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【小説】『フラッシュバック』#37

 息が続かない。体の感覚がなくなる。視界がなくなる。やがて消える。意識が途切れる。ぼやける。やがて小さな穴があく。何かが見える。しだいに鮮明になっていく。目の前が進んでいく。どこだここは―――――――――――。
 ぼくは歩き続けている。身体が宙を蹴って動いていく。どこなんだここは……。
 すると視界が開けていった――。
 
 ――音のしない砂漠。浅葱(あさぎ)色と薄紅(うすべに)色が空に同居している。一日のどの時間帯なのかわからない。太陽は動かず、白砂の丘が茫々(ぼうぼう)と広がっている。風があらゆる方向からそよいでいる。
 暑さを感じない。温度がない。日差しが眩(まぶ)しくもない。砂が舞うことも、埃(ほこり)に塗(まみ)れることもない。渇きを感じることもない。ぼくはその中を歩いている。
 
 いつからここへ来ていたのだろう。わからない。ただ気づいたら歩き続けてきている。そうして何も考えずに身体が進む。自分とは無縁に動いているように感じる。そしてそれをぼくは自分の目の内側から眺めている。視界は茫然と再生されていく。
 
 果てしなく続く白い砂と極彩色の空の下に、目の前には道が続いている。歩き続ける。進んでいく。疲れることはない。
 やがてその先に翠(みどり)の一帯が見えてくる。少しずつ揺らめくように近づいていく。あれは何だろう。砂漠の中で、それは隔絶され、超然として在(あ)る。
 するすると迫る。道なき道を進んでいる。近づいてくる。ここはどこだろう。もうそろそろ到着する。
 足を踏み入れるとそこには碧(あお)く澄んだ湖があって、水面(みなも)が凪いでいる。その先には小さな森があって、異国情緒のする見たことのない樹が整然と生い茂っている。それが風にそよがれて揺蕩(たゆた)うように揺れている。
 その砂漠の真ん中には小さなオアシスがあり、翠の楽園の先には小さな家があった。
 その小さな木の家は隅々にわたって手入れが行き届いている。決して新しくはなく、何百年も佇んできたような古さすらあるが、時間の衰えを感じさせない。ひっそりと佇む姿はぼくの訪れを待ち望んでいたかのように見える。そう思える。そう感じられる。
 
 するとその小さな家の慎ましい扉が開いて、一人の女の人が姿を現す。白いベールのような服を着ている。どこの国の人の容貌なのかわからない。ただぼくを出迎える。どこの国の言葉を話しているのか、音声としてはわからない。だが、その人の話している内容は不思議と理解できる。
 
 行きましょうかという無言の目配せをもらい、ぼくらは外を散歩しに歩きだした。
 そうしてゆったりと砂漠とオアシスの境を巡った。
 
 その人は時々風に手を当てては、胸に手を当てて祈るようにしている。
 その人は、ぼくが何か思っていることを口にするよう期待している様子でこちらを見ている。泰然として、決して目を逸らさない。その人はじっと深く余裕をもってぼくを見つめていて、ぼくも何も考えず自然とその人の目を見ていられる。
 
 ぼくは言った。
 自分はずっと何かを表現したいと思って生きてきました。自分だけの生きた証を残したかったのです。そうしてどこにも行けずもがいてきました。それは物語でなくてもよかったのかもしれません。自分を知りたかったのです。まだ見ぬ自分を追いかけてみたかったのです。
 そしてただ報われたかったのです。なんとか自分の証を完成させて、自分自身の何にも代えがたい満足を手に入れたかったのです。それを得ればさらに先へ進めるようになると、ずっとそう考えて生きてきました。
 でも、まもなく世界は終わりそうです。ぼく自身もまもなく終わろうとしています。そうして何も残せませんでした。何もかも終わっていきます。ぼくはこの程度でした。
 
 するとその人は言った。「世界はそんなに狭量ではありませんよ」
 
 そしてこう言った。
 「あなたは愛を知っていますか」
 
 ぼくは心にピンとくるものを感じなかったが、その人は愛について教えてくれた。
 
 愛する者とは住む世界を異にする運命もあります。愛とはときに間違いを犯すから。
 私の愛した人は善きもののためにだけ存在を許されるから。かつて私たちはともに暮らし、やがて離れ離れになりました。
 でも離れていても、その人は風に乗せて想いを運んでくれます。そして私はそれに手を伸ばすだけでいい。私はそれだけでその人を感じ、こうして生きていられるのです、と。
 
 そしてその人は言った。
 「人はみな、ひとりではないのですよ」
 
 すると世界は急転しだし、視界は遠のいていった。目の前のその人は遠ざかり、声は朧(おぼろ)になっていった。ぼくは後方の暗闇の彼方へと引き戻されていくのだった。
 
 
 
 
 
 ひとりじゃない、か。
 思えばぼくには、いつもだれかがいてくれたな。
 
 幼い頃、テレビの中には光の巨人がいて、終末から奇跡を起こしてくれた。
 がらがら声の愉快なロボットがいて、一人でいても飽きさせないでくれた。
 
 サッカーの代表戦には左利きのファンタジスタがいて、いつも夢を見せてくれた。
 学校に行くとうっとうしい友達がいて、ぼくを放っておかないでくれた。
 
 最初の職場に面倒見のいい先輩がいて、仕事の仕方を教えてくれた。
 本社に出向くと社長がいて、いつもぼくに期待してくれた。
 
 日曜の朝、家に父親がいて、ぼくを大学に行かせてくれた。
 朝早くと夕方、台所に母親がいて、ぼくを見捨てないでくれた。
 
 あの夜バーに天使がいて、だれにも気づかれないぼくに話しかけてくれた。
 写真館にケイコがいて、いつかまた晴れると教えてくれた。
 
 ぼくの隣に思い出せないだれかがいて、ぼくはまだ生きていけると思えた。
 ぼくはまだ。
 
 ぼくは。


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