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年金の問題は、世代間で分断を生む、ものだ。

どうやったって、団塊ジュニア世代が、払い損になるよう、出来ている。

ミレニアム世代や、Z世代、更に、子供たちの世代なんて、どうなっているのか、考えただけで、まあ、無駄だ。

未来のことなんて誰にもわからない。

今と昔とでは、稼ぎやすさも、全然違うし、予後よくなるとも思えない。

責任の所在は、ない。

若い世代の貰える年金は、減っていくだろうし、負担も増える。

どうしようもない話だ、年金を納める期間は、65歳に上がり、次は70歳くらいまでは、上げられる可能性は高い、定年も、上がっていくだろう。

だからといって、今のお年寄りたちに、身を切って諦めてくれ、といえればいいが、無理だ。

むしろ、どうにか、協力して、妥協点を探すしかない。

負担し合うしかないのである。

年金は、問題の一つにしか過ぎない。

年金なんて、些細な問題でしかない。

どうとでもなる話で、なるようになるものだ。

年金は、あってもなくても、社会がよくなるわけではないのである。

真に、向かい合うべきは、世代交代であり、活路を見出していくことだ。


年寄りに、どれだけ、スマホやパソコンを憶えさせるか、デジタルを理解させるか、といったことは、重要だ。

テレビや、新聞では、もうダメだ。

社会で、決定権を持つ、年寄りの情報源が、テレビや新聞だけの人が大多数なのは、絶望的だ。

僕たちは、もっと、難しいことを、簡単に、考えるようになる必要がある。


諦めてはダメなのだ。

希望を探すのだ。

金だけではない、より、幸せに暮らせる道であり、時代に対応していくことだ。


プライドは、捨てるのだ。

行き過ぎた考えになってもダメだ。

悲観的になりすぎても、楽観的になりすぎてもダメなのだ。

日々の生活で、見つけていくのだ。

今までやり方を、変えていくのだ。

失敗しまくった方がいい。

成功するかは、運な所が大きい。

どれが、正解だったかもわからない。

けれど、何もしなかったら、当たりもやって来ない。

兎に角、色々試さなくてはならない。ということだ。


責任は、取らなくていい。

何度も、すればいいのだ。

できるまで、やればいいのである。

やらないから、腐っていくのだ。

現状維持は、停滞であり、どうしたって、時代と共に、終わっていくものだ。

閉塞感のような重苦しいものが、ぼくたちをおかしくするのだ。


人の足を引っ張るようにさえ、ならなければ、いいのだ。

誰かが、面白い事を始めている時に、迷惑がったり、厭がったり、出る杭を打とうとするから、妙な閉塞感が生まれて、暗くなるのである。

僕たちは、もう最底辺なのだと、思った方がいい。

マシだとか、思わない方がいい。

じぶんたちは、所詮は、人でしかないのだ。

だから、やれることをするしかないのである。


自分が歳を取ったり、競争の中で、生き続ける為に、忘れがちだが、所詮は、人の子であり、動物に過ぎないのだ。

権力を持ったりすると、偉くなって神か仏にでもなった様子で、好き放題するが、まったく、虚無であり、無力なのである。

雑魚であり、虚構であり、運がよかっただけなのだ。

だから、弱者を救済しなくてはならないし、真っ当な、助け合いの精神が重要なのである。


そろそろ、まともに、考えた方がいいだろう。

一度、無職ニートにでもなって、家で、引き篭もって、一日中、遊んでいればわかるが、社会は思っている以上に、異常だ。

異常なのに、気が付いていないのも異常であり、気付いていながら、本質を見失ってしまっているのも、異常である。

一人になって、いろいろと、考えているとみえてくるものもあった。

つまり、働いたり、仕事をしていたり、無職ニートでも、外でよく遊んだりしていると、時間もなく、余計に狭い、じぶんの居心地のいいコミュ二ティの中で、蛸壺状態みたいになって、活路が見いだせなくなりがちなのだ。


