖父母をおくったお孫さんには、お経とお葬式が結びつかない時代が徐々にやってくると考えられます。ご遺体との対話も、葬儀も、法事も、経験していない。記憶にない。

お孫さんが悪いわけでもなく、火葬式が連続すれば必定に、「お寺が介在しない葬送」が当たり前の選択肢になります。そうなると両親の葬送も火葬式がファーストチョイスになるでしょう。

さかのぼれば昨年や今年にお葬式をされたご遺族に、各お寺が「戒名の意味」「お経の意味」「意味のある法話」を伝えきれているか?
今まさにお寺が行っている行為の結果にこそ、お寺の未来はあるといえるではないでしょうか?

お寺の世界からふと少し俯瞰して、「価値を与えられているか?」遠まわしに言えば「お寺の価値」を感じて頂いているか?考えて頂きながら、改めて弓を引く時間が来ているのかもしれません。

火葬式が普及すればするほど、「戒名不要」「お寺不要」につながる。そのスピードは情報社会ゆえ、過去に比べて速い。

伝えることが大切だとすれば、話は伝える方法論に行きつきます。

お寺がご安置や枕経でご遺族や弔問者と対話し、ご遺族等は故人様と対話する。次に葬儀で、「戒名の意味」、「お経の意味」「意味のある法話」を届けてもらう。

私は決してお寺の未来を後ろ向きには捉えていません。
お寺と故人様との対話も含めると、お寺はやはりかけがえのない存在に今後もなりえると思います。

葬送の場で、お寺は死にゆく人と生きゆく人、両者のために様々に与えることができる。

その方法論について、継続して次回考察させて頂きたいと思います。

長文お読み頂き誠にありがとうございました!


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