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アジ・ダハーカの箱 特別編:ボーイ・ミーツ・ガール

俺は目の前にいる女の胸を揉んだ。

「ちょっと、やだ、うふふ、人が見てるよ」

若い女……よく知ってる女だ。俺の幼なじみ。佐田理央(さだりお)はそう言いながらも満更でもない様子だ。

「はは、誰も見てなかったら良いのか?」

俺は微笑みかける。理央は俺の手を振り払い、柔らかく笑った。

「うふふ、うふふふふふ。じゃあ、これが終わったら続きをしましょう」

「そうだな。そうしよう」

絶望的な約束を交わす。隣に座ってる山田さんは何も喋らず、うつろな顔でどこか一点を見つめているだけだ。俺は軽く咳払いし、トラックの荷台から降りた。

ぬるく湿った風が頬を撫でた。俺は歩き、ぼろぼろになった大きな提灯に目をやる。少しだけなつかしい気持ちになった。そして、視線を下げ、商店街の入り口を見た。

真っ暗で誰もいない廃れた商店街。

ここは日本。愛知県名古屋市中区大須。正真正銘、文字通り、誇張抜きで、日本最後の砦だ。

俺は背後を見た。ちょっと前まではスケートリンクがあったはずの大通りを。大須観音があったはずの方向を。だがそこはもう門属性ゲートドラゴンの胃袋の中。完全なる異次元世界だ。

門属性ゲートドラゴン……

およそ160時間前に現れたこの不可視のドラゴンは、凄まじい速度で日本列島を呑み込んだ。その竜の力はケタ外れで、北海道から南下、同時に、沖縄からは北上……まさに門を閉じるように、北から、南から、日本という国が消滅していった。今はもうこの名古屋大須しか残っていない。ここだけ残った理由はとてもシンプルだ。単純に、日本地図のど真ん中に位置する場所だったから。それだけ。この街だけが残り、日本という国は全て異世界に呑まれたんだ。

ドラゴン、ドラゴン、ドラゴンのクソども……!人類に対してこんな圧倒的な蹂躙ができるのはドラゴンの奴らだけだ。そもそものきっかけは、2003年にドラゴンが現れたこと。奴らは、それまではフィクションの中の怪物として認識されていたらしい。それがいきなり世界中に現れて、あらゆる国や文化を破滅させた。人類の天敵どもの前では人間はまったくの無力だった。警察も、軍隊も、政治家のクソどもも。奴らの外皮には刃物はおろか銃弾すら通らない。もちろん、コミュニケーションなんてまったく不可能の生物。世界各地を覆い尽くした竜は、当然のことながら日本にも出現した。蟻属性ドラゴンアントの大群や、鳩属性ドラゴンピジョン、鼠属性ドラゴンマウスだとか、そんな常識外れの怪物たちが地上を埋め尽くした。それから、あいつだ。名古屋市内に現れたあの恐ろしい鋸属性チェーンソードラゴン……!奴が我が物顔で地元商店街を踏みにじり、支配者となった……らしい。というのも、俺はその頃はまだ小さな子どもで、これは伝え聞いた話だからだ。俺からすればドラゴンがいる世界が当たり前だ。およそ教育と呼べるものは受けていない。倫理なんか最初から持ってない。目の前でヘラヘラ笑ってるこの理央もそうだ。だから略奪もしたし、殺しもした。生きるために殺す。殺してきた。鋸属性チェーンソードラゴンだって俺たちがブッ殺してやったんだ。奴は恐ろしい竜だったが弱点を突いた。そうだ。奴らには弱点があるんだ。思いもよらない、それぞれの属性に対応する意外な弱点が。ビビってたジジイどもは邪神を崇めるかのようにチェーンソードラゴンのクソを"統治者"として受け入れていたらしいが、俺らには関係ねえ。弱点さえ、それさえわかれば、ガキの頃の俺たちでも殺すことができた。あっけなかった。バラバラにしてやったぜ。そして、現在、最強の戦闘能力を持つこの佐田理央を有する愚連隊、"舌切りスズメ"は無敵だ。俺たちは無敵だった。鋸属性チェーンソードラゴンに代わって俺たちがこの街を支配していたんだ。

だが、門属性ゲートドラゴンが現れて状況が変わった。

それですべてが終わった。初めに日本中のドラゴンが消え去った。いきなりドラゴンどもがいなくなったんだ。そのときは平和が訪れたという安心感よりも、津波の前の引き波のような、あるいは、嵐の前の静けさのような不気味さを味わったことをよく憶えている。直後に放送されたラジオの実況では北海道と沖縄が同時に呑みこまれたと叫ばれていた。絶叫、ノイズ、そうして電波は遮断された。今ではドーナツの穴のようにぽっかりと空いたこの街だけが安全地帯。それもやがて終わるだろう。

