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旅の記:2023年9月のツアー㊳米子城(鳥取県米子市)

【旅の記:2023年9月のツアー㊳米子城】

今ツアー6県目の鳥取県に到着、チェックインの前に米子城へ。

文明2年(1470年)応仁の乱の頃に尼子清定と戦った伯耆方が米子城に入るという記録があり、米子城はこの頃の築城と考えられている。勢力を広げる尼子氏の支配となるが、永禄5年(1562年)頃に毛利氏が尼子氏を攻略して、米子をかつて伯耆の守護であった山名氏の支配に戻す。永禄9年(1566年)尼子氏が滅亡。永禄12年(1569年)には尼子氏再興の旗揚げをした山中鹿之助に山名氏が呼応するも、毛利方の吉川元春に攻められ、米子城は落城し、元春の家臣か城主となる。天正19年(1591年)東出雲・隠岐・西伯耆を領した毛利氏の一族である吉川広家が城主となり、湊山を中心に本格的に築城を開始した。慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで西軍の大将だった毛利氏は周防・長門に減封された。広家は早くから徳川家康に気脈を通じ、関ケ原の戦いでも南宮山に布陣し、総大将・毛利秀元や他の武将ら出陣を阻害するなど、東軍勝利に貢献するした。これにより周防・長門の2カ国は広家に与えられるものだったが、それを断り、毛利宗家に与えるように家康に起請文を提出している。広家は岩国3万石の領主となった。
広家の後には豊臣政権において三中老の一人であった中村一氏(関ケ原直前に死去)の長男・一忠が関ケ原での戦功によって駿河府中14万石から伯耆国米子城17万5000石で入る。一氏が駿府城主だったから、家康的には邪魔だったかな?
一忠は11歳とまだ若かったため叔父の横田村詮が後見役となり、城を完成させ、城下町の建設するなど藩政において辣腕を振るった。これに嫉妬した他の側近らが、村詮の排除を計画、讒言によって慶長8年(1603年)一忠は村詮を誅殺してしまう。村詮の子・主馬助や家臣らは飯山に立て籠ったが、隣国松江藩主・堀尾吉晴に助勢を頼み、これを鎮圧した。この報告を受けた家康は激怒、村詮殺害の首謀者らは吟味もなく切腹、事件を阻止できなかった他の側近も江戸において切腹に処された。一忠は謹慎のみで、お構いなしとなったが、慶長14年(1609年)20歳で急死した。跡継ぎがいなかったため、中村家は断絶、江戸幕府により改易された。替わって加藤貞泰が伯耆内で2郡6万石を領して藩主となる。元和3年(1617年)貞泰が大須藩に移されると、米子藩は廃藩となり鳥取藩池田光政の所領となった。米子城には城代が置かれたが、鳥取城が手狭ということで、米子城も新城の候補に挙がるも、鳥取城を改築する運びとなり、米子が鳥取の首都になることはなかった。寛永9年(1632年)叔父である岡山藩主池田忠雄が死去すると、従弟で忠雄の嫡男・光仲が3歳と幼少であるためとして、鳥取から光政が岡山藩に国替えとなり、光仲が入れ替えで鳥取に入った。以降、明治維新に至るまで鳥取藩の家老である荒尾但馬家が城代として駐在した。
明治に入ると廃城となり、払い下げされ、建物は石垣を残して取り壊さ江れた。昭和8年(1933年)に米子市に寄付され、湊山公園として整備された。昭和57年(1982年)石垣修理を実施、以降も発掘調査が続けされ、数々の遺構が確認されている。

いざ
二の丸枡形虎口
旧小原家長屋門。昭和に移築された米子荒尾家家臣小原氏の長屋門。
御殿御用井戸跡
二の丸はテニス場になっています。横田村詮は慶事の際に、二の丸で殺害されたそうです。
本丸の石垣が見えます
遠見櫓跡
本丸へ
眺めが素晴らしい
秀峰大山の方角、、雲で隠れています。
石垣

米子城には五重の天守と四重の副天守があったとされ、山陰随一の名城と称されるお城であったそうです。とにかく眺めがよく、360度一望できますよ。夕陽を見るツアーもあるとか。ライブのため、夕陽の前に下城しますが。ホームページにはスーツでも登れる気軽さ、とありますが、月山富田城に続き一日2城の僕には少しきつかったかもです(笑)
豊臣政権の三中老、生駒親正は高松で、堀尾吉晴は出雲、そして中村一氏(は米子に来ることなく亡くなりましたが)と三人のゆかりの地を巡ったことになりましたね。三中老という役職は後世の創作である可能性が高いそうですが、秀吉のもとで重きをなした武将たちだったことは確かですね!いずれも秀吉亡き後は家康についているということで、時代を見る目も確かだったのでしょう。


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