ヴェネツィア日記 (フランス留学記 10・11月)

はじめに・・・
フランスシリーズ第3弾は、旅行記と小説の間のようなもの。
イタリアに一人旅した記録、ちょうど立原道造を読んでいたのだった。

*10月29日 まわって 30日 0時過ぎ リヨン

 無為に遊んですごした10月のグルノーブルを脱して、いささか古典的で教育的なヴェネツィアに向かおうとしている。
 リヨンでバスの乗り継ぎをしようとしているが、ヴェネツィア行が来るまでまだ1時間ほどある。バスが停車するらしい場所の前にあるもうとっくに店をしまったのブラスリーのテラスに入り込み、冷たい風を避けつつこれを書いている。この寒さの中、誰に読まれるとも知らぬ文章を書きつけているのは、さながら孤独な遭難者のようである。この旅は私の固有の寂しさを見つけるためにある。それをヴェネツィアの島々に、運河に、石に、洗うためにある。彼の地の厳しさにひれ伏し、それらを刻み付けるためにある。
 存在の寂しさを見つけるために、人間的な単純な孤独が必要なのかどうか定かではない。ただ存在の寂しさから逃れるために、人間的な単純な喧騒が有効であったのは近頃の忙しない生活の証明しているところである。私は秋の深まる澄んだ空の下、新たな花を摘んで、適当な花瓶に挿してまた机の上に並べたのだった。私にはこの花たちに呼びかけることがまだできないでいる。ああ花たちよと、このよほど思慮の要らぬ頓呼法が発せないでいる。ただふと思いつくごとに水を替えて、彼女らが少しずつ色褪せ首を垂れていくのを見守る冷酷さである。

8時過ぎ ミラノ

 断続的な眠りのあと、バスはミラノに停車している。南方に来て、南方の空と南方の屋根を見る。添乗員たちが4人集まり何やら大声で議論しているが、そこで何かが建設されることはないだろうと思う。音のならないイヤフォンをして、後ろの座席から聞こえる南方の言葉を聞く、朝の斜めの光の中で、なぜだか全てが不機嫌であるような気がしている。
 ツイッターを見て、くだらない英語のツイートを目にする。ああ、とこれなら言える、侘び寂びがthe magnificence of the imparfectionと表せるのだとしたら、世界はどんなに壮大で澄明だろうか。星と星のコミュニケーションはどんなにか美しい星座を生むだろうか。ばかばかしい。この一言も書かずにはおられないのである。私は生まれてこの方、元気であったためしがない。

*10月31日 9時過ぎ ヴェネツィア本島行きの電車

 昨日はチェックインの時間より早く着いてしまい、結局ホテルのあるメストレから本島まで出て歩きまわった。ヴェネツィアはすべての建物がつながっていて、島一つが演劇装置のようである。日が暮れてくると、何かものすごく寂しい街であるという印象が強まった。きっとディズニーランドのように大挙してやってきては帰っていく、私たち観光客のせいなのだろう。ヴェネツィアの人々はそれを、石の中からじっと見て、何も感情を動かさないだろう。この紙の街の寂しさに、少なくとも詩を書いて帰りたいと思った。
 今日はといえば、ヴェネツィア・ビエンナーレをまわる。アーセナルを先に入り、ジャルディーニも含め二大会場を一日で済ませてしまうつもりだったが、広すぎてとても不可能であると悟った。残り4日間、ヴェローナとヴィチエンツァとパドヴァで二日使うとなると、明日もビエンナーレに費やすのは少し惜しい。とはいえ、全体の«Viva Arte Viva»なるおめでたいテーマの展示より、国ごとの様々なねらいの透けて見える展示が面白いから、ジャルディーニはより楽しめるだろう。

16時過ぎ アーセナルのカフェ

 現在16時過ぎにしてアーセナルさえ見終わっていないが、既に疲れてしまって作品解説の英語が頭に入らない。そんなもの読まなければよいのだが、作品によっては文脈を把握するという誘惑に抗えないものもある。さきほど中国館の、「威信」をそのまま会場に持ってきたような展示にとどめをさされて、コーヒーを飲みつつ休憩している。ビエンナーレといえば世界的にあまりに有名なアートイベントだが、子供には刺激が多くとも、私にとってはそのあまりの無邪気さが無神経に感じられてしまって、どうも納得のいかない。同じく今年開催されていたドクメンタにはより慎みがあるのか知らん。
 とはいえこの会場になっているアーセナルがおもしろい。中世からの造船工場で、クレーンや倉庫なんかが残っている(あるいは再建され残されている)。ビエンナーレの会場のある場所はヴェネツィア本当の東端で、市街地とは違い広い空と海とを肌に感じることができる。この工場がミニチュアの都市を少しずつつくり、それをつなげて浮かべたらヴェネツィアができたというくらいの、スケール感である。

