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何者にもなれなかった者の集うラーメン屋

ある平日の深夜、繁華街の端にあるラーメン屋に私はいた。店内は空いていて、私の他には器に箸を浮かべたまま机に突っ伏して眠っている泥酔したサラリーマンが一人いるだけだった。壁に貼られたメニューを眺める。どれも食べたいっちゃ食べたいが、食べたくないっちゃ食べたくない。我慢できないほどの空腹でもなかったのに、ちょっとした非日常感を味わおうと家を抜け出してきた自分が恥ずかしくなってきた。

私は特にこれといった問題のない家庭で特にこれといった不自由なく育ち、中学を卒業し高校を卒業し大学を卒業し、就活で何となく受かったウェブ広告代理店に入社した。「普通過ぎるな」と思ってはいた。玩具箱をひっくり返したような日々が続いた大学時代が恋しかった。サークルの面々と毎晩居酒屋に繰り出しては机上の空論めいた芸術に関する議論や人格否定合戦に華を咲かせていたことは楽しい思い出だった。退屈な社会人生活の中で、そんな思い出を反復したい気持ちがムクムクと湧き上がってきた。陳腐な言い回しに泣けてくるが、「人生を冒険してみたい」ような気もした。更に浅はかな私は、「他人とは違った愉快な人生を過ごせる」ことも期待して、あっさりと会社を辞めると劇団の裏方募集を見つけて応募しなんとかそこへ転がり込んだ。それが四年前になる。しかし私は堪え性が無い甘ったれだったので、厳しい指導やしのぎを削るようなヒリつく雰囲気にまいってしまって、一年ちょっとでその劇団も辞めた。

だから私が「何者かになりたい」と思ったのだとして、私が初めに「何者かになりたい」と思ったのは、前の段落の中のどこかで、ということになる。

そんな中で、最近になって聞いた。同じ時期に劇団に入り、未だに残り続けている同期のKが今年ついに演出家としてデビューするらしい。「素晴らしい!尊敬する!」と思えるかと言うと微妙で、かといって「羨ましい!クソッタレ!」と地団太を踏む想いもない。一方、私はまたサラリーマンをやっていて、演劇との関わりは年々薄くなっている。特別つまらなくはないしむしろ面白い仕事だと思うが、誰の役にも立っていないような気もする。

今の職について一年半ほど経った頃、サークル時代の仲間との飲み会にR先輩が顔を出した。先輩は私の顔を見て「お前は何者になるの」と言った。R先輩は大手の出版社に入られ、ばりばりの編集者として働かれていらっしゃる。換言すると、先輩は何者かになったのである。

SNSを見る度に、「何者か」になった同世代の皆の投稿の洪水に溺れそうになる。作家、脚本家、俳優、CEO、コラムニスト、研究者、コピーライター、議員、漫画家、演奏家、カメラマン、Vtuber、テレビマン、弁護士、エトセトラエトセトラ。一方で、「何者かになりたい」という欲求は今の私にとって、目が覚めたあとにかつて見た夢を紗幕に投影して再鑑賞しているような気分にさせられる文字列でもある。

会社の同僚のMは、学生時代にダンスを専攻していたそうだ。Mは働き出してからの最初の数年はダンスを自主的に制作したり、著名な団体のプロデュース公演に参加したりしていたのだが、結局縁遠くなって今はたまに知人の公演を観に行くくらいになってしまったのだそうだ。Mと飲んでいて酔いが回ると、決まって「結局私らは何物にもなれず中途半端な生き方してるんすよ!」というような話になる。『何者』なる題名の小説を昔買って結局そのまま積読にしたっきりになってたなー、と思い出す。あれはたしか就職活動を題材にした話だった。私たち、もうアラサーである。

もうアラサーなんで、「どうしても何者かになりたいなら、そろそろ駆け込みで頑張んなきゃまずくないですか」という気配を感じる頃合いでもあるように感じる。私の知り合いにもいる。そろそろ駆け込みで何者かになりそうな奴らが。そういった連中の漂わせている、些細な火の粉でも爆発しそうなエネルギーには物凄いものがある。その勢いは素直に羨ましい。無い、私には。この羨ましさは、数年前であればかなり苦しいものだっただろう。何故苦しかったのだろう?

一方で、どうして「何者かになりたい」という欲求を胸の奥に仕舞い込んだ人が言い出すことは、「もっと目の前の生活をやっていこう」「些細な喜びを楽しんでいこう」などと、毎度毎度綺麗に殺菌されているのだろう。まあ、本気でそう思ってたらいいんだけども、そうは簡単に割り切れないのもまた人間というもので、「生活サイコー!」と声高に叫びながら、言葉や態度の節々に「望んだように生きられておりません」感が滲み出ているアラサー同級生のなんと多いことか。そういった手合いの抱える屈折はみみっちく、根深く、救いがたい。「あんたらアホと違いますか」と切って捨てて嘲笑したい一方で「そうですよね、わかりますよ」と抱きしめたくもあり、私は衝動の狭間で引き裂かれそうになる。連中は、私に抱きしめられたいとは思わないだろうが。

このゲームに主宰者がいるなら、「ルールは何ですか、何者かって何ですか」と質問をしたい。それがわからないのにいつの間にか参加させられていて、一抜けするタイミングをすっかり見失ってしまい律義に今日まで戦い続けている私や皆さんが可哀想である。とは言いつつ、全く皆目見当もつかないというわけでもない。ここまで書いた文章を見直してわかったことがある。私は「作家、脚本家、俳優、CEO、コラムニスト、研究者、コピーライター、議員、漫画家、演奏家、カメラマン、Vtuber、テレビマン、弁護士」と書いた。「何者か」とは、おそらく任意の名詞を指す。舞台で言うところの配役名である。私たちは「より良い役を獲得して演じなければならない」という強迫観念を、いつからか植え付けられているのかもしれない。もしかするとその役は、獲得したところで単なるミスキャストに過ぎないのかもしれないのに。

ラーメン屋の店主と思しき初老の男は、器を私の前に置いた。なみなみと注がれた透き通ったスープを一口飲むと、ダシが五臓六腑に染みわたっていくようだった。私は「美味しい」と思わず呟いた。それを聞いたのだろう、店主は「ははは」と笑うとこう続けた。「この店は特別流行っているわけでもありませんし、自分のラーメンが他の店と比べて勝っているとも思っていません。でも、あなたのように喜んでくれるお客さんがいる夜がある。だからあたしはこの『ラーメン屋』っていう些細な役もあながち嫌いじゃないし、自分にとっては守り抜いて磨き上げてきた特別な役なんですよ」。器から立ち昇る湯気の向こうで、店主の顔は誇らしげだった。

実際にはそんなことをいう店主はいなかったので、私は黙ってラーメンを食べると帰宅し、糞をして寝た。

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