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旅の記:2023年9月のツアー㊷八重籬神社(岡山県高梁市)

【旅の記:2023年9月のツアー㊷八重籬神社】

さ、現存12天守で唯一の山城である備中松山城へ、、の前に、麓にある八重籬(やえがき)神社へ。寛政5年(1793年)に備中松山藩4代藩主・板倉勝政が家祖勝重を祀る神社として創建。勝重は京都所司代として有名ですね。御根小屋(現:岡山県立高梁高等学校)内の馬場にあったが、文政13年(1830年)に現在の地に遷座。当社はあくまで板倉氏の神社として、氏子は板倉氏のみで、維持ももっぱら藩財政でまかなわれた。維新後は旧藩関係者もほとんどいなくなってしまったこともあり、近くの内山下・川端町が管理維持しているそうです。

拝殿
ご本殿。明治18年に父勝重を継いで京都所司代を務めた二代重宗を合祀。
境内社・熊田神社熊田恰を祀る。慶応4年(1865年)戊辰戦争の後、大阪城にいた備中松山藩藩主板倉勝静は将軍徳川慶喜と城を秘密裏に脱出して江戸に戻った。在阪していた藩老熊田恰は藩兵150名と共に備中玉島に帰着するが、朝敵として岡山藩兵に囲まれた。備中松山藩は藩主不在ながら恭順を決め、その証として熊田は自刃した。享年44。
臥牛亭(がぎゅうてい)。板倉勝静が農民の苦労をしのぶために、藩庁の一郭に農園を設け、明農園と名付け、自ら横行をしたそうです。農園の隅に農耕の神々を祀る小亭を建てたのがこの臥牛亭で、明治6年撤去されていたものを山田方谷が惜しみ、対岸の蓮華寺、そしてその後当社に移築した。


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