『ゴジラ −1.0』は令和映画だった。The Critique of Necropolitics: Japanese Gen Z Sensibilities in "Godzilla Minus One" (2023)
2023年12月22日
『ゴジラ-1.0』を観たので、感想を書こうと思います。言いたいことは2つです。令和世代感覚による1)あらゆる神話の解体、そしてフェミニスト分析からの2)令和感覚の限界です。
当たり前ですがネタバレ満載なので、まだ観てない人は要注意です。あと、1回しか観ていないうろ覚えで書いているので、セリフとか流れとか間違っているの前提で読んでください。
あらゆる近代神話の解体
ネクロポリティクスの批判を通して
まずはおそらくこの映画で一番明らかなテーマであるネクロポリティクスの批判を通して読み取れる、近代が構築してきた社会/組織・家族の解体について話します。
神木隆之介演じる敷島浩一(しきしまこういち)は、特攻隊員で、エヴァの碇シンジ戦時中版のような、自分の課された責任から逃げまくる人間です。映画は敷島が戦闘機の故障を偽って大戸島に着陸し、特攻の任務を放棄する場面からはじまります。
さらには、その大戸島でのゴジラ登場時に整備部の偉い人橘宗作に戦闘機の銃で撃ち殺すよう指示されるのですが、敷島は「怒らせたらどうするんですか!?」と、その指示が自分の命を危険に晒したものであることを認識し、ゴジラを前にして、結局命令に従えず銃を撃てずに、橘以外の整備部の全員をゴジラに殺させてしまいます。
ここで明らかなように、この映画は国が人々の命をいかに死ぬように決定するネクロポリティクスの権力の批判を最初に提示してきます。ここまではかなりスタンダードな反戦映画のように見えますが、『ゴジラ −1.0』では、この体制の批判を通してあらゆる神話の解体を繰り広げていきます。この作業が、今風に言えば大変令和的・ちょっと古くいえばポストモダンだと思い、指摘せずにはいられませんでした。順番に説明していきます。
血縁家族の解体
最近の日本映画に通じる、また是枝裕和の継続的な努力にもよる、家族の解体というテーマを、ゴジラマイナスワンも引き継いでいます。
敷島は東京大空襲で焼け野原になった実家に着いて、自分の両親が亡くなっていることを知ります。ちなみに両親の顔も出てきません。血のつながった家族の不在は映画の最後まで貫かれますし、血縁家族像は、大戸島で亡くなった隊員たちの血の滲んだ写真だけが反映しており、戦前に存在した幻のようなものとして登場します。
敷島が家族の喪失に打ちひしがれているとき、浜辺美波演じる典子、そして典子が空襲の際に引き取ったみなし子のアキコと出会い、この3人が不思議な縁でいっしょに暮らしはじめます。周りからみたら若いカップルに見えるし、映画を観ている観客も途中まで敷島と典子はカップルになったのだと勘違いさせられるのですが、決定的な場面があります。
敷島が新しくはじめた仕事の仲間が敷島の家でお酒を飲んでいる場面で、典子が「私奥さんなんかじゃありませんから」と言い、同僚たちが『え、じゃあアキコは誰の子なんだ?』という雰囲気を醸し出していると、アキコが言います。
ちなみに私はこれをカナダの映画館で見ていたんですけど、アキコが「Daddy(サブタイトル)」と言った瞬間周りの観客がAwwww(なんて愛らしい!)と言ってて、敷島がおめーの父ちゃんじゃねえよって言った瞬間ハア???て感じの雰囲気になってました。(ここでは観客めちゃくちゃ素直に反応します)
つまり敷島の標識を立てたこのきれいなおうち(新しいお仕事お賃金が良い)には、父親が存在しないのです。
敷島が繰り返し言う「俺の戦争はまだ終わってない」という、おそらく大戸島で死なせてしまった人々への罪悪感などで家族としての幸せを手に入れてはいけないという謎のマッチョ感でアキコも典子も家族として受け入れられていません。敷島は戦後版碇シンジなので父親役割からも逃れているわけです。
なんなら碇シンジみたいに打ちひしがれ、まるくなり、典子にすがる敷島の「父親ならざる情けない」姿は劇中繰り返し登場します。立派で堂々とした家長としての威厳ある父親像は令和感覚ではまったく共感できないし、むしろドン引く(Cringe)ものなのでしょう。