「あはは、あはははは」

乾いた笑い声を響かせながら、理央は自分から異界へと足を踏み入れる。その姿が中の風景と同化し、色と音を失った。

門属性ゲートドラゴンの"門"の中は、なんというか、モノクロの世界だ。白黒テレビの中に入ったかのような、あるいは、モノクロフィルムの写真のような。つまり色彩が存在しない。それから、ときどき空間そのものにノイズが走ったりもして視界は常に悪い。あとは、空気の流れを感じないっていうか、無声映画よろしく音が無いんだ。会話はできるし、こちらから音を発することはできるが、妙に濁っていてはっきりしなくなる。で、見える景色といえば、そこはまるで時代劇のように旧い建物や見たこともない塔が立ち並んでいる。路上で拾った教科書で見たんだが、平安京とかいう古代都市のものすごく栄えたバージョンといえば伝わるだろうか?そんな旧時代の世界観が、どこまでも、どこまでも、果てしなく広がっている。大須観音よりもはるかに巨大な寺や神社?っぽい建造物、路地も多く見ることができる。いつの時代かも不明な長屋らしき住居もたくさん並んでる。この異次元世界は、もしかして日本よりも広大なんじゃないか。だが、そこは虚無の世界だ。当然ながら生きた人間は一人として存在しない死の世界。そんな世界がアーケード商店街の向こう側に陽炎のようにゆらめいて見える。

ふうう、と、俺は深くため息をつき、理央に続いて自ら門属性ゲートドラゴンの"門"をくぐる。色彩に溢れた現実世界と、ドラゴンが支配する白黒の虚無の世界。その境界に足を踏み入れるとき、俺は反射的に息を止めた。まるで冷たい水の中に潜るように。

"門属性ゲートドラゴン"

色が消えた。

音が消えた。

中に入った。俺は前方をふらふらと歩く理央を小走りで追いかける。正直なところ、精神を塗りつぶしてくる恐怖を振り払いたくて走りたかった。すぐに理央に追いつき耳元で囁く。

「一人で突っ込むな、バカ」

理央は振り向き、微笑んだ。

「あはは、大丈夫よ、大丈夫」

少しくぐもった声。分厚いマスク越しに喋っているように音がこもってしまう。ここは音のない世界ではあるが、至近距離であればこのように会話が可能なんだ。門属性ゲートドラゴンの次元は、基本的には一度入れば二度と出ることはできない。俺たちはそのルールをよく知っている。仲間もそれでたくさん死んだから。小鳥が囀るような理央の可愛らしい声をもう聴くことができないと思うと胸が締め付けられた。改めて門の中の異世界が不可逆であると思い知らされる。俺は背後を振り返る。もうすぐで、俺たちの大須が、日本が、すべて呑みこまれようとしている。あっちの景色は濁っていてよく見えないが、山田さんはトラックの荷台から動かないようだ。彼は商店街の住人の生き残りで、ギリギリまでブティックを経営していたそうだが、人類が滅びちまったらどうにもならないよな。ムカつくおっさんどもは全員ブチ殺してきたけど、あの人は礼儀正しくて好きだったよ、俺はな。そんな場合じゃねえってのに日常を保とうとしたりなんかして。大した戦力にならなくて他のメンバーはイラついてたみたいだが、俺はそのお気楽さがうらやましくもあった。まあ、そのうち門属性ゲートドラゴンの能力に呑み込まれてどこかで死ぬだろう。それは俺たちも同じだ。萎えた気分で俺たちは前方を見据える。

荘厳な景色だ。色も音も無い白と黒と灰色の世界ではあるが、巨大な寺社仏閣が並び、はるか彼方には仏像らしき巨人が立っていた。相当デカいな……あれは。本物の古代都市にしてはそれらの建物が大き過ぎているし、目前に広がる尊大な楼閣の発展具合が俺をゾッとさせた。そして……ヤツらだ。さっそくヤツらがいる。聴こえる。奴らの歌が。

「……ハーイヤイ、ハーイヤイ……ハーイヤイ、ハーイヤイ」

奇妙な声、不気味な歌……のようなもの。

「インヤアァー!インヤアァ!インヤアァー!」

カセットテープを早送りしたかのような甲高い声。よくわからない言語の叫び。祭囃子に似たリズム。歌っている。踊っている。現れやがった。俺たちは遠くの路地を通過する死のパレードを見つめる。

「ヤァーオー、ヤァーオー」

俺たちはヤツらのことを"鉄蜘蛛"と呼んでいる。その名の通り、体が鋼鉄のフレームでできた機械仕掛けの蜘蛛どもだ。デカめの人間ぐらいの大きさで、ゴチャゴチャした金属のパーツと、大小さまざまな配線と……それから、人の肉らしきものが複雑に絡み合っている。その顔はなぜか能面を被っていて、あれは、たぶん、人間の頭が乗っかってるんだ。そいつらが何十体と行列を成してチンドン屋よろしく陽気に歌って踊りながら行進してる。当然だが、ヤツらは敵だ。この異世界で人間を見つけたら大喜びで飛び跳ねながら襲ってくる。俺は生唾を飲み込み、身震いした。あいつらに仲間が何人も殺された。悪夢だ。いつ見ても不気味で、幻想的で、高熱にうなされているときに見る夢のよう。本当だ。これが夢ならどれだけ良かったか。

