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映画『劇場』ヒモと女と世間とバカボン

ヒモと女

My Hair is Badのフロントマン、椎木知仁のソロ作品で『ガイハンボシとアコギ』というアルバムがある。

曲ごとによって微妙な違いはあれどアルバムに通底する設定は、”ミュージシャンを目指すヒモと、それを飼う女”となっていて、ミュージシャンか演劇家という違いはあれど映画『劇場』はこれと全く同じお話である。

これらの作品は双方とも、ヒモと女、両方の視点からその関係を見比べていく中で、物語が進んでいく。

『ガイハンボシとアコギ』の中の『ヒモと女』という曲の歌詞に、下のようなフレーズがある。

ふたりを繋いでた赤い赤い糸は
こんなに大きなヒモになりました
こんなに大きなヒモが私の手に縛ってある
違うよ縛ってんじゃないよ 君が持ってんだよ

この曲が印象的であるのは、『恋愛として始まったはずの関係がいつしか金銭の絡んだ紐となり、がんじがらめとなった生活の中で女はヒモの不甲斐なさを嘆くけれど、ヒモは女にも責任があると詰る』というネガティヴな関係性を描いた歌詞であるのに、曲全体を通してみると悲壮感や緊張感を覚えない点にある。

歌詞こそ暗けど、曲調とメロディはド直球なポップソング。
だから曲中に登場する男女に対しても、こんな生活を前向きに捉えるわけでもないけれど、諦めを持って受け入れいているような、どこか明るいイメージを受ける。

そして本題の映画『劇場』も、『ヒモと女』のように、不健全で暗いお話であるのと同時に、暗闇の中で微かに灯る線香花火のような明るさを持った作品となっている。

何故女はヒモを飼うのだろうか。
何故女は男をヒモにするのだろうか。
何故ヒモはヒモになるのだろうか。
何故ヒモはヒモであることを自虐的に受け入れるのだろうか。

そして何故ヒモと女のお話は、悲観的になりきらないのだろうか

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不健全な赤い糸

まず、アルバム然りこの映画然り、一般的に語られる”ヒモと女”の関係が、双方にいわゆる良い影響をもたらすことなどないと言える。

何故ならば、“ヒモ”の才能も含めた魅力に惚れて精一杯応援していく中で”女”の生活が擦り減っていく一方、“女”の好意に甘えて生活する”ヒモ”の心も、罪悪感と劣等感によって腐りきってしまうからだ。

変われないヒモを憎めずに空回りしてしまう女と、変われない自分を心底憎み切っているヒモ。

彼らはお互いを疲弊させている原因が自分自身の中にあることを知ってしまっているために、毒を上手く吐き出すことができずそれを互いの内部に貯め続けてしまう。いつか自分の心身が壊れてしまうようなその時まで。

これは誰がどう見たって不健全で好ましくない関係である。アンバランスで、崩れ落ちるまでが一つの物語となるような関係性。

では逆に、健全で好ましい関係とは何なのだろうか。

二人を繋いでいた赤い赤い糸を、こんなに大きなヒモにせずに健全さを保つためにはどのようにすれば良いのだろうか。

試しにGoogleで「健全 恋愛」と調べてみたら吐き気のするページばかり出てきたので割愛するけれど、思うに、健全さというものは一部の人にのみ許された特権である。もっと言えば、存在し得ない桃源郷のようなものだ。

これは”健全”という言葉を”健康”に置き換えてみるとよくわかる。

そしてまたそうすることで、先述の不健全さ、変われないということが、何故ヒモと女を追い詰める毒となってしまうのか、ということもわかってくる。

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健康健全という幻想

ジョギングしろ、毎日8時間ねろ、脂質を減らせ、糖質を減らせ、発酵食品を摂れ、肉は食うな、肉を食え、一日三食食べろ、二食にしろ、サプリを飲め、サプリは飲むな、手を洗え、マスクをしろ、人と話すな、密集するな、電車に乗るな、音楽なんか聴くんじゃないetc、