そういうわけで、父親(権力)不在のこのいびつな家族を中心に物語が展開する『ゴジラ −1.0』は血縁家族像の解体を提示しているといえるでしょう。
会社・組織・国家の解体
すべて一緒くたんにして申し訳ないのですが、家族というプライベート(私的)領域とあわせて、パブリック(公的)領域の権威も『ゴジラー1.0』はザックザク解体・批判していきます。
そもそもこの映画が戦時中・戦後を舞台にしているにも関わらずとっても令和(今)なのは、いま・ここに生きる私たちの時代の空気を反映しまくっているからといえるでしょう。
さてゴジラが再び登場して、やっつけよう!というとき、日本軍は武装解除され、さらにはアメリカ軍はソ連との緊張関係ゆえに何もできないという状況のため、「市民」の人々が集まり、ゴジラ退治の作戦会議に取り掛かることになります。招集された人々は、ほとんどが元海軍の隊員でした。
「学者(あだ名)」こと野田が考え出したゴジラ打倒作戦(ワダツミ作戦)はゴジラが本当に倒せるのかなんの保障もない、行き当たりばったりのものでした。それに対し、「市民」の皆さんは倒せるかもわからないし、自分たちが死ぬかもしれないのに、これをやれっていうのか!?と憤ります。そこで、なんか元軍人の偉そうな人が彼らをなだめつつ、こう言います。
「これは強制ではないです。参加したくない方は、帰っても良いです」
ここが、国家権力のネクロポリティックスの力学とは相反する点です。参加者は全員ボランティア、「自分の意志」でゴジラ退治に参加することになります。それでほんとうに帰っちゃう人も何人かいます。
ここがすごく令和っぽいなと思いました。なぜなら、命をかけてまでしなくてもいい、という選択肢があるからです。
日本の戦争は、天皇を父親(父権)として、国民全員が天皇の子として命を賭して戦いました。女性は良い兵士を再生産(出産)することでその大義名分に加担しました。また、高度経済成長は、会社を家族として身を粉にしてサラリーマンは終身雇用制度の下、献身することを求められました。日本株式会社という名が流通するほど、政治も会社も強調して団結して社会が個人の会社への忠誠(royality)を基本としていた時代です。女性も、未払い労働に身を粉にして家庭の再生産(家族の世話)へ献身することを求められました。
しかし、バブル崩壊後、非正規・派遣といった労働形態の変化の中、終身雇用制が崩壊し、人々は流動的な労働力、いわば使い捨て人材へと変わっていきました。
令和の今、若者の貧困や政治家の腐敗がしばしばニュースで取り上げられ、過労死という言葉も国際的に認識されている世の中、命を捨ててまで忠誠を誓うもの(会社・国家)という感覚は、まったく世相に合わないのです。
ゴジラ退治を発案した学者(野田)は、ワダツミ作戦開始前夜、この映画のテーマの根幹にあるスピーチを行います。(繰り返しになりますが、うろ覚えですのでおおかた間違ってますが、だいたいこんな感じのことを言ってました)
ここで明らかな反戦のテーマをうたいながら、野田が批判をしているのは戦争中に国家権力がネクロポリティクスで人の死に方を決定してきたことです。
現代の文脈でいえば、それは組織のミスマネジメントで至る過労死だったり、福祉のセーフティネットからこぼれた人々の餓死だったり、学校という場で自殺にいたるまで追いやられるような事件だったり、既存の権力によって、人の生死が決められるという社会の構図はいたるところに潜んでいます。日々の生活は国・会社・学校への不信感に満ちています。それゆえ、令和を生きるわたしたちはなにかに忠誠を誓って献身することの愚かさを理解しています。
つまり今の時代に戦時中のイデオロギーを再生産することはまったくナンセンスなのはもちろんですし、わたしたちは命をかけて働けという強制に対して全然共感できません。それゆえ碇シンジのような敷島を身近に感じるのです。
しかしここで注意しなくてはいけないのは、私たちは決して権力構造から解放され、自由になったというわけではない、ということです。
この点に関しては次の項目で説明します。
敷島は最後、特攻してゴジラに体当たりしていくのですが、整備士の橘が用意していた射出座席より脱出して生き残ります。
