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旅の記:2023年9月のツアー〘51〙玉井宮東照宮(岡山県岡山市)

【旅の記:2023年9月のツアー〘51〙玉井宮東照宮】 岡山藩主・池田光政の大願ではじめて日光東照宮から勧請して創建されたという玉井宮東照宮へ。 もともとは元児島郡小串村大字光明崎(米崎)に大宝3年(703年)に創建されたトヨタマビメを祀る神社で、応徳2年(1085年)に現在の地に遷座して、玉井宮となったという。米崎にあったころは空海や円珍という高僧の崇敬を集め、現在の地に移ってからも宇喜多家や代々の城主、武士や農民の厚い崇敬を受けた。 天保2年(1645年)に池田光政の命

    • 旅の記:2023年9月のツアー㊿後楽園(岡山県岡山市)

      【旅の記:2023年9月のツアー㊿後楽園】 岡山城から旭川を渡って後楽園へ。日本三名園のひとつで、石川の兼六園、水戸の偕楽園、そしてこれで三名園全部行ったことになります。 後楽園は名君と言われた岡山藩主・池田光政の息子・綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて作らせた庭園で、1687年(貞享4年)に着工、14年の歳月をかけて1700年(元禄13年)に完成した。この間、綱政は足しげく通って、賓客をもてなすために建てた「延養亭(えんようてい)」で自ら工事に関っている家臣たちの労をねぎ

      • 旅の記:2023年9月のツアー㊾岡山城(岡山県岡山市)

        【旅の記:2023年9月のツアー㊾岡山城】 ツアー最終日、まずは岡山城へ。2022年のツアーで来たときは改修中だったので、初の登城となります。 ここ石山台(岡山)に南北朝時代には城が築かれていたとされ、戦国時代である大永年間(1521‐1528年)は金光氏が居城としていた。元亀元年(1570年)備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であった宇喜多直家が金光宗高を謀殺し入城、城の改築と城下町の整備を行った。直家は幼少の頃に父が浪人して備前福岡の商人に庇護を受けていたといわれ、街

        • 旅の記:2023年9月のツアー㊽津山城(岡山県津山市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊽津山城】 さ、やってまいりました津山城。嘉吉年間(1441~1444年)に守護大名の山名教清が一族の山名忠政に、現・津山城のある丘陵に築城させたのが最初とされる。しかし、応仁の乱で山名氏が衰退すると廃城となった。ここ美作は南北朝時代から戦国にかけて、山名氏・赤松氏・尼子氏・浦上氏・毛利氏・宇喜多氏など変遷した。慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの功績で小早川秀秋が備前・美作両国を領したが、秀秋はアルコール依存症のため22歳の若さで死去。無嗣

        旅の記:2023年9月のツアー〘51〙玉井宮東照宮(岡山県岡山市)

          旅の記:2023年9月のツアー㊼箕作阮甫旧宅(岡山県津山市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊼箕作阮甫旧宅】 箕作阮甫は寛政11年(1799年)津山藩医の家に生まれた。4歳で父を、12歳で兄を亡くし家督を相続。儒学を学ぶ一方、文化13年(1816年)に京都に出て、3年間医術習得に励んだという。文政2年(1819年)帰国すると開業し、翌年には結婚した。文政6年(1823年)藩主の供で江戸へ行き、宇田川玄真の門に入り、洋学を学んだ。天保2年(1831年)家族と共に江戸に移り津山藩邸に入るが、八丁堀に家を構え、医院を開き、非番の日に町人の

          旅の記:2023年9月のツアー㊼箕作阮甫旧宅(岡山県津山市)

          旅の記:2023年9月のツアー㊻中山神社<美作国一宮>(岡山県津山市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊻中山神社】 ライブの次の日、友人のライブを観に行ったので、その前に岡山の友人と津山へ。まったく旅程になかったのですが、お城がありますよ!ってことで、そしたら少し調べて、行ってみようということで、まずは美作国一宮である山中神社へ。この辺りは美作というんですね。 社殿によれば、慶雲4年(707年)伽多野部長者乙丸という人が、祀っていたオオクニヌシを祀る宮所を中山神に譲ったことが起源だという。実際には和銅6年(713年)に美作国が備前の国から分立

