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中文映画を100本くらい見て分かったこと

みなさんは、中国語圏の映画を好んで見るだろうか?見たことがあるものと言えば、『少林サッカー』と、ジャッキー・チェンの出演作をいくらか、くらいじゃなかろうか。ちなみに自分はそうだった。何故か米国が作る映画に比べて野暮ったいというか、つまらないイメージがなんとなくあった。アジア顔を見慣れすぎていて、映画の中でまで見ようとしないのかもしれない。
そんな僕も、一年ほど前に中国語圏の映画を見始める強いきっかけができた。台湾にワーキングホリデーに行くことが決まったのだ。大学時代から映画が好きだったので、映画をできるだけ沢山見て勉強しよう!と考えた。それから一年ほど経ち、ワーキングホリデーの期間も残り2ヶ月ほどになってしまったところで、鑑賞記録を見ると100本に到達していた。
結構夢中で観ていたんだけど、冷静に考えたら、映画好きの日本人はこの世に数多くいれど、中国語という縛りで100本も見た日本人は、あまりいないんじゃなかろうか。そこで、中国語圏の映画(以下中文映画と書く)を沢山観る前は知り得なかったことや、それらを観ながら考えたことなどを、日本人の視点からまとめておくことに多少なりとも価値があると思った。

ここで中文映画の定義を説明しておきたい。僕がカウントすることに決めただけなので、出典も根拠もないのだけれど、以下の3項目のどれかに当てはまっていれば中文映画とみなしている。
・中国語圏(中国、台湾、香港など)で制作された映画であること
・中国諸語(北京語、広東語、客家語など)もしくは台湾語(台湾に住んでいるため)が主要登場人物の話し言葉として用いられていること
・中国、台湾、香港の文化・歴史がテーマになっていること

この定義だと、幅広い作品が含まれることになる。2023年のアカデミー賞を総なめした『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(2022)』も、作中の半分が中国語、半分が英語であるため、中文映画とする。坂本龍一が音楽を担当したことでも日本でよく知られる『ラストエンペラー(1987)』は、作中言語は全て英語であるが、最後の皇帝の故宮(紫禁城)での生活や、清と中華人民共和国の狭間の歴史を描いている点で、中文映画とみなす。『恋する惑星』で有名なウォン・カーウァイ監督の撮る作品は、作中言語がほとんど広東語なので、僕には全然聞き取れないけど、中文映画としている。

このとおり、当初の目的である「中国語の勉強」とは結構ズレてしまって、100本中の半分くらいが、勉強にならん…と思いながら見ていた。でも、映画を観ながら台湾での生活を続けていて思うことは、文化・歴史を学ぶことは、回り道ながらも語学力に繋がっているということ。台湾語、広東語、客家語の響きがどんなものであるかとか、中国語圏の人々がどういう暮らしをしているかとか、どういうことを考えているかを知ることができるからだ。言葉と文化は密接に繋がっている。
ということでイントロはこのくらいにして、本題に入っていく。過去一長くなりそうなので、下に目次を用意した。気になったところだけでも読んでもらえたら嬉しい。また、filmarksに、見た映画全て(マイナーすぎてfilmarksに存在しない映画を除く)の感想を書いているので、気になった作品があれば、より詳細に書いた感想が見られる。(悪口も結構たまに混ざってるので、苦手な人はお気をつけて)


全体での発見

まず、映画そのものに入る前に、全体としてのことを書きたい。

台詞が理解できなくても「わかる」ということ

いきなり禅問答みたいな文章を書いてしまったけれど、細かい理解ができなくても、全体として理解できることを知ったのは、大きな発見だった。最初の10本程は日本語字幕を使って観ていたが、残りは全て中文字幕で見た。当然、分からない部分が沢山ある。100本見ていくうちにだいぶ上達したけれど、まだ分からない部分は多い。それなのに、面白い映画は面白いし、つまらない映画はつまらない。映画には言語情報以外にも、人物の行動(ジェスチャー)、表情、声の大きさ、また更にシナリオ、音楽、ポスターまで、情報が沢山ある。ここで身につけた、細かな情報をかき集めることで、「言葉が分からなくてもわかる」という力は、日常でもとても役に立つ(と思う)。そんなの当たり前のことだと思う人もいると思うけれど、僕にはとても驚きだった。目の見えない人が音や匂いを頼りにするように、中国語ができない人は仕草や状況を頼りにする。

