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旅の記2023年9月のツアー㊶頼久寺<国指定名勝>(岡山県高梁市)

【旅の記2023年9月のツアー㊶頼久寺】

臨済宗永源寺派の寺院である天柱山頼久寺は、創建は不明ながら暦応2年(1339年)足利尊氏が備中国安国寺として、寂室禅師を開山第一祖として再興した。ご本尊は聖観世音菩薩。永正年間(1504~1521年)に備中松山城城主だった上野頼久が中興の祖とされ、寺院の整備を進めたことから、大永元年(1521年)に頼久が亡くなると、その名から寺号を安国頼久寺に改めた。また宇喜田直家・毛利氏に滅亡させられた備中三村氏3代の墓があり、この時の兵乱で伽藍が焼失するが、毛利家臣天野元明・元信が再興した。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦い後、備中国1万4000石には小堀政次が入り、備中の徳川直轄領の管理も任された。政次は備中・近江における検地などで功績を挙げるが、慶長9年(1604年)江戸へ参勤の途上、藤沢で急死した。遺領は子である政一(小堀遠州)が継ぎ、荒廃した備中松山城に代わり当寺で政務を行っており、元和5年(1619年)に移封となるまで過ごした。この時に境内の庭園を作庭したという。ちなみに慶長13年(1608年)に駿府城奉行としての功により翌慶長14年(1609年)に従五位下遠江神に叙任されたことから、小堀遠州と呼ばれるようになったという。それ以降の情報は見つけられずでした。

山門。伽藍は天保10年(1839年)に大火により全焼しているということで、それ以降のもであるのは確かですね。
本堂
薬師堂
頼久寺庭園。「鶴亀の庭と呼ばれる。小堀遠州の初期の作とされますが、確かな記録はないようです。当寺で政務をとっていたとしたならば、美的感覚的に、作庭せずにはいられなかったのではないでしょうか!
ここに住みたい!と思うくらい、とても雰囲気の良いところでした。平成21年に本堂や書院も名勝に指定され、頼久寺全体が名勝となりました。

小堀遠州作のお庭はいくつか見ていますが、さすがですね。いつか深堀する日が来ることでしょう。。

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