          旅の記:2023年9月のツアー㊻中山神社<美作国一宮>(岡山県津山市)

          旅の記:2023年9月のツアー㊺足王神社(岡山県赤磐市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊺足王神社】 岡山でのライブの前に、足のケガ、病気に霊験あらたかな神社があるということで、赤磐市の足王神社をお参りしました。フットサル、サッカーをプレーしますが、ある時期やりすぎて怪我が続いたため、膝があまりよろしくないので、足関係の神社(結構あるんです)はよくお参りさせていただきます。 足王神社はオオクニヌシ、そしてスサノオが出雲国に降り立って最初の妻となるクシナダヒメの両親で父・足名椎之命(あしなづち)、手名椎之命(てなづち)をお祀りしま

          旅の記:2023年9月のツアー㊺足王神社(岡山県赤磐市)

          旅の記:2023年9月のツアー㊹牛麓舎跡<山田方谷家塾>(岡山県高梁市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊹山田方谷家塾 牛麓舎跡】 山田方谷は備中松山藩士で藩主・板倉勝静の政治顧問であった儒家・陽明学者です。 文化2年(1805年)に農業と菜種油の製造・販売する山田家に生まれる。山田家は元は郷士であったが、曾祖父が事件を起こし自害するということがあり、財産没収のうえ処払いとなっていたが、祖父の頃に許されて地元に戻っていた。 方谷は早くから学問を初め、3歳で漢字を覚え、4歳で山木神社に扁額を奉納、藩儒・丸川松隠に学ぶと6歳で備中国新見藩藩主・関長

          旅の記:2023年9月のツアー㊹牛麓舎跡<山田方谷家塾>(岡山県高梁市)

          旅の記:2023年9月のツアー㊸備中松山城<現存天守>(岡山県高梁市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊸備中松山城】 岡山県高梁市に立ち寄ったのは、そう現存天守12城の一つで、唯一の山城である備中松山城があるからです。この旅3つ目の現存天守。伊予の松山城と備中の松山城を一旅で巡れるとは、、 仁治元年(1240年)備中有漢郷の地頭となった秋庭三郎重信という人が大松山に城を築いたのがはじまりとされ、元弘年間(1331~1334年)高橋宗康が小松山まで拡張した。以後、城主は上野氏、庄氏、そして三村氏となり、戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山

          旅の記:2023年9月のツアー㊸備中松山城<現存天守>(岡山県高梁市)

          旅の記:2023年9月のツアー㊷八重籬神社(岡山県高梁市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊷八重籬神社】 さ、現存12天守で唯一の山城である備中松山城へ、、の前に、麓にある八重籬(やえがき)神社へ。寛政5年(1793年)に備中松山藩4代藩主・板倉勝政が家祖勝重を祀る神社として創建。勝重は京都所司代として有名ですね。御根小屋(現:岡山県立高梁高等学校)内の馬場にあったが、文政13年(1830年)に現在の地に遷座。当社はあくまで板倉氏の神社として、氏子は板倉氏のみで、維持ももっぱら藩財政でまかなわれた。維新後は旧藩関係者もほとんどいな

          旅の記:2023年9月のツアー㊷八重籬神社(岡山県高梁市)

          旅の記2023年9月のツアー㊶頼久寺<国指定名勝>(岡山県高梁市)

          【旅の記2023年9月のツアー㊶頼久寺】 臨済宗永源寺派の寺院である天柱山頼久寺は、創建は不明ながら暦応2年(1339年)足利尊氏が備中国安国寺として、寂室禅師を開山第一祖として再興した。ご本尊は聖観世音菩薩。永正年間(1504~1521年)に備中松山城城主だった上野頼久が中興の祖とされ、寺院の整備を進めたことから、大永元年(1521年)に頼久が亡くなると、その名から寺号を安国頼久寺に改めた。また宇喜田直家・毛利氏に滅亡させられた備中三村氏3代の墓があり、この時の兵乱で伽藍