結局、特攻を失敗し、仲間をゴジラに殺させてしまった敷島は、最後はヒーローとしてみなに称えられます。天皇のため、お国のために命を落としてこそ名誉、軍神と讃えられるといった戦時中のナショナリズムの正反対をいくものでしょう。これで、この映画があくまで人の死を決定するネクロポリティクス批判の反戦の映画であることは明らかだと思います。
令和感覚の限界:『ゴジラ −1.0』のフェミニスト分析
こうして『ゴジラ −1.0』は数々の神話を解体し、新しい令和の価値観を提示してくれたのですが、もちろん手放しで100%素晴らしい映画ってどこにもないし、そこがテキストの表現様式の面白いところだと思います。
ここからは『ゴジラ −1.0』が超えられなかった限界について書いていきます。
典子という性のない(non-sexed)存在
浜辺美波演じる大石典子という劇中の人物について話します。といってもあまり話せることがないというのが正直なところで、なぜなら映画の中での彼女の役割は限定的で、いわゆる「良女・悪女コンプレックス(Madonna–whore complex)」の良女のステレオタイプを地でいく感じで描かれているからです。この理論については分析の中で説明しますが、とりあえず定義だけ引用します。
浜辺美波の登場はかなり面白い感じではじまります。顔も墨だらけでみすぼらしく、孤児である自分がまた別の孤児であるアキコを育てようとする力強さ(Resilience)と、敷島の人の良さを見抜き、彼の家に勝手に上がり込むという機知のとんだ(Resourceful)行動をみせます。
見てる側としてもすごく典子の役割が映画のなかでどうおもしろく展開するのか期待しちゃうんですが、そのあとは結構わかりやすい女性役割におさまってしまいます。敷島が碇シンジだとしたら、典子は不思議ちゃんとして登場しつつも敷島のセカイ系の世界の中で都合の良い役割を演じる綾波レイみたいなもんでした。
典子は映画の中で性的ではない存在として描かれます。
敷島と会ったとき、彼女が家に入り込んで迷惑そうな敷島に典子は叫びます。
パンパンとは、戦後の日本を支配した占領軍の米兵の相手をする娼婦の蔑称です。当時、戦争で夫を亡くした未亡人、財産や家族をなくした女性などが生きていくためそうした買売春に従事していました。実際『ゴジラ −1.0』でもセックスワーカーらしき女性たちが物語の背景に登場していました。
さきほどの良女・悪女コンプレックスから説明すると、こうしたパンパンの女性は性的な悪女として軽蔑されていました。とくに、戦時中や戦前ではありますが、良妻賢母像にあてはまらない女性たちは逸脱した存在として見なされていました。このあたりの丁寧な議論は関口すみ子さんなど有名な研究者の方たちを参考にされてください。
結果としていうと、典子はパンパンという悪女ではなく、敷島の保護下に入り、アキコや敷島の世話をする男性の管理可能な良女となります。しかし典子は徹底して性のない存在として扱われます。それを特徴づけるとっても印象的な会話が、典子(と敷島)と安藤サクラ演じる太田澄子の間で最初に交わされるこちらです。
ちなみに、典子と澄子の間で交わされるやりとりもこれだけです。映画がジェンダーバイアスが偏っていないか測るためのベクデル・テスト(1. 少なくとも2名、女性が出てくる。2. 互いに会話をする。3. 話題は男性以外のものである)というものがありますが、ギリギリ失格かと思います(会話していないし)。この点で、『ゴジラ −1.0』が非フェミニスト映画であることがはっきりします。
典子と澄子の違いは、典子は性のない(non-sexed)存在であり、澄子は3人の子供を育てた性のある(sexed)存在であるということです。この対立を説明するにあたり、この二人のやりとりの中であった母乳の話はフェミニスト精神分析の中で見逃せない大事な場面です。