※ ※ ※

 良く晴れた朝、この日もメストレの駅から島までの列車のチケットを買おうと並んでいた。3日目ともなれば慣れたものだ。ひとつ前のアジア人らしき男が、悪名高きイタリアの券売機に初めて挑んだようで、やはり苦戦している。私はすこし訳知り顔をつくって近づいていき、英語で話しかけた。あまりこちらの言葉が通じている風ではなかったが、その男も島に行きたいらしいので切符を買ってやった。そのまま立ち去ろうとも思ったけれども、この一人旅でなかなか会話のできる存在に出会えるわけではないから、なんとなしに話を続けていると、相手は韓国人なのだがかなり日本語を話すことがわかる。昔何年か千葉県で日本語を勉強していた時期があるらしい。その後しばらく韓国で働いていたが、仕事に疲れていったん辞め、今は貯金を崩しつつヨーロッパを旅しているという。プラハなど東欧をまわってクロアチアからイタリアに入ったと言い、昨日までいたザグレブがどれだけ見どころのない街かを懸命に日本語を探しつつ話してくれた。効率よく名所を回ることに苦心している典型的な観光客であった。地味なジャンパーにジーパンという出で立ちだが愛想の良く、私にあえたことを喜んでいる風で、またこちらも日本語の通じる人に久しぶりに出会えた安心感に、島までの道中ついつい話し込んだ。彼女はいるかと聞かれ、いると答えると、向こうは最近離婚したという。突然の告白に戸惑っていると急に相好を崩し、冗談だと言った。全く笑えない、必要もない嘘だったが、笑った方が楽しいという気がして笑った。島に着くと、私はビエンナーレに行くつもりで、彼は芸術にはあまり興味を持っていないようだったので、夕飯を共にする約束をし、いったん別れたのだった。

 夕食を共にするとはいえ、欧州に慣れた風を吹かしているとはいえ、全く不案内な土地だからどのレストランで食べるのか調べる必要があった。偶然友人からここは安いと教えてもらっていた場所があったのでそこで待ち合わせることにした。ビエンナーレの会場から歩く道が例によって曲がりくねってわかりづらく、何度も立ち止まって地図を見ていたため彼を待たせてしまった。例によって彼はムラーノとブラーノとヴェネツィア本島をたった一日で見て回れたと、満足そうにしていた。目当ての店に入ると、なにか機械が壊れてしまって今日はピザとパスタをつくることができず、サンドイッチしかないと高飛車な店員が言う。それでは一人では入りにくいレストランでおいしいものを食べるという企図に反するので、別の店を探すことにした。もう遠くまで歩くのも嫌だったので、近くにあったあまり人通りのない通りの店に決めた。
 この街のレストランの給仕は、基本的にアジア人を下に見ていると、特にこだわった怒りもなくただそう思う。とりわけ私たちは身なりのよいわけでもなく、あまりお金を使うようには見えないだろうから、隣のテーブルのフランス人老夫婦などと比べるとやはりサービスが悪い。ただ韓国人の彼の要望により、不機嫌そうなウェイターからなんとかお店のおすすめを聞き出して、イカ墨のパスタと、ムール貝のパスタを頼んだ。加えてグラスのプロセッコワイン。量は少ないが味は良かった。彼はもっとここにしかない珍しいものを食べたがっていたのは明らかだったが、金額的にそれは無理な相談だった。韓国人はインスタグラムに載せるための写真を何枚か撮り、私との自撮りも怠らず、本島と景色の変わらないムラーノよりカラフルに彩られた家々が綺麗なブラーノがよかったと思う話を聞かせてくれた。