映画から見えてくる地域の違い

これも当たり前っちゃ当たり前なんだけれど、中国(西部・東部)、台湾(北部・南部)、香港などという撮られた場所によって、映画の帯びる雰囲気が異なる。この発見が結構面白かった。あとで詳しく書くけれど、中国の有り余る竹愛とか、死者と繋がる台湾、密集した暮らしの香港など、テレビニュースだけで漠然とイメージしてたもの以外の姿が立ち現れてくる。

中文映画という軸で串刺しにすることで、普段見ないジャンルへの挑戦

英語ほど多くの作品があるものではないし、ある程度知名度のあるものから見ていくと、50本を超えた頃から観るものに困る時期があった。そのため、自分が進んで見ないような、ドキュメンタリー、ノンフィクション、ホラー、政治といったジャンルを見ることになる。半分嫌々見てたんだけれど、内容に発見があったり、普段出会わない言葉に出会ったりと、結構面白がれた。この、中文映画しか見ないという制約を与えることで、自分だけでは行き得ない場所に行けることを知ったのも大きな発見だった。まるで、多くの制約がある中で名建築が生まれるように、制約はときに力を増幅させる。

各国の映画の特色

100本しか見ていないので、結構偏っているだろうし、主観もかなり大きいので、その辺はご容赦ください。あと、台湾映画を中心に見ていたので、自然と台湾の部分のボリュームが大きくなった。

古典アクションの中国

竹戦闘の博覧会

竹槍、竹トラップ、竹投げ、竹林での戦いなど、中国アクションを見ていると必ずと言っていいほど登場する竹を利用しての戦闘。どれだけ竹好きなんだ…とツッコミを入れざるを得ない。
竹とはずれるけれど、女性が出てくると、衣服がはだけたりと必ずハレンチな展開になる。なおかつ、はだけた女性騎士にそれ以上のことをしないのが面白い。アメリカだったら酷いことをするシーンもお色気で終わる。中国人騎士はいつだって紳士的だ。(中国政府の検閲が入るからという理由も考えられるが)

まさかの、竹林の中でなく上での戦い
『臥虎藏龍(グリーン・デスティニー)』(2000)
竹絨毯で追い詰めたところを、竹槍投げで竹檻を作り身動きができなくする竹地獄
『十面埋伏(LOVERS)』(2004)

中国アクション映画は竹林で戦うことに対してオブセッションでもあるのかというくらい、よく見る。この映画でも、竹投げ、竹滑り、竹トラップ、竹跨ぎ、竹檻と、竹戦闘に関するパタンランゲージを学べる。竹戦闘博物館の様相。

あと、何回服を切られれば気が済むのか。女性剣士と、服がはだけることは、イソギンチャクとクマノミくらい硬く結びついている。でもみんな紳士だから酷いことはしない。あくまで全年齢対象。アメリカの映画だったらこうはいかない。

『十面埋伏(LOVERS)』自分のfilmarksの感想より

古典と伝統

清の時代から続く伝統芸能である京劇、故宮の最後の皇帝のストーリー、中国古代の四大民間伝説の一つ(wikiより)である白蛇伝など、伝統の重みを映画化することが多い。『グラップラー刃牙』で烈海王が「中国4000年の歴史」とよく言うけれど、これらの映画が生まれるのは、中国人にとって歴史の長さを誇っていることの表れだろう。特に白蛇伝に関しては、アニメや絵本などもあり、数えるときりがないくらい出てくる。

京劇に人生を賭けた人々を描く
『覇王別姫(さらば、わが愛)』(1993)
故宮(紫禁城)を貸し切っての撮影
『末代皇帝(ラスト・エンペラー)』(1987)
人間に姿を変えた蛇姉妹のお話
『白蛇傳情』(2021)

格差社会

都会と田舎、富裕層と貧困層、持つものと持たざるもの、の対比は沢山見た。人類に普遍的なテーマとも言えるけれど、中国の現代映画にはどの作品にもこの要素が含まれていたように思う。日本に比べて、持っている人と持っていない人の差が大きいことが、映画の内容からあからさまに見えてくる。

父親が危篤で都会に出稼ぎに行かなければならなくなった主人公
『雄獅少年(ライオン少年)』(2021)
綺麗なマンションを紹介されても「人は住めるけど、ロバや鶏や豚などの動物たちはどこに住むのか?」と断る
『隱入塵煙(小さき麦の花)』(2023)

