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【小説】『フラッシュバック』#34

 天使の過去。遠い昔の出来事。
 
 かつて、彼は今とは別の世界にいた。そして、ある一人の女性がいた。
 彼は自分のことがわからなかった。人々は幽霊のように自分の姿を見なかった。鏡にも映らなかった。話しかけても聞かれなかった。そうして雨の日、だれもいない広場で茫然と座り込み、ひたすらうずくまっていた。そこへ、彼は声をかけられた。
 
 「濡れないんですね」
 
 …へ? 初めて人に声をかけられた。女性の声だった。
 
 「あなたは天からの人?」
 
 …え? 彼は自分でも自分がよくわからなかった。
 
 「だって、羽が生えてるから」
 
 その女性には天使の姿が見え、声も聞こえた。天使は彼女の存在によって、はじめて自分が天使だと気がついた。
 彼女には不思議な能力があった。遠隔透視能力や、ものに触れるだけで本質が見抜けたりした。現代ではリモート・ビューイングや千里眼ともいわれる。
 彼女には、人が探している物の在処(ありか)がわかったり、近々起こる未来の出来事を言い当てることができた。それらは、彼女にとっては「視(み)える」のだった。
 もてはやされたり、恐れられたりした。加えて、人の気持ちが読めてしまうのは苦痛だった。拾いたくない相手の内面が見えた。しだいに彼女は周囲に心を閉ざして生きるようになった。
 特殊な能力を持っていると、嫌でも人が寄ってくる。なかでも近づいてくるのは、彼女の能力を私的に利用しようとする恐ろしい連中だった。彼女はますます人を信じられなくなっていった。
 
 非常に優れた能力を持ちながらも、彼女は孤独で、だれからも愛されないという不安を抱いていた。自分を愛することができなかった。
 その頃、天使にはさほど人間らしい心が芽生えていなかった。純真無垢で、まっさらな状態だった。羽も比較的白い状態だった。なので、天使はただ彼女のことを可哀そうだと思った。
 
 彼女が垣間見る未来は、しだいに不穏で終末的なものになっていった。おそろしい未来と近づかれたくない足音に怯えていた。そんな彼女を救うには、彼女の心を真に落ち着かせる何かが必要だった。
 
 それは一度だれかに愛されることによる癒しだった。それを得て初めて彼女は、この世界で本当に生きていけるのだった。
 そして、いつからか彼女は天使のことを愛していた。
 
 天使は純真な心の持ち主だったので、彼女の為になるならばと、ありのままにただ求めを受け入れた。そのときの彼には実体がなかったが、彼女を満たすため、その禁忌を犯した。
 
 天使は彼女が望むように、触れられた部分から順に皮膚をまとい、体温を持った。そしてただ、つらかったねと言い、彼女を包んでやった。
 
 天から降(くだ)された実体化の罰は、有限の存在になることだった。天使の羽はやがて朽ち始め、能力を使うたびに身体は醜く変化し、姿が再び元に戻るまでにさらに時間がかかっていった。
 
 あるとき二人は写真を撮った。正常な状態で横並びでの写真を撮ったが、天使の姿は怪物にしか映らなくなった。
 
 やがて彼女は自分の運命を受け入れ、持って生まれた能力を役立てることを決意した。
 天使とその女性は、一旦はそこで袂(たもと)を分かった。天使は彼女に恩を感じつつ、しばらくは天上から見守ることにした。
 
 そうして彼女を見出したのは、好ましくない世界の現実があれば、それを創り変えてしまうことを生業にする、決して表には出てこない人脈だった。現代ではそれはインテリジェンスとも呼ばれる。
 そうして彼女は、そこでの角逐に巻き込まれていくのだった。
 
 彼女が身を投じることとなった角逐は、さいしょ経済的であったり、軍事的であったり、政治的なものであるように見えた。ある時は、あらかじめ金融相場で先回りした上で、外国との為替を急変動させるため、ある地域で紛争を嗾(けしか)けた。またある時は、政界の目障りな人物を引きずり下ろすため、表沙汰になっていない醜聞(しゅうぶん)を報道機関に耳打ちした。どこでどんな汚職に手を染めているか、その人たちにとっては「視(み)える」のだった。
 しかし、角逐はしだいに根本は宗教的なものなのだと判明していった。各々の勢力には、各々の信仰する神々があり、究極的にはその意志を実現させようとする、当事者らにとっては切実な聖戦だった。
 
 やがて角逐は、人間界だけでなく、各々の宗教に紐づけられた各天界すら巻き込んだ、血みどろの抗争だったと明らかになった。そのことについて天使に自覚はなかったが、彼の属す天界は本来それらとは無縁の自由勢力だった。彼女の動向を上から見ていた天使は、いよいよ抗争が凄惨さを増していくのを確信し、彼女を助け出すことを決心した。だが、それが裏目に出た。
 
 当時の天使は純粋で、思慮深くはなかった。彼女はそれまで各勢力との絶妙な均衡を維持して立ち回っていた。彼女の能力はその界隈ですら非凡だった。そこへ無関係の天使が介入したことで、彼女は一方に加担したとみなされ、真っ先に命を狙われる身となった。
 
 世界の陰謀から彼女を遠ざける方法はないのだろうか。
 
 考えた末に天使は、永世中立の楽園の存在を知り、彼女をそこへ匿うことに決めた。
 
 やがて角逐は人知れない水面下から世間一般へと表面化し、大陸で戦争が起こった。空を兵器が行き交い、世界は燃えているなか、天使は有限化によって残された最後の力を振り絞り、彼女を楽園に運んでいった。その時すでに天使は、後戻りはできない醜い怪物の姿に変身を遂げていた。
 
 楽園には無事到着したが、天使は醜く、そこに居座れなかった。しかし彼女には天使が必要だった。
 天使は、離れていても風に想いを乗せて届けるからと約束した。特殊な能力の持ち主である彼女は、十分なことを悟り、はいと答えた。
 
 彼女のもとを去る天使。彼女は楽園の小さな家で、襲われる心配とは無縁で、天使から届く便りを読みながら過ごした。
 
 禁を破った天使は、純正なこの世からは追放された。だが、捨てる神があれば拾う神もあった。
 彼女にはもう二度と会えなかったが、天使は人間を善きものに導くという誓いのもと、元通りの姿と別の世界での役割を与えられた。
 そして、まどろむ個人が最期に見る個別の世界に降り立ち、後悔なく逝かせる任に就いたのだった。
 
 彼女と過ごした記憶とともに、天使には人間らしい心が芽生えていた。

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