 ちょうどハロウィンの時期で、街では仮装した子供たちに出会うこともあった。仮装の島の住人達がかぼちゃやら魔女やらに扮しているのは、何とも奇妙だった。暗い道をサンタ・ルチア駅まで歩いた。心配そうに何度もGoogleMapをみる彼を尻目に、私は大体の方向感覚を当てに、満足感に浸りながら人の流れに身を任せた。彼もメストレに泊まっていたのでやはり一緒にこの島を抜け出す。二人分のチケットを私が買い、1.25€をきっかり返してもらった。
 列車に座りそろそろ出発かと思うところで、チケットに刻印していないことに気が付いた。私が急いで降りて二人分のチケットを片手に打刻機を探したがなかなか見つからない。やっと見つけて打刻し戻ってきたときには列車が出発してしまっていた。もちろん彼は乗ったままだった。急いで電話をかけ、お互い笑いながら、メストレで待ち合わせようという。幸い次発はあまり待たずに来、一足遅れて私もメストレに辿り着いた。ホームをつなぐ地下道で会い、私が座席に置いていった鞄を彼から受け取った。彼は私の泊まっている場所とは駅の反対側にあるホテルをとっていた。数分前のちょっとした事件の興奮冷めやらぬ間に、笑顔で別れた。彼はこれからローマ、バルセロナとまわり、成田経由で本国に帰るらしい。
 私はそのまま日本で仕事をしたらいいのにといった。心からだった。彼はできたらそうしたいねと冗談めかして答えた。別れた後地上への階段をのぼりながら、孤独の顔へ戻るのが惜しかった。

*11月1日 夜

 11月になった。
 9時過ぎに出てビエンナーレへと向かう。写真を撮ったり他の展示などを見ながらジャルディーニに辿りつくと、なんと長蛇の列。今日はToussaintの祝日であることを考えていなかった。ドイツ館で行われるパフォーマンスをもっとも楽しみに来たのに、やっとのことで会場内に入って向かうとそこにも長蛇の列、とても中で何が起こっているのか見られる状況ではない。係の人が来て、途中で入れ替えをするけれども私が並んでいる位置ではノーチャンスだと告げられたので退散。他のパヴィリオンを落ち込みつつ見ることとなった。
 日本館は “Turn upside down it’s a forest” というもので、床下からジオラマの中心に顔を出せるという他にはない仕掛けが微笑ませるものの、ヴェネツィアに関わるのはタイトルのみ、展示全体を貫くテーマがうすく、訴求力に欠けた。企画を担当したキュレーターの解説文が会場になかったのも甚だ残念である。Japan Foundationという筆名で作品が展示された美術家の紹介文はあったが、書いた人の個人名がないと読む方は受け取り方を迷う。
 他にイギリス館、フィンランド館、フランス館、スイス館、カフェ、全体の展示の数名の作家が印象に残っている。

 ビエンナーレについて、芸術祭をキュレーションという観点で見たことは今までになかったが、今回のヴェネツィアのように全てをつらぬく明確な展示テーマがなく作品ごとのコミュニケーションも希薄となると、この量の美術を受け止めて処理していくのは大変難しい。アーセナルでは大きな空間に違う作家の作品同士が近接しておかれているのに相互作用が少なく混乱し、ジャルディーニでは作家個々に一つの部屋や空間が与えられており個展としては十分楽しめるものの、一人一人の内面について同程度の興味を保ち続けるのがつらい作業になってしまった。
 一般の観光客が多く難しいかもしれないが、よりヴェネツィアというこのキャラクターの強い場を参照した、単なる作家の紹介という意味合いを超えたものにしなければ、この芸術祭の価値はビジネスという観点以外では保たれないとさえ思う。ヴェネツィア館のひどさがそれを物語っている。国ごとの(政府の支援を受けているであろう)パヴィリオンの方が、ビエンナーレ側が企画した展示より優れているという現状は何とも悲しい。「観光」が客と芸術との偶然の出会いを生むとしても、仕掛ける側は完全に観光に飲み込まれることのないよう、それなりの戦略と距離の取り方が必要ではないかと思うのだった。

*11月4日 16時過ぎ ヴィチエンツァ

 2日書かなかった。今ヴィチエンツァの駅中のカフェでパドヴァ行の列車を待ちながら書いている。
 おとといは本島にある教会をめぐった。祭壇画の豊富なサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂、多彩な大理石を使っており変わった雰囲気のサンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会、プラダ財団とアカデミア美術館をはさんで、もっとも有名なサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂。フランスのゴシックとは異なり、身廊側廊の区別がなく、明るくてがらんどうといった印象を受ける。しかし一つ一つの祭壇にふんだんに装飾をほどこすさまは特筆すべきで、広い壁を持つ教会をつくっておいて、そこに後から付け柱やペディメントをはりつけていくというようなつくりである。フラーリではカノヴァのメモリアルなど見るものの多い中、やはりティツィアーノの中央祭壇の絵に感動した。この絵に向かっていく空間の構成や、夜だったこともあり光の当たり方までぴったりとはまっている。祈祷席に座ってしばらく眺めた。ティントレットほど人物自体が劇的な描き方をされていないのに、一瞬の凝縮した密度が感じられた。
 プラダ財団ではトーマス・デマンド、アレクサンダー・クルーゲ、アンナ・フィーブロックによる三人展。面白い展覧会とはこれなのだと言わんばかりの素晴らしいチームワークを見た。扉を開けるごとに、階段を上るごとに仕掛けがあって、次を期待させる。クルーゲの長いビデオ作品も、自由に任せられた展示順路も、この会場であればまったくフラストレーションを感じさせない。すべての要素に自己言及性があって、ビエンナーレに足りないものがこの小さなCasaにつまっていると思った。