「ヘーイアイヒー、ヘーイアイヒヘーイアイヒーイイいいいいいー!」

だが、現実だ。痛みと恐怖が俺を現実逃避させてくれないんだからな。痛みを与えられたら痛いし、殺されたら死ぬ。その実感が恐怖となって俺の足をすくませる。

「ダーババヤーヤーハイルナヨー、ダーババヤーヤアーァー」

"鉄蜘蛛"どもは陽気で奇怪なパレードを続ける。歌い踊り狂いながら。路地から覗く連中の列はまだまだ続いている。

背中に汗が流れ、シャツがべっとりと張り付くのを感じる。恐怖と、不快感と、怒り……俺がそれでも正気を失わないのは、怒りがあるからだ。ムカつくぜ。物心ついたときからこんなクソみたいな世界で、奪って、殺して、銃やナイフで傷つけられて、それでもなお銃やナイフにすがって頼らないと生きていけない。生き延びるためには仕方ないことなのだと。俺は意味がある行動しかしたことがない。意味がないことなんて余裕がないとできないことだから。いつも怯えてる。いつも憎んでいる。いつでも怒っている。この世を支配する圧倒的な何かから、クソにまみれた人生を押し付けられたという事実に対する怒り。この怒りの力もきっと意味があるはずだ。そうだ。だから、俺は、俺と理央は、"帰還者"になった。基本世界と異世界を行き来できる者。俺と理央はここに入って出たことがある。ふつうは見えない壁に遮られて押し戻されるけれど、俺たちは出ることができた。理央はそのせいで狂ってしまって、俺はこんなふうに怒りに支配された。副作用だ。だが関係ない。俺たちならどうにかしてまたここから出られるはずだ。日本列島が門属性ゲートドラゴンに呑み込まれても、必ず出口があって、俺と理央ならそこから脱出できると信じている。

「だから、生き延びるんだ」

思わず口から出た心からの言葉。

「あら、うふふ、うふ、うふふふ」

理央は俺の真剣な顔を見て笑った。くそ、拍子抜けだな。調子が狂うぜ。さあ、もうすぐでイカれた鉄蜘蛛のパレードが終わる。そうしたら身を隠しながら進むんだ。進む……どこへ?この世界を調べながら出る方法を探す。雲を掴むような話だ。やるしかない。やるしかないんだ。俺たちは。

「ねえ、ちょっと」

理央が何かを指差す。肩を掴む理央の尋常じゃない握力!俺は思わず振り向いた。

長い、長い、永遠とも思えるバケモノどもの行進が途切れ、俺たちが動こうとしたとき、突然!灰色の空にドス黒い稲妻が走り、空間が裂けた!轟音!音が殺されるこの世界で初めて聴くほどの雷鳴!それはバリバリと空気を震わせ、俺の全身の肌を撫でる!鉄蜘蛛たちの動きは止まり、一斉に同じ方角を向いた!

空の裂け目からは宇宙に似た暗黒空間が覗いている。その隙間から、何か、黒い物体が落下するのが見える。人の形をしている何か……?視界に走るノイズのせいでよく見えない。だが、確かに人……黒い人間だった。鉄蜘蛛たちは我先にとその落下地点へと向かい始めた。すさまじいスピードだ。見つかったら走って逃げるのは難しい。かといって、戦うにしてもヤツらのフレームと装甲は銃弾や刃物をほとんど通さない。

……つまり、チャンスだ。

何が起こっているのかさっぱりわからないし、空から何が降ってきたかに興味もあるが、鉄蜘蛛どもが気を取られている隙に隠れながら探索するんだ。

「行くぞ、理央」

「ねえ、ねえ、アキラ」

「なんだよ……その名前で俺を呼ぶな」

「ふふふ、良いじゃない。そうだ。あなたに言いたいことがあったのだけれど、あとにしておくわね」

「はあ?なんだよそれ」

「胸の続きのお返しよ。生き延びたら教えるわ」

よくわからん奴だ。とはいえ、こいつは戦闘になるととても役立つ。

「じゃあ、生き延びたらお互い続きをやろうぜ」

俺はゴーグルを装着する。理央は頭蓋骨が描かれたバンダナを二つに折り、それを顔に巻き、鼻と口を覆う。その目に宿るのは間違いなく狂気。理央の口元の布が歓喜に歪んだ。ああ、そうだな。俺たちは最強無敵の愚連隊、"舌切りスズメ"だ。

「行くぞッ!」

俺たちは走り始めた。

濁った景色が瞬く間に流れて行く。恐怖心でスタミナを無駄に消耗しないためにも繰り返す一定の呼吸を乱さない。ここに一度入って、出て、帰還者になってから、俺の身体能力も上がっているように感じる……といっても、俺の前を超人的脚力で駆け抜ける理央について行くのが精一杯だけど。

旧時代の木造建築の家々の間をすり抜け、俺たちはひたすらに走り続けた。途中、複数の鉄蜘蛛とニアミスすることはあったが、やはりあいつらは稲妻と共に落下してきた黒い人型の方角を目指しているようだ。本当に都合が良い。連中の索敵がガバガバなうちにここを出るための何か手がかりが見つかれば……

俺たちは闇雲に走っているわけじゃない。以前にここを出たときには現世と異界の狭間があった。そう、世界の境界だ!どうやってそれを見つけることができたのか、今はもうわからないし、その境界がどういう条件で出現するかも理解していない。唯一の手がかりは……理央だ。あいつには俺には見えない何かが見えている。走る理央について行ったら出ることができたんだ。今回もきっとそうだ。理央の動きにはためらいがない。大丈夫、大丈夫だ。

風を切る音と共に、前方を走る理央の狂気めいた笑い声が聴こえた。出口があるのかすらもわからない異世界を駆ける。俺まで気が狂いそうだ。叫びたくなる。恐怖を奥歯で噛み殺していると、角を曲がったところで!クソが!ヤツだ!

「鉄蜘蛛だッ!」

クソッタレが!俺は腰に刺したナイフを抜く!と同時に、理央が天高く跳び上がる光景が見えた!

