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”できない自分”に向き合うのが怖かった英会話レッスン

いくら聞いても理解できなかった。

彼女はただ数字を言っているだけなのに、電話から聞こえてくる彼女の声は理解できない呪文のようだった。

海外支店にいる同僚に電話をしたのですが、同僚はおらず現地スタッフが電話に出たんです。

外出で留守だと言われ、携帯番号を教えてあげると言われたのですが(英語でしたが、ここまでのやりとりはなんとかできました)、ぼくはネイティブスピーカーの彼女が話す”数字”がまったく理解できなかったのです。

oneとかtwoとか言っているだけなのですが、それすら聞き取れないんです。

そのとき、ものすごい恥ずかしさに襲われたんです。

ぼくのデスクの周りの人間に、ぼくが数字すら聞き取れないことがバレたらどうしようとか、電話口の現地スタッフに呆れられているんじゃないかとか、すごく恥ずかしくなったんです。

またあとで電話するとか、メールするとか、なんとか適当な理由で電話を切り上げましたが、数日間はショックから立ち直れませんでした。

簡単な日常会話ならなんとかなると思っていたのに、自分が数字すら聞き取れないことにショックだったんです。

そんな自分がとても恥ずかしくて惨めに感じられたんです。

その日から2週間ほど経った頃、ぼくは1年ぶりにオンライン英会話(ブライチャー)を再開しました。

そこで気がついたことは、”できない自分に向き合う恐怖心”を認め、受け入れ、前に進むことの大切さでした。

ぼくは英語で恥ずかしい思いをしたことが他にもあるんです。

何年も前に、会社がお金を出してオンライン英会話レッスンを提供してくれたことがあったんです。

リーディングやヒアリングがメインで、最後にネイティブとの英会話とのレッスンが少しだけあるというものでした。

リーディングやヒアリングは一人でやるのでなんの問題もなかったんですが、英会話レッスンは合同で行うので、10人くらいのメンバーがオンラインでレッスンをするんです。

先生が一人ずつ生徒の名前を呼び、簡単な自己紹介をうながしていきます。

生徒は英語で自己紹介をするわけですが、みんな思ったよりも話せるんですよ。

英語で自己紹介をする自信がまったくなかったぼくは、自分の名前を呼ばれることが怖くて怖くてたまりませんでした。

ついにぼくの名前がイヤホンから聞こえた瞬間、ぼくは無意識のうちにログアウトボタンを押し、二度とレッスンに戻ることはありませんでした。

いったい何が怖かったのか、当時のぼくはよくわかっていなかったのですが、いま思えば、クラスを受講している他のメンバーからどう思われるかが怖かったんだと思うんです。

(この人、何言っているかわからないんだけど)

(この人、これしか話せないの?)

なんて思われるのが怖かったんだと思うんです。

そんなことを思う人は本当はいないのかもしれないけれど、まわりからどう思われるんだろうという不安をぬぐいさることができなかったんです。

もう恥ずかしい思いをしたくない。できない自分に向き合いたくないという気持ちがどんどん大きくなり、英会話レッスンに踏み出す勇気をしばらく持てずにいました。

仕事では中堅として十分な仕事ができるのに、英会話になると一気に赤ちゃんに戻ってしまうんです。

何もできない、何も理解できない。そんな無力感にとらわれて、自分への自信があっという間に失われていく。

ぼくにとって英会話レッスンとはそういうものでした。

でも、ある出来事をきっかけに変わったんです。

ある日、ぼくはめまいが止まらなくなったんです。

立ち上がって歩くと空を歩いているようなふわふわした感覚に襲われて、まともにまっすぐ歩くことができなくなったんです。

頭を少しでも動かすとめまいが起こり、まったく仕事が手につかなくなりました。

もしかしたら脳の問題かも……。

と怖くなったぼくは、脳神経科でMRIを取ってもらい、耳鼻科でも検査(めまいの原因には三半規管も影響してるらしい)をしてもらったんです。

脳も耳も異常がなく、おそらくストレスだろうと言われ、薬を1週間飲み続けたらめまいはやっと治りました。

めまいが治るまでの1週間は本当に生きた心地がしなくて、このまま死ぬんじゃないかと怖かったんです。

めまいが治った頃、死ぬんだとしたら何も怖がる必要はないなと思えるようになったんです。

どうせ死ぬのに、まわりからどう思われるかが恥ずかしくて英会話レッスンができないなんて、本当に意味のない悩みだなって思えるようになったんです。

どうせ死ぬんだったら、やりたいことをやらないと。

どうせ死ぬんだったら、まわりの目を気にする必要なんてないなと。

そう思えるようになったんです。

たかが英会話レッスンなのになんて大げさなと思うかもしれないけれど、ぼくにとっては大きな発想の転換ができた出来事だったんです。

そして、一年ぶりにブライチャーで英会話レッスン(フォニックスと発音のクラス)を受けることを決意しました。

一年ぶりのレッスンは、確かにわからないこと、聞き取れないこと、話せないことが多かったんですが、なんというか、レッスンが終わったあとはとてもすがすがしい気持ちになったんです。

できない自分への絶望感より、自分はまだ成長できるという希望を感じることができたんです。

聞き取れない自分、話せない自分に向き合うことは、まだ恐怖心や羞恥心を感じることはあるんですが、そこを乗り越えた先にあるのは、昨日とは違う自分なんですよね。

赤ん坊のように(英語では)何もできない自分が、少しずつ成長している。

赤ん坊から幼児になり、幼児からティーンエイジャーになり、ティーンエイジャーから大人になる。

そんなこれから先の成長の軌跡が、少しだけかいま見えたんです。

子どもが生まれ、中年と呼ばれる年齢になり、この年になって”無力な自分”と向き合うことは、とても恥ずかしくて怖いのだけど、この年になっても”成長”を感じられるものがあることが嬉しかったんです。

あぁ、自分はまだ新しいことを学べるんだ。

英語を学んだ先にあるものも見てみたい。

洋書を原文のまま読んでみたい。英語圏のニュースをそのまま聴いてみたい。英語圏のポッドキャストを理解できるようになりたい。海外に住んでいる人の話を直接聞いてみたい。会社にいる海外出身の人と英語で話をしてみたい。

そして、いつか英語を使って仕事ができるようになりたい。

昔だったら夢のまま終わっていたことが、この先には現実としてあるんじゃないかと、そう思えるようになったんです。

”死ぬかもしれない”という体験がきっかけでしたが、”できない自分に向き合う恥ずかしさ”に正面からぶつかることで、少しだけ道が開けたような気がしています。

今日もポッドキャストを聴きながら出社し、お昼休みに会議室でこっそりと発音の練習をしようと思います。


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