香港映画スター

カンフー映画大国

ブルース・リー作品、イップマン作品、ジャッキーチェン作品というアクションスターたちが織りなすのは、軒並み香港映画である。肉体で戦う魅力を魅せるのは世界一と言っても良いだろう。ちなみに、イップマン(映画に登場するドニーイェンではない)はブルース・リーの師匠であり、ジャッキーはブルース・リーの初期作にスタントマンとして登場したりしている。お互いに関係しているのも熱い。
『少林サッカー』や『カンフーハッスル』など、チャウ・シンチーが監督権主演を務めるギャグアクション映画も、アクションの素晴らしさに目を見張る。

有名なセリフを見れて感動
『龍爭虎鬥(燃えよドラゴン)』(1973)
日々の生活そのものが鍛錬であることを教えてくれるシーン
『功夫(カンフーハッスル)』(2004)

ウォン・カーウァイ作品群

監督の名前と国名を結びつけることはしないでおこうと思ったけれど、香港映画の代名詞とも言えるウォン・カーウァイ(王家衛)監督は、切っても切り離せなかった。むしろ、彼の作品を通してのイメージが先行してしまっている。あの湿度と彩度を持った香港の都市生活は、憧れざるを得ない。

『重慶森林(恋する惑星)』(1994)
『春光乍泄(ブエノスアイレス)』(1997)

日常の台湾

自転車と青春

台湾青春映画に特徴的なのが、自転車で好きな子を追い回すこと。共通点は、学生の恋愛で、イケてる男子が自分に自信満々で、下校時に追いかけること。この行為が「愛すべきあの頃」として描かれていることに、かなり驚いた。僕の目から見ると、家までの道を異性に追いかけられるというのは、普通に恐怖心を覚える。一対一ならまだしも、複数人で一人のマドンナを追いかけるシーンなどもあり、かつそれがヒューヒューと茶化すように、肯定的に撮られている。またどの作品も、追いかけたイケメンと追いかけられた女の子は結局くっつくのだ。気持ちを伝える方法として健全なものとは言えないような気がする。
ふと思いついて、台湾人の友達に聞いてみたら、「そんなこと、見たことも聞いたこともないよ」と笑っていた。彼曰く「学生の交通手段は自転車しかないから、自転車のシーンが多いだけでは?」とのことでした。お言葉ですが、他の国の映画で見たことがないんだよ。台湾人にとって、自転車と青春は切っても切れない関係だと思われる。

帰り道が近いという理由にかこつけて、勝手にレースを仕掛けられるヒロイン
『藍色大門(藍色夏恋)』(2002)
学校一の秀才イケメンが、同じく秀才の女子に目をつけ(最初はライバル心だった)追いかける直前
『5月一号(若葉のころ)』(2015)
立ちションベンをしているところに通りかかったクラスメイトを、急いでイチモツをしまい追いかけ始める少年
『六弄咖啡館(At Cafe 6)』(2016)

向こう側の世界が近いこと

死後の世界との繋がり、死者と対話する場面の多さ。
彼らはみな最初は少し驚くけれど、すぐに受け入れて対話(言葉のない対話を含む)を始める。これが特別なことじゃなくて、当然のこととして受け入れるところに、台湾映画の特徴を見る。死者が現れるのは(当然ながら)生前大事に思っていた人の前だけで、他の大多数の人の前には姿を見せない(もしくは見えていない)。ここら辺は、他のファンタジー系の作品にありがちだけど、それら場面が引き立つのは、映画の内容がとても日常的であるため。死者と対話することを除けば、ドラゴンボールやバック・トゥ・ザ・フューチャーのようなとんでも要素はこれら映画の中には存在しない。
これは、様々な要因が考えられるが、一つの大きな要素として、葬式がまだ他人の手に渡っていないことが挙げられると思う。台湾に住んでいて何度も、亡くなった方が住んでいた場所(またはその前面の道路)で葬式を挙げられている場面に遭遇した。台北などの都会ではもうほとんどないと思うけれど、田舎にはまだそのような風習が残っている。それにより死者が身近であるように感じ、映画内でもそのような場面が撮られるのではないだろうか。