「アハッ!アッハハハハハ!」

甲高い嬌声!理央はあっという間に鉄蜘蛛を組み伏せ、その能面に二本の小太刀を交差させて突き立てた!

「ババ、バッ、バルバルバルエエエエー」

鉄蜘蛛は痙攣しながら奇妙な声を漏らし、完全に沈黙した。俺は改めてゾッとした。鉄蜘蛛のキモい死に様にじゃない。こいつの仮面や金属の身体は銃弾すら弾く強度を持つ。どんな人間離れした力でやればあんな芸当ができるんだ。灰色の体液を全身に浴びた彼女は前髪をかき上げた。

「殺したわ」

理央が呟く。

「ああ、そうだな」

俺は震える声で返す。

「行こっか」

「ああ」

理央は何事もなかったかのように腰に二本の小太刀を納めた。鉄蜘蛛の灰色の返り血も拭かずに。俺はほんの少しだけ目蓋を強く閉じ、また走り出した理央を追いかける。

(……俺がガキの頃から知っている理央と、目の前にいるこの最強の狂人は、本当に同じ人物なのだろうか……)

わかっている。理央も正気と狂気の狭間をさまよっているんだ。まるで現実世界と異世界を行き来するように。だから……俺はこいつに付いて行く。元の世界に帰る手がかりだから?それもある。それ以上に、理央を正気に引っ張れるのは、この俺だけだから。俺しかいない。あいつが俺に言いたいことがあるって言ったのも気になる。これが今の俺の生き延びる理由だ。ああ、そうだ。世界の終わりに独りぼっちは嫌だものな、理央。俺も嫌だ。

理央は走るスピードを落とさない。無尽蔵のスタミナ。さっきの鉄蜘蛛は一匹だけだったのは運が良い。このまま何事も起こらず、脱出できるのが理想的な展開だ。と、理央が少しだけ走る速度を落とし、時代劇にでも出てきそうな旧時代のデザインの民家の戸を唐突に蹴り破いた。何のためらいもなく中に入って行った。俺は一連の動きに慄きながらも付いて行く。そうするしかないからだ。古臭い玄関を土足で上がり、ずかずかと奥に進んで行く。畳、障子、薄いガラス、箪笥。どう見ても異世界っぽさがない古い日本家屋。誰もいない。虫ケラすら。埃も積もってるわけでもない。生活のにおいがしない。ただそこにあるだけの背景のような。あちこちに目移りしてしまう。俺は奥ゆかしい小さな花が描かれた襖を開けた。そこに理央がいた。理央は、神棚?のようなオブジェを手に取っている。しばらくそれを見つめていたと思ったら、いきなりそれを壁に投げつけ、破壊した!砕け散る木片。理央がこちらを振り向く。

「無かったわ。ここには無い」

何のことかわからないが、理央は少しだけ悔しそうな顔をしている、気がした。

「間違えたのかもしれない。戻りましょ」

「戻る?はあ?どこに?」

「あの、きれいな黒い光が落ちたところ。あそこに、鏡と、御神体があるのかもしれない」

鏡?御神体?何を言っているかまったくわからない。

「おまえも見ただろうが、あそこは鉄蜘蛛の大群が向かってたぞ。危険だ」

「おまえって呼ばないで。名前で呼んで」

「ごめん、理央。でもあそこは危険だ」

理央は俺に歩み寄り、手を伸ばす。そして……俺の頭を撫でた。

「やめろよ。なんだよ、急に」

口元に巻いたドクロのバンダナが柔らかく微笑んだ……気がした。そうして彼女は無言で部屋を出た。俺は深くため息をつく。

「行きゃいいんだろ、行きゃあよ」

「あっ!そうだ!」

理央は急に大声を出した。

「ここには何もなかったけれど、これでリセットされた……と思う」

「はあ?リセット?何が?」

「鉄蜘蛛の行動パターンが変わって、奴らが喋る言葉もわかるようになる。たぶん。私たちを操っている存在にとっては、あの空から降ってきた黒い雷は完全なイレギュラー。だから戻ってみる価値がある。だんだんわかってきた」

……はあ?ええ?わからん。何を言ってるんだこいつは。ただ、なんというか、言ってることはわけがわからないが……狂ったあとの理央のわりには流暢に理路整然と喋っている。いったいどうしたってんだ。何もわからんが、これから起こる驚異に対する確信めいた予感がある。俺は震えた。

「ああー!クソ!」

叫ぶ。恐怖心を振りほどく。

「よくわからねーが」

俺は頭をボリボリと掻きむしり、唾を吐き捨てた。

「邪魔する野郎をぶっ殺して進めば良いんだろ」

理央は頷いた。鉄蜘蛛も、それから、この異世界に迷い込んだ知らない人間も殺す。どいつもこいつも殺してやる。

俺たちは踵を返す。来た道を戻る。もちろん、警戒しながらだ。角を曲がるたびに鉄蜘蛛どもがいやしないかと注意を払う。クリア、クリア。が、いない……どこにも、何もいない。肩透かしをくらった気分だ。そういう油断が命取りと知ってはいても、あまりにも気配がない。不気味な静寂。網膜に直接響くノイズが視界を揺らし、不安から呼吸が乱れそうになる。と、理央が走る速度を落とし、俺の手を強く握った。