ジュリア・クリステヴァ(1941-)という文学評論家は、有名な心理学者ラカンの鏡像段階における主体化の理論を批判するためAbjection(おぞましいもの)という概念を提示しました。ラカンの鏡像段階は最初の主体化ではなく、その前段階の主体化のプロセス(primary repression)があるというのがクリスティバのいうAbjectionです。すなわち、赤子が自身の主体を理解するプロセスの中で、母親の母乳を吐き出し(ab-jecting)、赤子は自分と母親は一体ではないという理解するというのです。その吐き出された(abjected)もの(abjection)は、自分の境界線を揺るがし、ぼやかせ、個としての自分(主体性)を脅威に晒す、危険でおぞましいものであるとされます。自分が自分であるためにも、他と自分を分離させるためにも、赤子の時のいったん吐き出したAbjectingのみでなく、大人になっても、何度も何度も繰り返されるもの(トラウマ)です。そうした描写が文学や映画作品に出てくるというので、フェミニスト分析ではたくさん使われてきました。
Abjectについて詳しく学びたい方はクリスティバの本を読んでもちんぷんかんぷんでわからないと思うので、こちらのわかりやすい論文を参考にされてください:McAfee, N. (1993). “Abject Strangers: Toward an Ethics of Respect.” Ethics, Politics, and Difference in Julia Kristeva's Writing, edited by Kelly Oliver. New York: Routledge, pp. 116-134.
つまり澄子は過去に子を出産していたleaky(母乳が漏れる)存在で、性的(sexed)であり、典子の(non-sexed)性的でないabjectされていない身体との比較の中にあります。この話を進めてもフェミニスト精神分析のウサギの穴を転げ落ちるようにどんどん抽象的になっていくので、次の話にいきます。
そうした性的でない典子は、そのうえで母乳の出ない母親(non-leaky body)としてアキコを育てていきます。下世話な言い方をすると、処女の良妻賢母というまるで神話の中のような存在になります。
典子は典子で家族を亡くし、とてもつらい思いをしてきただろうに、殻に閉じこもる敷島の世話をし、ときにはトラウマに襲われる彼の衝動を和らげるように女神のように受け止めてあげます。典子は綾波レイに似ていると言ったのにはまだ理由があって、敷島のセカイ系世界の中で、大変敷島に都合よく立ち回っている点です。たとえば、典子は、ゴジラの放射熱線を受ける瞬時に敷島を救ったり、それを受けてまさか生き残っていたりと、ある種人間を超えて神格化されていきます。
ここで強調したいのは、典子側の事情や気持ちが映画の中で描かれず人格が浮かび上がってこないように、こうした神格化は非人格化であり、典子の存在は、これまでの良女ステレオタイプの繰り返しでしかないということです。
ちなみに敷島が病室に典子が生きているという知らせを澄子から受けて駆けつけたとき、典子が最初に言ったセリフはこれです。
ゴジラに吹っ飛ばされてボロボロになって包帯ぐるぐるの典子が気を遣って考えている、最初の一言が浩一かー!すごい聖女だな!と思いました。
典子の話はこれから先のゴジラのところでもう少し話すと思いますが、とりあえず次は敷島や敷島を取り囲む男性たちについて話していきたいと思います。
ゴジラというFree FloatingペニスをAbjectする
さて、できたら今日中に仕上げたいのでここから駆け足で書いていきたいのですが、敷島たちが権力に巻かれないでだいぶん自由に自分の選択をしている令和感覚の人たちという話を第一章(?)でしました。しかしもちろん、そういった国家とか軍隊とか大文字の分かりやすいハードな権力(Power)の外にあったとしても、小文字のわかりにくい関係性の中にある権力(power)からは誰も逃れることができません。そこでここから家父長制批判をしていきたいと思います。典子と澄子の話よりさらに抽象的なクィアな読みを入れた内容になるかもしれませんが、興味のある方はお付き合いください。
特攻の任務からも、父親役割の責任からも逃げてきた敷島は、しかしゴジラから逃げることはできませんでした。ゴジラを倒すことが彼の中での「戦争を終わらせること」だったからです。
戦争を終わらせるとはどういうことなのか?なぜ敷島は恐ろしく凶暴な暴力の権化であるゴジラからだけは逃れられないのか?