死んだ夫と一緒にカラオケ
『孤味(弱くて強い女たち)』(2020)
お婆ちゃんの葬式から抜け出すと、当のお婆ちゃんに「あんたは(相変わらず)現実逃避が好きねぇ〜」と叱られる
『幸福路上(幸福路のチー)』(2019)

また、台湾映画では死者だけでなく、夢も重要である。啓示的な夢を見て、現実での問題に解決法を見出す場面にも遭遇した。非現実と現実がまだ近い場所にある魅力的な国だ。
先述した理由は、西洋の分ける文化との対比とも考えられる。もしかしたら、他の東南アジア諸国の映画内にもこのような場面が多く見られるかもしれない。(インド映画はなんとなくそういうイメージあるけれど、タイとかベトナムとかフィリピンってどんな映画を作ってるんだろう。)

母と娘にバラの花を受け渡す夢と、現実での事物がリンクしている
『一家之主(一家の主)』(2022)

終盤、夢が大事な要素を担うところが興味深い。眠る母の横で眠りに着くと、娘とも符号するような、共時的な夢を見る。子供の時、迷子になったというトラウマから、独りになることを恐れていたランシンは、夢の中で母親から「いつかはみんな一人になるのよ」という言葉をもらい、吹っ切れる。夢では、母が一人飛行機に乗り、自分は取り残されてしまう。これは、母がもうすぐ天国に登ることと、ランシンが心理面でやっと独立できたことを示しているのだろう。

夢から覚め、家に戻ったランシンがふと一息をつくのは、いつも夫が居座っていたソファ。家の中の居場所と、心理的な成長が、見事に重なっている
夢がここまで大事な要素を見せるのは、台湾映画っぽいというか、日本だとこういう感覚は少ない気がする。

娘から服の場所を聞かれても、「自分でクリーニング屋に聞いて」。夫から今日の魚のメニューを聞かれても、「魚は買ってない」。息子からかかってきた電話は、一旦出ない。やっと自分の意思を見せたランシンに、周りも変わりだす。でも全くの意地悪でなく、結局はやってあげちゃうランシンに、とても感動。

『一家之主(一家の主)』自分のfilmarksの感想より

虐げられてきた歴史

台湾は、歴史的に見てずっと虐めらてきた。主に日本軍と中国国家に。日本統治時代、第二次世界大戦、中国国民党の検閲など、周辺国家権力に振り回され続けてきた。蒋介石が中国共産党に敗れて以来、台湾内で政治判断をおこなっているけれど、未だに中国側は認めておらず、真の独立は果たせていない。
当然、その様子を伝える映画も残っている。ありがたいことに、中国の映画に比べると、台湾の映画の日本人の描き方は少し温かみがある。台湾人に対して偉そうに振る舞う日本人は沢山登場するけれど、完全な悪者として描かれることはあまりなく、ユーモアを込めて演じられていることが、日本人の自分にとっての救い。
『稲草人(村と爆弾)』(1987)では、日本統治時代の村を、『賽德克·巴萊(セデック・バレ)』(2011)では、日本軍による台湾原住民弾圧と霧社事件の歴史を、『返校(返校 言葉が消えた日)』(2021)では、国民党の独裁政権下の台湾を、ホラー仕立てで描く。その他にも、国家としてでなく個人として、制圧する側と制圧される側を描く映画は多かったように思う。

日本人にこき使われて、村に落ちた不発弾をおそるおそる運ぶ農夫
『稲草人(村と爆弾)』(1987) 画像元リンク
日本軍に酷いことをされるくらいならと、集団自決する女たち
『賽德克·巴萊(下):彩虹橋(セデック・バレ 第二部 虹の橋)』(2011)
 蒋介石率いる国民党の独裁政権下の台湾を、ホラー仕立てで描く
『返校(返校 言葉が消えた日)』(2021)

史実としてだけでなく、現代台湾もまだ"虐げられている"。『我們的青春,在台灣(私たちの青春、台湾)』(2017)は、現代台湾の若者たちが真の民主化を目指す「ひまわり運動」の実情を伝えるドキュメンタリーである。立法院に立て篭ったり、学生運動を起こすのだけれど、結局は警察に制圧されてしまい、根本的に世の中を変えることは敵わない。こういう映画の中にも、歴史の影響が垣間見える(気がする)。

運動のリーダーが警察に取り押さえられる
『我們的青春,在台灣(私たちの青春、台湾)』(2017)

100本から厳選したオススメ5選(※ネタバレ注意)

