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旅の記:2023年9月のツアー㊽津山城(岡山県津山市)

【旅の記:2023年9月のツアー㊽津山城】

さ、やってまいりました津山城。嘉吉年間(1441~1444年)に守護大名の山名教清が一族の山名忠政に、現・津山城のある丘陵に築城させたのが最初とされる。しかし、応仁の乱で山名氏が衰退すると廃城となった。ここ美作は南北朝時代から戦国にかけて、山名氏・赤松氏・尼子氏・浦上氏・毛利氏・宇喜多氏など変遷した。慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの功績で小早川秀秋が備前・美作両国を領したが、秀秋はアルコール依存症のため22歳の若さで死去。無嗣断絶で改易された。
慶長8年(1603年)に森忠政が18万6千石で入封して津山藩を立藩し、津山城の築城を開始した。この時城地の名を「鶴山」から「津山」に改めた。忠政は小牧・長久手の戦いで戦死した鬼武蔵・森長可の弟ですね。元和2年(1616年)13年の年月をかけて、天守、櫓、城門などを合わせ80余棟が立ち並ぶ近世城郭が完成した。元禄10年(1697年)4代長成が死去、末期養子に2代永継の12男衆利が迎えられたが、継承挨拶のために江戸に向かっている途中、伊勢で狂心したといい、美作津山藩は召し上げられることとなったという。。しかし長継は健在であったため、備中国西江原藩2万石の再襲を許され家名を存続して、その子たちも支藩にそれぞれ転封した。元禄11年(1698年)に松平宣富が10万石で入部し、廃藩置県まで津山松平氏が治めた。松平氏の治世は、なかなか政情が定まらず、一揆が頻発したそうでうす。文化6年(1809年)に火災で本丸御殿を焼失。幕末、津山藩は勤皇・佐幕を巡って混乱したが、慶応4年(1869年)鳥羽伏見の戦いで官軍が勝利すると、因幡鳥取や播磨竜野藩の勧めや、岡山藩からは武力で脅迫され、藩論は新政府参加でまとまった。明治4年(1871年)廃藩置県により津山県となり、後に岡山県に編入された。明治6年(1873年)廃城令により、大蔵省管理となり売却。明治7年(1874年)から翌年にかけて天守・櫓などの建物がことごとく破却される。四脚門は中山神社に移されている。
明治23年(1890年)腰巻櫓跡石垣の崩落を機に、城の保存運動が起きた。明治33年(1900年)鶴山公園として整備され、桜が多数植えられた。昭和11年(1936年)津山線全通記念産業振興大博覧会で模擬天守を建てたが、昭和20年(1945年)空襲の目標とされる可能性があるとして解体された。昭和38年(1963年)国の史跡となる。

無料駐車場より。
森忠政公
日本の「さくら名所100選」に選定されているそうです。
平成14年(2002年)築城400年記念行事の一環として復元された備中櫓。
本丸へ
天守台天守は小倉城を模して造られたという。森忠政は家臣を派遣して、小倉城を検分させたが、小倉の家中の者に見つかってしまう。事情を聞いた当時の小倉城主細川忠興は森家家臣を城内に招き入れて、好きなだけ調査させて、図面まで手土産に与えた、という伝承があるそうです。また天守は5重であったため幕府に目をつけられ問い詰められたとき、忠政はとっさに「4重である」と主張した。しかし疑った幕府は調査の使者を向かわせた。忠政は家臣伴唯利を津山に先回りさせて、4重目の屋根瓦を破棄して「あれは庇(ひさし)である」として、なんとか難を逃れたそうです。伴唯利は仙術を使って、一夜で江戸から津山に帰ったそうです!
天守台から見る津山のまち
七番門と虎口

津山城は日本三大平山城のひとつで、王子は広島城の76棟、姫路城の61棟を凌ぐ77棟の櫓が建ち並んでいたそうです。さぞかし壮観だったでしょうね。一揆が多い土地でもあったということで、領主の象徴である城は残そうという運動はなかったのでしょうか。。お城の運命もいろいろですね。



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