「いてえな!」

骨が鳴った。指が折れたかと思った。女の子の握力だとはとてもじゃないが思えない。

「うふふ、うふ、子どもの頃を思い出さない?」

理央が微笑む。

「ああ?」

「ほら、パン屋のおじさんから逃げて、一緒に商店街を走ったとき」

「あー、ああ、あれか……」

食い物を盗んだらおっさんにボコられてなんとか逃げた。思い出……と呼ぶにはちょっと鉄の味がするな。

「楽しかったね」

「いや、楽しくはなかっただろ」

歯を折られたんだからな。理央は返答なんか構わず手を握ったまま走る。俺はなんとか置いて行かれないように必死に足を上げる。なんなんだ。まったく。

そうしてあっという間にスタート地点に着いた。スタート地点というのもおかしいが、あっちにデカい寺?があって、こっちに十字路。それから、遠く、はるか遠くに例の黒い稲妻が落下したであろう場所から黒い煙が上がっている。俺たちが門属性ゲートドラゴンに呑み込まれた位置だ。そこに戻ってきた。

「で、あそこに行くのか?」

「行く」

こちらを振り向かずに理央は黒い稲妻の落下地点を見据える。

「けっこう遠いぞ。それに、ヤバくないか」

「ヤバい。でも、さっきまで私たちがいたチェックポイントは消滅した。ここにいても死ぬだけ。行かないと」

「なっ、おまえ……どうしたんだ。チェックポイント?」

「おまえって言わないで」

「ごめん」

「わかった……わかってきた。だんだんと、だんだん。ここ、ここには、この座標には時間制限がある。前に入って出たときは……未完成だった。でも、今は、完全に門が閉じてる。ここの理(ことわり)に従わないとダメ」

「コトワリ?」

「ルールのこと」

「言葉の意味は知ってるっつーの!なんだよ。どうしたんだ、理央、さっきからいきなり」

「アキラ、聞いて。ここにはもうすぐこの世界を終わらせる嵐が来る。そうなったら終わり。だから行くべきところに行かないと。それしか生き残る方法がないの」

「……わかった。わかったよ。わからないけど、わかった。理央について行くよ。今までそうしてきたし、これからもそうする。それに、何より、一人で生き残るのも、一人で死ぬのもいやだ。世界の終わりに一人はいやなんだ」

「……ありがとう。そうね、私たちはいつも一緒だった。そう、世界の終わりに独りきりなのは、私も嫌」

理央は優しく俺の頬を撫で、瞳を覗き込んだ。

「アキラ、狂った私がさっき言いかけたことだけど、それをあなたに伝えるのは、ちゃんと生き残ってからにするね」

「なんだよ。もったいぶって。ていうかマジで正気に戻ったのか?……でもまあ、理央がそうしたいならそうしてくれ。俺は、おまえ、じゃなくて、理央について行く」

「私がおねえさんだからね」

「うるせーよ。行くぞ」

「うふ、うふふふ、ふふ、ふふ」

その含み笑いでいつもの狂った理央に戻ったことを理解した。もうコトワリがどうとか言わなくなった。少しだけ正気に戻ったのは何だったのだろう、と考えるのも後で良い。俺たちは走った。走った。走り続けた。色のない世界を。音のない世界を。命のない地獄を。鉄蜘蛛どもは現れなかった。一匹たりとも。黒い雷の落下地点にたどり着いた俺たちは、それがなぜなのか一瞬で理解した。

目の前に広がるのは、死に絶えた地獄の異世界。

異形の大群の成れの果て。鉄蜘蛛の残骸だ。飛び散った血液。ブチまけられた臓物。バラバラになったおびただしいほどの数の屍がそこにはあった。足の踏み場もない。俺たちは巨大な寺の庭園のような場所で、鉄蜘蛛の残骸を踏みしだきながら進む。ひときわ高い死骸の山を見つけた。その頂点に真っ黒な人型が立っていた。

(あれは、誰だ……?)

その黒い人型に無防備に近づいて行くことに不思議と恐怖は感じなかった。俺も、理央も。理央なんかは小走りになっていたぐらいだ。俺も足早にそいつのいる鉄蜘蛛の死骸の丘を目指す。

黒い影がこちらを向いた……気がした。

その瞬間!

「縺翫>?√♀縺セ縺医i?√%縺薙?荳也阜縺ョ莠コ髢薙°?」

黒い影はいつの間にか俺たちの背後にいた。速い!瞬間移動でもしたのか?俺は装備した鉈を抜こうとしたが、両肩を凄まじい腕力で握られ、激しく揺さぶられる!なんて力だ!足が宙に浮いた!黒い影は何かわめいている!その顔は……冥府の死神よろしくドクロめいた恐ろしい顔つきの……サ、サイボーグ???瞳が妖しく鈍い光を放った。

「縺翫>?√♀縺セ縺茨シ∬◇縺?※繧九?縺具シ」

振り子のように揺れる俺の身体!奴の忍者を思わせる黒いボディは筋肉質で、こ、このパワー、意識が遠のきそうだ……!たまらず声を上げる!