 昨日はムラーノ、ブラーノ、それからサン・ミケーレ墓地、ジュデッカ島を周る離島めぐり。ガラス細工、色とりどりの家、島全体を覆う墓地とそれぞれのキャラクターが濃い。
 ムラーノでは、観光客が立ち入らないような島の奥まで足を延ばした。細々した本島にはあり得ない広く白いまっすぐの道の両側に、淡色のこぎれいな家々が並ぶ。そして道の突端は海に断ち切られているのが見えて、それを目ざして歩いた。片側に小学校があり、柵の向こうで真っ青な制服を着た子供たちが遊んでいる。道を歩く人はあまりおらず、洗濯物をいじる女性が数人。道の終わりまで来ると、海に向かって少しだけ突き出た桟橋で、しばらくそこに佇む。水中に打ち込まれた木は腐食しやせ細っていて、今にも崩れそうだった。繋がれているが使いようのないほど古いボートが二艘、見渡せばよく晴れた空と濃い青の海の間に、向こうにある小さな島がかろうじて認められた。これほど美しく悲しい風景を見たことがないと思った。海が広がっていながら、全くその先を感じさせない、期待させない、本当に淡い風景だった。これを見ながら育つという経験を想像して恐ろしくなった。
 ヴェネツィアはゲルマン民族の侵攻から逃れた人々が干潟で暮らし始めたのがその起源といわれているとどこかで読んだのをを思い出した。
 ジュデッカ島は須賀敦子の小説に出てきたユダヤ人のゲットーを見るために、またヴァポレットを長い距離乗って向かった。予想していたよりも早く日が落ち、たどり着いた時には空も海も闇にのまれていた。月明かりと電燈と、対岸のサンタ・マリア・デッラ・サルーテからの明かりを頼りに歩いたが、ゲットーがどこにあるのか分からない。本を忘れてきてしまって、詳しい場所を調べることができないのだった。ジュデッカ島は観光地ではなく、住宅がほとんどであるように見えた。満月と電燈と、かげから現れる、家々の石の肌。なんとなしに、いまだにゲットーがこの島に潜んでいるような気がした。というより、ヴェネツィア全体がそう感じさせるのかもしれない。この日は大人しく引き返すことにしたのだった。

 ヴェネツィアの墓は壁に抽斗のように縦横に並んでいる。
 ヴァポレットの中で、轟音の中携帯ゲームに夢中になる子供たち。
 夜に船の進路を示す海上の電燈は海底まで打ち込まれた組み木の上につけられているが、木は海水に触れて腐りやせ細り藻に覆われていて、かろうじてバランスを保っているようなものばかりである。ヴェネツィアは海に柱を打ち込んでその上に家を建てているから逆さにしたら森林が姿を現すだろうという謂れがあるのを思い出した。その森林は腐りやせ細り、死のみを感じさせるだろう。

*11月27日 11時 グルノーブル

 気温の低さからか万年筆のインクの出が良い。
 ここ数週間で一気に気温が下がり、遠くの山はどうあがいても人間には成しようのない、貴い白を湛えている。
 Toussaintの休暇に訪ねたヴェネツィアを思いだす。テーマパークのような、表面のはぎ取られた、グラフィツィに覆われた夜を。石と水の狭間で朽ちていく木と人間を。流れてきた漂流物が固まって出来上がった、大きな塊、逆さにしたなら腐敗しきった森が姿を現すはずである。
 塗装のはげ露出した石に弱い電燈のさす寂しさ。水平線に突き出た桟橋に何ら繋がれていない絶望。陸の上で蹂躙されることを選ばなかった者たちの、辿りついた最果ての地だった。
 石の向こうから、毎朝大挙してきては夜帰っていく群れを、ヴェネツィアの民は何ら特別の感情もなく、それでもじっと、眺めているにちがいなかった。私たちがみる細い道路と水路とは別に、彼らの生活の道があり、つながりがあり、宗教が潜んでいるにちがいなかった。ガラス工房、カラフルな家々、そして仮面、ヴェネツィアの寂しさはその表面に匿われた向こう側を覗き込むことにあった。

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