最後に、100本見た中で特に面白くて人におすすめしたい作品を、国などの条件なしで5作品紹介する。5作品ともとっても面白いので、どうにか見つけ出して見てほしい。

『隠入塵煙(小さき麦の花)』 /李睿珺 (リー・ルイジュン)(2022)

とても良かった。タイトルの出し方と、田中角栄みたいな主演の、のっそりとした登場で、これは名作だと確信。農民が目の前のことにひたすら「向き合う」生活が描かれる。

田舎と都会の対立は、物語の軸ではあるけれど、それが主題ではないように思う。何故なら、立ち退きを命じたり、作物をサッサと購入していく都会の人々が、そこまで悪い人として描かれていないから。この、どちらが正しいとか、どちらが素晴らしい、ということを決めない描き方に好感を持った。彼らはみな淡々としている。

奥さんの唐突な死の場面のスピード感がすごい。死ぬことってこんなに簡単なんだ、と驚いた。普通のドラマ仕立ての映画ならば、奥さんとの思い出の回想シーンや、一人での男泣き場面を入れると思うのだけれど、この映画はそんな野暮をしない。
自分で弔って、自分で土葬して、先祖と同様に紙のお金を燃やし、天国へ届ける。全て自力で生活をしている彼にとっては、死は生の延長線上にあることは自明である。生と死、人間と動物との間に線を引かず、特別視しない生き方が、現代人が忘れかけている<魂の弾性>を持つ理由に見えた。
マンションの内見に連れて行かれた際の、「人間は住めると思うけど、豚や鶏はどうやって住むのか?」という発言にも、その生き方は表れているように思う。

大雨強風の中、日干しレンガを守るために健気に戦い、その様を客観視して笑ってしまう場面が至高だった。生きるってこういうことを言うんじゃないかと思う。

邦題にもなっている、「麦の花」の愛おしさにも注目した。(多分)中国北西部の砂漠地帯には、奥さんを喜ばせてあげられるような花が咲いていない。そこで農民は不器用ながら、麦を使って花のマークを妻の手に押し当てる。それが、時間が経つと消えてしまう儚いものであることと、麦という、食糧でもお金代わりでもある、生活の糧であるという情報を含有していることで、あのシーンの持つ意味が深まるように思う。素朴な日々の象徴。
弔いの場面で、この行動がリライトされるのは、流石に泣けてくる。

『隠入塵煙(小さき麦の花)』自分のfilmarksの感想より

『飲食男女(恋人たちの食卓)』/李安 (アン・リー)(1994)

すごく…すごく良かったです…。

冒頭のシーンから名作だと確信。台湾料理を手際よく作っていく映像の素晴らしさといったら。料理人の手元がアップで映され、美味しそうなご馳走がひたすら作られていく幸せな光景。料理人の腕は映像として見ることも価値になり得ると知らされた。

一転、大人気ファストフード店でせかせかと働く映像に映り、若者達は早口で喋り、次々と売れていく。映画全体のテーマが一目で分かる序盤の5分。

三人の娘、世話焼き叔母さん、孫娘と、沢山の女性が、料理人である彼を取り巻き、様々な恋物語が同時進行する。彼女達の感情は振り回されるが、父親の安定感と言ったら。文字通り一家の大黒柱だ。

当たり前すぎて忘れかけている父親への有り難みを、病気や友人の死によって思い知らされるという、ありきたりと言ってもいいストーリーなのに、何故こうもグッと来るのか。それは多分、いつもそこに「食事」のシーンがあること。家族一緒に食卓を囲むことって、大切なんだなあ。

終盤、彼女達の恋がひと段落し、丸テーブルを囲む人数が倍以上に増えるシーンで流石に感動。もう作りすぎなんて言われないで済む。皆が一心不乱に箸を動かすシーンで、カメラがグググと寄るところが堪らない。また、飲みすぎた父の説教の場面で、丸テーブルの周りを円を描くように動くシーンも最高。

伝統的な食事の大切さもそうだけれど、それ以上に、当たり前の毎日の食事の、当たり前じゃなさに気づく。台湾人が作り出したこんなにも素敵な文化だよ、という監督の優しい眼差しが奥に垣間見える。

『飲食男女(恋人たちの食卓)』自分のfilmarksの感想より

『恐怖分子』/楊德昌 (エドワード・ヤン)(1986)

よよよよ、よすぎる〜!!!