          旅の記2023年9月のツアー㊶頼久寺<国指定名勝>(岡山県高梁市)

          旅の記:2023年9月のツアー㊵山中鹿之助終焉の地・胴墓(岡山県高梁市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊵山中鹿之助終焉の地・胴墓】 山陰から岡山への道すがら、現存天守備中松山城のある岡山県高梁市を歴史巡り。島根県安来市の月山富田城にある山中鹿之助の誕生地行って、まさか終焉の地にも来ることにあるとは。あくまでもライブの都合で旅を組んでいるのですが、ツアーの中でつながりある土地や史跡を巡ることになる偶然に、驚くことが多々あります。 尼子氏の重臣の家に生まれた山中鹿之助幸盛、主家の滅亡により浪人するが再興軍を結成して、何度も毛利に挑むものの、最後

          旅の記:2023年9月のツアー㊵山中鹿之助終焉の地・胴墓(岡山県高梁市)

          旅の記:2023年9月のツアー㊴美保神社(島根県松江市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊴美保神社】 米子でのライブの次の日、美保神社へ。そうか、島根半島にあるので島根県なんですね。一度鳥取入りしてるので、お参りのため島根に再入県! 美保神社はオオクニヌシの息子で、事代主神(ことしろぬし)、そしてオオクニヌシの后である三穂津姫命(みほつひめ)をご祭神としています。 コトシロヌシはえびす様と同一神とされ、当社はえびす様の総本宮とされます。えびす様はいろいろな捉えられ方があり、他にも総本宮といわれる神社がありますが。そして三穂津姫は

          旅の記:2023年9月のツアー㊴美保神社(島根県松江市)

          旅の記:2023年9月のツアー㊳米子城(鳥取県米子市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊳米子城】 今ツアー6県目の鳥取県に到着、チェックインの前に米子城へ。 文明2年(1470年)応仁の乱の頃に尼子清定と戦った伯耆方が米子城に入るという記録があり、米子城はこの頃の築城と考えられている。勢力を広げる尼子氏の支配となるが、永禄5年(1562年)頃に毛利氏が尼子氏を攻略して、米子をかつて伯耆の守護であった山名氏の支配に戻す。永禄9年(1566年)尼子氏が滅亡。永禄12年(1569年)には尼子氏再興の旗揚げをした山中鹿之助に山名氏が

          旅の記:2023年9月のツアー㊳米子城(鳥取県米子市)

          旅の記:2023年9月のツアー㊲富田八幡宮(島根県安来市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊲富田八幡宮】 欽明天皇31年(570年)にオオクニヌシの分霊を勧請して創建されたという富田八幡宮。八幡宮なのにオオクニヌシ? オオクニヌシが国造りの際に、船によってやってきた小さな神様・スクナヒコ。突然やってきて、助けてくれたのに、突然いなくなってしまって、途方に暮れるオオクニヌシ。その時、幸魂神が現れてオオクニヌシを救った場所が月山だった、ということで月山山頂に勝日高守神社を、山麓に勝日神社を創建した。ちなみにこの幸魂神(=オオモノヌシ)

          旅の記:2023年9月のツアー㊲富田八幡宮(島根県安来市)

          旅の記:2023年9月のツアー㊱洞光寺<尼子氏菩提寺>(島根県安来市)

          【旅の記:2023年9月のツアー㊱洞光寺】 洞光寺は尼子経久が父・清定の菩提を弔うため明応年間(1492~1501年)に創建した曹洞宗の寺院、または、文正年間(1466~1467年)に清定が備後国にて創建、文明年間(1469~1486年)に富田に遷し、長享元年(1488年)に清定が亡くなった際に尼子家の菩提寺として整備した、という説もあります。 いずれにせよ月山富田城の城主だった尼子氏の菩提寺として、篤く庇護されたと思われますが、永禄9年(1566年)に毛利元就によって富田

          旅の記:2023年9月のツアー㊱洞光寺<尼子氏菩提寺>(島根県安来市)