「お、おい!理央!なんとかしろ!」

「繝舌き?∝些螳ウ繧貞刈縺医k縺、繧ゅj縺ッ縺ェ縺?シ∬ウェ蝠上↓遲斐∴繧搾シ」

「……アキラはバカじゃないわ。彼に謝って」

「はあ?」

素っ頓狂な声が出た。理央の言葉を聞いた黒い影は動きが止まる。

「縺昴%縺ョ螂ウ?∽ソコ縺ョ險?闡峨′繧上°繧九?縺具シ」

「そんなことはどうでも良いわ。謝って」

黒い影は俺を放し、バツが悪そうに頭を掻く仕草をした。そして頭を下げた。

「縺吶∪繧」

「許すわ。アキラも怒ってないよね?」

「えっ、俺?いや、いや、俺には何が何だか」

「……あなたの質問に答えるわ。私たちはここの世界の住人じゃないの。ドラゴンの力に呑み込まれてここに来た。ドラゴン、っていうのは、私たちの世界を滅ぼした敵のことなんだけど、わかる?だからあなたの力にはなれない」

「繧上°縺」縺溘?りャ昴i縺ェ縺上※濶ッ縺??よュ蝣ア莠、謠帙@繧医≧縲」

「わかってくれた。ありがとう」

その後、理央と黒い忍者のような姿をしたドクロサイボーグ野郎はしばらく話し込んだ。俺には奴がなんて言ってるのかさっぱりわからないが、会話は成立しているようだ。とりあえず、俺たち人間に敵意がないということはわかった。

「ねえ、アキラ。この人は、この人の世界の敵の力に呑み込まれてここに来たんだって。アキラはどうおも……」

理央が話すのをやめた。急に背筋に悪寒が走る。全員が理央の視線の先に釘付けになる。俺は凍りついた。

鉄蜘蛛の死骸を踏みしめながらゆっくりと近づいてくる異形。

最初はマネキンが歩いていると思った。鼻と口を表現したかのような端正な顔立ちの凹凸。目はない。そこにはのっぺりとしたへこみがあるだけだ。頭部は、まるで天を衝くモヒカンめいて長い釘が頭蓋骨の曲線に沿うようにびっしりと突き刺さっている。身体は、クズ鉄でできた骨格標本のよう。腰には錆びた鉄の刀らしきものを差している。そんな奴がこっちに来る。まずい、まずい。

「縺ェ繧薙□?溘%繧後??∽ス薙′豸医∴縺ヲ縺?¥?」

突然、小永谷の身体が足元から消え始めた!えっ、小永谷って誰だ?このドクロサイボーグニンジャ野郎のことか?コナガヤ?なんで俺はこいつの名前がわかったんだ?コナガヤは、あっという間に砂つぶのように分解され、柔らかな光となってそのまま霧散した。

「やっぱり。彼はこの世界には長くいられなかったのよ。鉄蜘蛛をたくさん始末してくれたのはありがたかったけど、そのせいであいつが来た」

理央は額に汗をかきながら話す。その両手にはすでに小太刀が握られている。

「私がやる。でも、あいつに勝てるかどうかはわからない」

こちらを見ず、あの人型の鉄塊……"鉄人形"とでも呼ぶべきか、理央の瞳は奴に釘付けだ。

「アキラは逃げて」

「バカ言え!俺も」

「逃げて!足手まといになる!あとで絶対追いつくから!早くッ!」

鉄人形がぎこちない動きで錆びた鞘から赤熱する刀を抜く……!こちらに向かって走り始めた!

「チッ、わかった!わかったから、クソ!死ぬなよ!」

理央は返事をしなかった。俺は振り返らずに走る。これが最後の会話になるのだけは絶対に嫌だ!そんなことを考えながら、鉄蜘蛛どもの残骸を踏みしめ、広大な寺の敷地を全速力で駆け抜ける。振り返らない。後方で濁った金属音の打ち合う音。激しく奏でられる殺戮のリズム。その中に理央の悲鳴は混ざっていない。戦っている。俺は振り返らない。絶対に。

走るのは得意だ。ガキの頃から食い物を盗み、強盗もやったから。逃げ足は誰よりも速い。殺しに追いかける速度も。今は理央に抜かれてしまったけれど、一番速かったあのスピードで!視界の端に現れ始めた鉄蜘蛛どもを!振り切ってやる!いや!ダメだ!

「畜生ーッ!こっちに来いッ!」

俺は走りながら鉄蜘蛛に向かって叫んだ。ヤツらを理央のところに行かせるわけにはいかない。腰に差した鉈を投擲する!灰色世界のノイズの中、風を斬りながら高速回転した鉈は見事に鉄蜘蛛に命中!

「アーイアイアアー!」

能面を叩き割られた鉄蜘蛛は、脳漿をブチ撒けながら叫んでたたらを踏む!そしてすぐに沈黙した……が、その死骸に、一、二、三!くそ、三匹も……!三匹の鉄蜘蛛が群がり、数秒ほど静止したのち、俺のほうを振り向いた!

「そうだ。それで良い」

俺はゴーグルの位置を調整する。右手にはもう一本の鉈。

「こっちを見ろッ!」

言うや否や、鉄蜘蛛が歌い始めた。

「ハーイヨー、ハーイヨー」

生理的嫌悪を催す節足動物の歩み。俺はじりじりと後退し、また駆け出す!と、同時に、鉄蜘蛛どもも追ってきた!そうだ!こっちだ!こっちへ来い!どうやってこの状況を打開するかはまったく考えてないが、理央のところには行かせない!