登場人物が全員良い。口数少ないけれど、芯があり、誰一人つまらない人がいない。そのため、主人公みたいな人が沢山で、結構複雑なんだけど、バトンを渡していくように、それぞれの物語が3度ずつくらい楽しめる。一つの事件を渦の中心として、段々と引っ張ったり引っ張られたり、くっついたり離れたりと、関係付いていく感じが堪らない。

彼氏が帰ってきて嬉しそうな文学少女、事件の鍵を繋げるカメラオタク、売春詐欺で稼ぐ未成年の少女、成功する元妻、落ちていく医者…。最後のシーンが衝撃的で、想定を裏切られて、残酷なのにとても綺麗で、忘れられなくなりそう。

カットの良さは言うまでもなく。全シーンが好きでした!

『恐怖分子』自分のfilmarksの感想より

『一一(ヤンヤン 夏の想い出)』/楊德昌 (エドワード・ヤン)(2000)

日本では見られなかったのに、台湾に来たら見られた。すごく嬉しい。代償として、日本語の字幕が無くなった。見てみると、こんなにも日本で見られるべき映画だったとは!今すぐにでも日本語字幕を作り、ネトフリ日本版に追加してください。

字幕が中国語だったせいで、会話の内容が半分くらいしか分からない。それなのに、それなのに!とても見入ってしまって、面白いと感じた。

場面毎の固定カメラで、登場人物達だけが動く。神視点で人間の自然な動きを見ているような気になる。夜景で店の外からのショットや、ホテルの内側から室内を反射させるショットなど、とても美しく、台湾や日本の懐かしい・美しい風景を切り出している。全ショットがうっとりとするほど良く、言葉なんて分からなくても、ずっと見ていられる。

主人公が何人もいることも良かった。それぞれの時間、それぞれの人生があり、少しだけリンクする瞬間もある。それに気づいているのは、神視点の視聴者のみ。僕らの人生もこんなふうに、どこかにリンクしているんだろうな。

最後のヤンヤンの手紙には涙。素直で良い手紙。これは監督の子供時代の出来事なのだろうか?人の後ろ姿を撮るヤンヤンに、既に才能を感じる。

『一一(ヤンヤン 夏の想い出)』自分のfilmarksの感想より

『大紅灯篭高高掛(紅夢)』/張芸謀(チャン・イーモウ)(1991)

めちゃくちゃ良い。見始めた瞬間からエンドロールが終わるまで全てが良かった。こんなにも狭い舞台だけで、2時間たっぷり飽きないドラマが撮れるとは。中国様式の大屋敷の構造と、その機能が素晴らしく良く分かる点で、とても建築的な映画だと思う。4人の妻と、それぞれの家への入り口が並ぶ大きな外廊下、正門から帰る主人を迎える絵、とても閉鎖された世界。どのショットも、斗拱や瓦屋根、開口の装飾などの建築様式が美しく撮れていて、かつそれぞれが重なって相乗効果を生みだし、見惚れてしまうほど良かった。それに、タイトルにもなっている赤いランタンの効果も象徴的。寵愛を受けられること、自分が注目されていること、暖かいこと…。

夏、秋、冬と季節が巡ると、妻達の衣装が変わり、建築も雪化粧を施す。全ては主人を満足させるための舞台装置になっている。それぞれの妻が工夫を凝らして自分だけ主人に気に入られようと、蹴落としあい、いがみ合い、仲間を作ろうとするか、というドラマの部分もかなり良かった。最初は理解できなかったけど、これほどの狭い世界で暮らしていると、主人に認められて子供を作り、ここでの生活をより良くする以外の目的が無くなってしまうことに気づいた。狭い世界に閉じ込めることの効用と罪深さ。

京劇などに使う楽器の音が特徴的で、無音のものとの対比が凄まじい。季節が変わる場面や、重大な事実に気づく瞬間など、スリル満点な音楽で世界観に取り込まれる。とてもドキドキした。

「彼女は以前の第四夫人です。頭がおかしくなってしまったんですよ。」(自分なりの訳です)の一言で、今まで見てきたことに揺さぶりをかけられるのが怖かった。第三夫人が釣られたのはひょっとして幻覚だったのか?などと想像が掻き立てられる。

『大紅灯篭高高掛(紅夢)』自分のfilmarksの感想より

(カバー画像は『一一(ヤンヤン 夏の想い出)』より)

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