SNS漬けの生活

インターネットを使い始めたのは、おそらく小学三年生の頃で、家にはなかったけど親戚のおばさんがパソコンを持っていたり、父親の職場にネット環境があったので、たまに触る機会があったというほどでしょうか。

初めてインターネットに触れた時の感想は覚えていませんが、どうやってたどり着いたのか、チャット部屋というものがあるのを覚え、それ以来おばさんの家に行っては見知らぬ誰かとのオンライン会話を楽しんでいました。とにかくパソコンというかオンラインコミュニケーションにハマり、スムーズに会話ができるように、家にあったワープロでできるタイピングソフトで朝五時から起きて練習したり(早起き苦手なのに)。そのうちHTMLのタグなどを勉強して手打ちでホームページを作ってみたりしていました。

中学生になる頃には家にパソコンがあって、日常的に知らない人と会話をしたりオフ会に行ったりしていました。SNSはというとMyspaceとかはあったような気がしますが、日本ではそもそもそこまで爆発的に流行らなかったし、記憶する限りFacebookやTwitterもなかったので、どこかのチャット部屋でいつも会う人と梅田とか京都で会ってカラオケに行ったりご飯を食べに行ったりしていました。今思うと周りはお姉さんお兄さんばかりで、未熟な中学生と話してても何も楽しくなかったと思うのですが、仲間に入れてくれていてありがたかったなと思います。

そのうちmixiやFacebook、Twitterが流行り始めて一通りハマった後、今はFacebook(連絡用)、instagram(生活の記録)、MisskeyとMastodon(会話用)という三つ(あるいは四つ)に落ち着いています。何をSNSとするかによって何を含めるのかが変わると思いますが。(noteはSNSに入るのか?)

とにかく私は思春期から中毒とはまではいかなくてもSNS漬けの生活を送っており、一時あまり使わなくなったけど(働いていた時)、今また新しいMisskeyやMastodonというコミュニケーションツールを使って日々投稿し続けています。MisskeyやMastodonはよくミニブログサービスと書かれていますが、私の中ですっごいコミュニティーの狭いTwitterとチャットの間みたいなものでしょうか。そもそも分散型SNSって何?って方はマストドン入門をどうぞ。

そんな感じで、ハンガリーに移り住んでからというのが大きいと思いますが、再びSNSにどハマり中のどハマりをしているのです。Facebookとinstagramは一日に一回チェックする程度ですが、その他二つはパソコンを開いている限り、ほぼつけていることが多いです。

こうずっとSNSをしてると「こんなにSNSしてていいのかなぁ」という気持ちが自然に湧き上がってきます。前まではそれを何の疑問も持たず、「SNS依存は病気だ」「集中力の妨げになるからやめるべき」と思って、一日になるべく見ないようにしたり(夕方だけとか)、アカウントを消してみたりしたこともありました。しかしこれらがうまくいかず、結局は今は本能の赴くままにSNSを使っているような状況です。

うまく行かないというのは、別にやめたからと行って劇的に生産性が上がった訳でもなく、むしろ鬱々としたり、ストレスがたまり続けて結局ネットサーフィンから抜け出すことができなかった感じです。そもそも立ち返ってSNSって何でダメなんだろうと考えるとよくわからなくなってきました。

前に心理カウンセリングに行った時に言われたのは、SNSはいわば偽(フェイク)の世界で現実(リアル)ではないので、リアルの人間関係をもっと充実させたほうがいいとのことでしたが、はて、しかし私にとってはSNSもリアルの一部なのです。

私のSNS依存は一般的ないいねやコメントの数が気になるとか、流行りを追いたいとか、そういうものではなくて、ただ息を吸うように自然にSNSを見続けることが生活の一部となっていて、それをどう捉えて行けばいいのか悩んでいるところです。使い続けて、使っている最中「今はいい使い方だな」と思える時と、「今は悪い使い方だな」と感じる時があります。

いい使い方だなぁと思える時は、一人で悶々と考えていること投稿し続けたり、あるいは誰かとの対話を通して、自分が考えていたけれどうまく言語化できてなかったこと生み出す瞬間。頻繁に起こるものではなく、ごくごく稀にあるだけなのですが、その創造的な瞬間を待ち続けているようなところはあると思います。もちろん自分の考えだけじゃなくて、他人の考えに創発される瞬間も含めて。

悪い使い方だなぁと思える時は、ただただ現実逃避の為に使い続けている時で、逃げ続ける手段として何かを投稿し続けている状態です。こういう時は、ワクワクしているわけでもなく、ただただしんどいなぁという状態で、でもひたすら何かを書く衝動に駆られているような感じ。結局やらなければならないことはなくならないので、SNSで消耗し(体力を)、自分の仕事のクオリティにも影響が出るという悪循環。

運動を始めてから、後者の使い方は前と比べると(何故か)減った気がしますが、それでも締め切り前とかはそういう感じになってしまい、となると問題はこの逃避癖だなということに、改めて気づかされます。そういえばmixiが存在する前は、テスト勉強の逃避のために普段読まないのにドラゴンボールとかスラムダンクを一巻から読み始めてたりしていたな。

と、現実逃避の話はまた考えるとして、SNSと依存のテーマで他の人のノートを読んでいた時に見つけた記事。

SNSの醍醐味として安易な共感(と反感)はあると思うんですよね。私が自分の考えを投稿したり、誰かに反応したり反応されたり、というのは全て共感(と反感)の相互作用で成り立ってるなぁと実感するし、それが楽しいし、うまくいかないともどかしい。Twitterでも炎上とか言いますが、MisskeyやMastodonみたいなコミュニティがすごく小さいところでも揉め事は日々起こっているので、人と人が関わりあう上ではしょうがないのかなとも思ったりします。

そこで記事によると結局自分は自分で他人は他人という話なのですが、確かに安易に共感することで、相手に敬意を払わなくなっているという。確かに一般人同士のコミュニケーションだけでなく、そういう安い共感に働きかけるマーケティングもたくさんあって、量は増え質が落ちた感情のやりとりが増えたのかなぁと気はします。

しかしながら自分の研究領域に寄せて考えると、結局相手の感情や行動を理解する時に自分の身体情報を使ったシュミレーションによって理解しているかもしれない(ミラーシステムの話、しかしこれが本当なのかどうかは議論の余地あり)と思うと、結局他者って(ある種小さな)自分でしかないのかなぁという気もしてしまいます。

SNSの特徴として、今のところは文字だけのやりとりが圧倒的に多くって、そこで安易な共感も反感も作り出されているのかなぁと思っています。将来的にはVRとかもっとお互いの身体情報や空間情報などがやり取りできるコミュニケーションツールが開発されるのかもしれませんが、当面の間はこの文字だけのコミュニケーションが、どう人間の営みを変えていくのかが気になるところです。

ということでそれを見極めるためにも私はSNS漬けの生活から当面抜け出せなさそうだなぁと感じたところです(言い訳というか)。とにかく現実逃避のためには使わないこと、と肝に命じていますが、命じただけで行動が止まればこんなに悩むことも、(場合によっては)お医者さんもいりませんね。