俺は走る。息を切らしながら。一体をブチ殺せたのはまぐれのようなもの。三体では正面から向かえば嬲り殺しにされるだろう。幸いあいつらはアホだ。俺は路地をこまめに曲がり、振り向いて奴らがいないことを確認した。足音は近い。俺は大昔の長屋のような民家に土足で逃げ込む。生活のにおいがしない家。ホコリひとつないのが不自然さと不気味さを感じる。いや、今はそんなことはどうでも良い。何か、何かないか。早く早く、何か、何か……俺は大きな観音開きの棚を見つけた。人間一人ぐらいなら入れそうだ。躊躇わず中に入り、戸を閉める。ガシャ、ガシャ、と数秒後に鉄蜘蛛の足音が聴こえた。ドアが破壊される音!入ってきた。俺は自分の口を両手で押さえる。心臓の音が体の中でうねり、反響した。鼓動が爆発しそうだ。

「助けに来ましたよ」

……聞き覚えがある声だ。

「こっちです」

俺は息を飲んだ。

「どこにいるんですか」

絶対に出てはならない。

「どこにどこにどどどどこにいるいるいるいるいるいる」

恐ろしい。

「もう大丈夫ですですですですよ」

山田さんの声だ。

僅かな隙間から見えるのは、血で錆びた鉄のフレーム。動脈のように絡みつくコードの先には人間の頭部。鉄蜘蛛だ。あれは山田さんの鉄蜘蛛だ。畜生。奴は意味がある言葉を発してる。声は山田さんが生きてたときそのもの。だが、彼は死人だ。死臭もする。ゲロが出そうだぜ。

「またご連絡ご連絡ごれんらくれんらくくだくだください殺します殺す殺す殺す殺す」

鉄蜘蛛が被っている能面は割れていた。そこから覗く顔は、山田さんだった。確かにあのブティック経営者の山田さんだ。砕けた眼鏡をかけていて、白目をむいて血の涙を流し、顎が吹き飛んで骨と肉が露出している。なんてこった。山田さんは俺たちと同じように門属性ゲートドラゴンに呑み込まれてこの異界に来て、殺されてしまったんだ。そして、首を切断されて、どうにかして鉄蜘蛛に作り替えられた。ヤツらの正体ってのは、まさか、死人をリサイクルしてやがるってのか。信じられない。だがこれなら鉄蜘蛛のおびただしい大群も納得できる。

「ヒィィヨー、ナアァァーゼーエエエエ」

鉄蜘蛛の……かつて山田さんだったものは、他の鉄蜘蛛どもがそうだったように歌い始めた。歌声は徐々に遠ざかる。足音と共に奏でるやかましい騒音が去った後も、俺はしばらく動くことが出来なかった。やがて棚を開き、外に出た。嘔吐した。口の中に酸っぱい味が広がる。畜生、畜生。

俺は民家を後にした。唾を吐き、路地を見据える。果てしなく続く道。ちょうど遮るものもなく、ずっと向こうまで道路と建物は続いている。その地平と空の境界は、この白黒のノイズ世界でもひときわ暗い。何か動いている。いや、ざわめきたつ海のようだ。はるか遠くから溢れる闇がこの世界を侵食している。暗黒の波に呑まれた風景は真っ黒に塗りつぶされた。あれが、理央が言っていた嵐。

終わりの世界。

そんな言葉が脳裏をよぎった。そうかもな。この命の無い地獄は死んでしまった終わりの世界。来てわかったが、ここはべつに門属性ゲートドラゴンの腹の中ってわけじゃなさそうだ。ただどこかの異界へ飛ばされただけ。属性があるドラゴンどもが支配する俺たちの世界とはあまりにもかけ離れている。本当に日本は丸ごと異世界に呑みこまれたってことだろう。そして、ここには終わりがある。あの暗黒の闇が終わりの始まり。それは少しずつ、間違いなく迫ってきている。闇はやがてこの異界を消し去ってしまうだろう……なぜこんなことを考え始めたのかはうまく説明できない。どう表現すれば良いのか、死ぬかもってときに死んで行く感じがする、そういう予感がするというか、死臭がこの異界全体に漂っているんだ。だって、日本が、日本人全員が門属性ゲートドラゴンに呑みこまれたんだぜ。みんなどこに行ったんだよ。ここはあまりにもむなしく空虚だ。まあ、こんなことを考えたってもうすぐ来る破滅が事実だという確証もないし……状況を打開する答えがないことに絶望してしまう。

でも、足掻くんだ。理央は言った。あとで追いつくと。それだけが希望だ。消えかけていた心の中に火が付くのを感じた。やってやる。足掻いてやる。文字通り足を使って。俺はあてもなく歩き出した。警戒しながら路地を歩き、時には長屋のように連なる古い家屋に侵入し、何かヒントらしきものはないか探し回った。そうして迫ってくる闇を逃れ、円状に狭くなってゆくこの異界の中心地へと、渦を巻くように近づいて行く。実際、ヒントはあった!襖絵を開けて、掛け軸を剥いだり、箪笥を調べたりしていると、新しい紙がとても古くなった紙……?自分でも何を言ってるかわからんが、そんな紙やファイル、日記?なんかがあった。記録だ。この世界の記録。かつてはここにも人間がいた。それらの記録は日本語で書かれていて俺にも読むことができた。断片的な文章を繋げてわかったことがある。