インターネットや中吊り広告、本屋に行けばどこの馬の骨とも知らん胡散臭い自称有識者の太鼓判が押されたメソッド本が平積みにされている。

このように、有象無象な“健康になるため”の情報は、百鬼夜行のように僕たちの生活を取り囲んでいて、何が正しくて何が間違っているかなんて当然のこと、何が流行りで何が時代遅れでどんな宗派があるのかさえもよくわからなくなるほどだ。

きっとそれほどまでに、多くの人たちが”健康になりたい”と思っているのだろう。そして、世界はさぞかし健康な人ばかりであるに違いない。

しかし、厚生労働省が発表している死因順位の年次推移を見てみると笑ってしまうような事実を突きつけられる。

根強い願望と医療の発達にも関わらず、日本人の死因トップ5は五十年以上、ほとんど変わっていないのだ。

五年ではない。半世紀以上もの間、日本人は癌、心疾患、脳血管疾患、肺炎、事故によって死に続けている。これが事実だ。

要するに、健康なんてものはどうあがいたって到達し難い幻想なのである。

にも関わらずこの幻想は、不健康・不健全であることへの不安へと姿を変えて、太い太いヒモのような呪いとして僕たちの生活を縛り付け続けているのもまた、事実である。

何故ならば、健康・健全であることは間違いなく良いことで、翻って、不健康・不健全であることは良くないことであるからだ。

そして世間で通用する絶対的な"善"が産み出すのは、決して良き規範ではない。無邪気な"悪"意である。

健康・健全という枠からはみだした人間に対して、世間は差別的な視線を向けていく。
健康で健全な自分の権威を振りかざし、プログラムに生じてしまったバグを治してあげようと、善意に基づいたお節介な悪意をかける。

そして、不健康で不健全な被差別者を恐怖に陥れる。

(自分は間違っているのではないか。)
(まともな人である資格がないのではないか。)
(認められないのではないか。)
(この世界で、生きていけないのではないか。)

こう考えてみると、大抵の場合において僕たちは、本当の意味で健康・健全になりたいだなんて思ってなんかいない。

僕たちは、世間から阻害されて後ろ指を指されたくないから、健康で健全な生活を望むのだ。
訳の分からぬ健康法と、犬も喰わない恋愛指南者を、善意から分泌される厄介な悪意から逃れるために、希求してしまう。

健康で健全な生活をしている"フリをしないと"、世間は決して許してくれないのだから。

そうやって不健康で不健全な落伍者たち、だらしのないヒモと女たちは、彼らの中にも存在している健康で健全な世間の善意から見下され、変わることを強制され続けることにより徐々にだが確実に、心を追い詰められていくのである。

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バカボンのパパ

とはいうものの、多くの人は罪悪感を持ちながらも酒を飲むしタバコを吸うしラーメン食うし夜更かしする。

映画『劇場』のヒモのように、悪口言っては嘘をつき、浮気をしながら平然と日々を過ごす。
人を傷つけ被害者ヅラし、空になるまで心の搾取を続けていく。

そうすることで健康や健全さと引き換えに、いとも簡単に歓びを手に入れられるからである。

死なないためでもなく、世間から逃げるためでもなく、泣いたり笑ったりするために生きられるからである。

ヒモと女が、泣いたり笑ったりしながら過ごすその瞬間に見つめているのは、二人だけの生だ。
それは、いずれ背後から忍び寄ってくる世間の善意と悪意が終わらせてしまうであろう悲痛で暗いだけでなく、喜と楽の明るさに溢れた物語である

その終わりの約束された馬鹿みたいな物語に身を投じるため、女はヒモを飼い男はヒモになり、お互いに自虐し合って「何してんだろうね」と、笑うのだろう。


この映画や、椎木知仁の『ガイハンボシとアコギ』は、そんな不健全さと葛藤、そこから産まれる物語を丸ごと無責任に抱きかかえる作品だ。

健康でなくったって健全でなくったって、世間が許してくれなくたって、「これでいいのだ」と言われる瞬間を待ち望んでいる誰かに対して、バカボンのパパのように声をかけてくれる、そんな作品。

それがいわゆる愛であるのかどうかなんて話はさて置いて、この映画は誰かに必要とされることだけは確かであると思う。

『天才バカボン』読んだこともないけれど、きっとこの映画と似たような話なのだろう。頭おかしくなりそうだから絶対読まないけれど。

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