この謎を突き詰めると、つまり「ゴジラとはいったいなんなのか?」という問いに行き当たります。
ゴジラが何であるのかという問いは、多くの映画評論家が答えてきた問いです。もっとも有名な解釈は、ゴジラは日本の戦争の敗戦のトラウマであるというものです。ゴジラがしばしば放射能を発している表象があるのは、広島・長崎の原爆を反映しているものである、さらにはゴジラの皮膚は被爆者のケイドロを揶揄しているものだという分析もされてきました。ゴジラが町を破壊するのは、戦争で破壊された街を再現しているのです。それゆえに、日本人は繰り返し繰り返し時代を超えてゴジラ映画を作り、ゴジラを倒し続けます。そこに、敗戦のトラウマを抱えた者のみが味わえるカタルシスがあるからです。
こうした背景を踏まえると、『ゴジラ-1.0』が戦後の中で描かれるのはまったく偶然ではありません。
国家・軍隊・家制度といったわかりやすい権威(Power)を否定し、それを打ち勝った令和感覚をもつ男たち(敷島含む)がなんとしてもゴジラを倒さなくてはならなかった理由はひとつです。
ゴジラが理解不可能な(Out side of Logos/Language)おぞましいファリック(Phallic)だったゆえです。説明します。
今回のゴジラ映画では、ゴジラの誕生や生態についてまったく明かされませんでした。過去には、水爆や核実験、放射能廃棄物でゴジラが生まれるなど出自の背景の説明がありました。海に深海魚が浮いていたら出てくるという、謎だらけのなにもないところから生まれたのが今回のゴジラでした。そしてなぜかいつも東京を目指してやってくるという設定も明かされていませんでした。
当たり前ですがコミュニケーションもできないし、何考えているのかもわからない、なんでそんなに怒ってるのか(怒ってるの?)、破壊の権化なのかわからない、ないないだらけのゴジラのわからないことの一つは、ゴジラのジェンダーでした。
(ゴジラ映画の歴史の中でオス/男性だとされたこともあるようですが、もちろん敷島たちはそんなメタなこと知りません)
しかしながら、ゴジラの破壊活動、どんどん巨大化し成長していく圧倒的な力を踏まえると、どうみてもゴジラはphallic symbolであることはおそらく総意が得られるかと思います。
ちなみにゴジラは空襲で焼け野原になった東京の、数少ない残された銀座の街をちぎっては投げちぎっては投げして壊していきます。銀座は、女性たち(典子含め)が事務としての仕事を探す、女性活躍の街でした。そうしたシンボルを壊すのがゴジラであるというのも象徴的です。
そうしたファリックゴジラはしかし、ジェンダーを含めてあらゆる意味付け(signification)を拒絶します。敷島の悪夢に毎晩出ては、彼をうなして苦しめる、不可解な悪魔のような存在です。
男なのか女なのかわからない、なのにファルスがある。そんなゴジラの正体は全世界に隠され、「男たちだけ」がその存在を知っていて、それをコントロールしようとしていて、そして結局、鎮めてしまいました。そこには、男性たちが、ホモソーシャルな輪の中で、ホモフォビア的なもの、もしくはトランスフォビア的なものを忌諱する、関係性の中でのpower balanceが働いているといえます。
最後らへんとっても説明が雑になってしまいましたが、ファリックやホモソーシャル、またそれらとAbjectを絡めた関係について、後日余力があれば書き足したいと思います。
長々と読んでくださりありがとうございました。