実際、定年退職したとしても、インターネットに触れない限り、予後はよくないだろう。

インターネットで、廃人になり、一度、恥も全て、知ると、どうも自分の価値のなさに気が付けてくるのだ。

圧倒的に、じぶんの能力が劣っていることも、わかってくる。

上には上がいるのである。

じぶん自身、頭がおかしかった。

確実に、周回遅れな人間であったし、バカであった。

何も知らなかったし、普通だと思っていたのだ。

けれど、よく考えてもみれば、地域社会の中では、変化なんて殆ど感じられなかっただけなのだ。

テレビの情報なんて、加工されたものばかりだったし、あまりに、狭い世界であったのだ。

インターネットは、僕に世界を開かせたのだ。


僕の場合は、インターネットで、投稿をはじめても、チヤホヤされることはなかった。

運がよかったのかも知れない。

インターネットで、投稿したものが、評価されると、調子に乗って、じぶんの価値を過大評価しがちになる。

インターネットの世界で、評価されるものは、実態以上に、みられることが多いのだ。

僕の場合は、とことん、評価されず、殆ど、価値が認められなかったので、本当によかった。

じぶんの至らなさに気が付けたし、仮に、ある程度、評価されるようになっても、謙虚に、それほどのものでもないと、思えるからだ。

もちろん、じぶんのことを、応援したり、よくしてくれる人への、ありがとうの気持ちは、ずっと持っている。


インターネットに触れても、ただ、他人を攻撃したり、よくわからん人の嫌がる事や、損になることばかりして、足を引っ張ったり、騙したりするようになる人もいる。

嫉妬みたいなものとか、生贄を作ろうとする心理が働いているのだろう。

ダメだ。

許せ。

人の善を信じろ。

取り敢えず、いいじゃないか。


僕からの忠告は、一つだ。

プライドを捨てて、じぶんを曝け出すということだ。

プライドは、頭を硬くする。

ダメだ。

最底辺なのだ。

意識は、低く行こう。

出来ないと、わかったところから、少しづつ、よくしていくのだ。

丁度いいのだ。


最後に、年寄りと分断していては、未来は暗い。

中年と分断していても、暗い。

僕たちは、合わせて1つだ。

協力、し合わないと、活路は見いだせない。

苦労を押し付けることも、だれかを、悪者にすることも、いい結果を生まない。

僕たちの敵は、世代間で敵を作り出す、じぶんたち自身だ。


10代、20代が、現場を取り仕切ったり、上の役職に就いてもいい。

年寄りが、引退しても、おかしいことではない。

中年が、10代、20代、30代に指示されても、おかしくない。

お互いに、できることをすればいいのだ。

恥ずかしいことなんて、ない。

普通なことなのだ。

負担し合えばいいのだ。


偉そうにしたり、人に指図したり、厭な事をするのは、得策ではない。

年下には、優しく、目上には敬意を払っておくのが吉だ。

どうであれ、じぶんによくしてくれる、人には、全員、感謝しておくのが、大吉だ。


他人を、見下すのも、ダメだ。

謙虚であることが、大事だ。

神様ではなく、人がみているのである。

みていないと思っていても、案外、みているものである。


追記
情報の集め方も、重要だ。

だいたい、Abemaとか、テレ東大学、テレ東BIZをみとけば、どうにかなる。

twitterで、有益な情報を流してくれる、大学教授とか、学者、専門家等をフォローしておくのも吉である。

ITMediaとか、NEWSPicksとか、ライブドアニュース、ねとらぼ、とかの記事を読めばよいのである。

Bloombergとか、BBSとか、色々フォローしておくと、タイムラインに有益な情報が流れてくるから、便利である。

勿論、コメントとか、評価を調べて、怪しい場合は、距離を取るのがいいだろう。

兎に角、カルト染みた、偏見と、じぶんたちに都合のいいようなことしか言わない、思想を垂れ流す、記事には注意して、どうにか、自分本位な考えから脱出していただきたいところではある。

成り上がり精神だとか、じぶんを特別だと思いたいだとか、賢くありたい、じぶんだけは気付いているのだとか、注目を浴びたいだとか、稼ぎたいだとかの、欲を満たすのに、人騒がせな嘘のニュースをでっち上げたり、人を陥れる記事を書いたりする人になる場合もあるのだ。

いずれにせよ、謙虚に、毎日生きていることに感謝し、やることをやるに、越したことはないのだ。


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