ここは日本だ。

それは間違いない。ただ、俺たちが生きてきた世界線とは違う、いわゆるパラレルワールド。盗んだ漫画で読んだことがある。基本世界を大きな樹だとすると、そこから枝分かれした世界。俺たちがいたドラゴンどもが現れた場所とはまったく別の日本だ。ここにはドラゴンは出現しなかったようだが、その代わりに、疫病が人類を襲った……らしい。人間の脳を壊し、人格を崩壊させ、多臓器不全を引き起こし、死に至らしめる恐ろしい病。あっという間にこの異界全体を……アナザー日本(とでも呼ぶべきか)を滅ぼした。そんなことが回収した記録に載っていた。もう一つ気になったことは、その疫病から逃れるために人間は機械の体を求めたということ。自立した機械に人間の頭部を載せ、生きながらえる……?これは俺の推測もおおいに含まれるが、命の選別があって、実際に機械化した人間もいる。それから、その機械を大量生産する巨大な工場の存在も匂わせる記録もあった。イカれてるぜ。滅び行く世界にふさわしい狂いっぷり。枝分かれした世界は、例えば、神のような存在にこうやって滅ぼされるのかと思った。同時に、俺たちの帰るべき世界もまたドラゴンどもによって滅亡へと向かう世界だということに思い至る。乾いた笑い声が漏れた。ああ、喉がカラカラだ。だんだんわかってきた。だんだんわかる。そうだ、そうだ。俺は夢を見た。夢の中で宇宙人と会った。宇宙人どもは露出した脳をガラスの瓶に似た容器で覆っている。あいつらのタコみたいな触手にスプーンとフォークを渡したら、連中、それを武器だと思ったみたいで、くくく、宇宙人どもが撃ってきた銃の中身を調べたら、なんと!スプーンとフォークが詰まってたんだ!こんなくだらない道具で人間は滅びるのかよォ!って、目覚めたあとしばらく笑いが止まらなかったんだぜ!

…………今のは、

……今のは、なんだ?

俺は自分でも気付かないうちに路地を走っていた。それもすごい速度だ。狂った思考に、この身体能力。いよいよヤバい。正気に戻ると息が切れてきた。徐々に走るのをやめ、歩き始めた頃には、これまで見たことがない近代的な作りのビルを見つけた。無機質な外観でとても古く、くたびれている。俺はビルの中に入った。

ここはどうやら事務所として使われていたようだ。外観と同じく無機質な印象、飾り気のない机が並ぶ殺風景な部屋だった。頭痛がしてきた。まただ。また狂気が頭に溢れる感覚がする。俺は机の下に潜り込んで隠れながら、洪水のように流れる思考を纏める。

俺は理解し始めた。闇が迫ってくるのと同じだ。それに比例してこの異界の……アナザー日本のことがわかってきた。これに限っては狂気なんかじゃない!俺は冴えてる。理央みたいにはならない。

灰色で暗い部屋の中、目を凝らす。何が書かれているかわからない紙が散乱している。記号?となにかの見取り図だ。それを手当たり次第に丸めてくしゃくしゃにして放り投げた。少し落ち着いてきた。焦燥の次には恐怖がやって来た。

門属性ゲートドラゴンの異能は、世界を上書きすることだ。この枝分かれした世界は終わりに向かっている。その破滅に俺たちは、日本人は、丸ごと巻き込まれた。たくさんの人間をまるでゴミを捨てるように始末する。効率が良い方法だ。さすが人類の天敵、ドラゴン。人間を殺すことだけに特化してやがる。空の裂け目から落ちてきたあのドクロニンジャ野郎もきっとそうだ。あいつもあいつの世界からここに放り込まれたんだ。そしてまた上書きされて消えた。親指の爪を噛んでガタガタと震える。

じゃあ、俺はどうすれば良いんだ。どうやったらこの命の無い地獄から抜け出せる?甘かった。この世界の中心にでも行けば何か脱出の糸口が見つかるかもしれないなんて。

理解するほど、狂気に呑まれるほど、絶望は深くなる。鉄蜘蛛どもだってそうだ。あいつらはこの世界を終わらせる使徒なのか、あるいは、疫病に苛まれた人類がすがった最後の希望の成れの果てか。それとも両方なのかもしれない。鉄蜘蛛の姿も時間経過によってあまり見なくなったのは……たぶん……闇に呑まれて消滅したから……?……あいつは、理央は……?そういえば、あいつが俺に言いたかったことって何だったんだ?そんな疑問もいずれはすべて消え去るだろう。闇の中の影のように。ああ、終わりだ。終わり。

ガシャ ガシャ

息を呑む。その音が聴こえたとき、俺は両手で口を塞ごうとして……やめた。

ガシャ ガシャ ガシャ

俺は机の下から這い出した。侵入者をすぐに発見。鉄蜘蛛だ。異形のシルエットを鋭く見つめる。

ガシャリ

奴も止まった。正面から向き合う。わずかに残った光に映し出された巨大な蜘蛛の影絵。今まで決して使わなかった拳銃を抜く。ポリ公をブチ殺して手に入れたリボルバーだ。

同時に!鉄蜘蛛は髪を振り乱しながら飛びかかってきた!俺は弾丸を奴に向けて撃ち込みまくる!

「ミヨー!サーアアア!」

命中!奇妙な雄叫びをあげながら鉄蜘蛛はのけぞる!奴の身体は銃弾すら通さない正体不明の金属製だが、能面の奥、生物の部分は……まぎれもなく人間のはずだ!脳があって、血管や神経もある、人間だ。そこを狙う!俺は鉄蜘蛛に飛びかかる!ナイフを抜き、顔面に突き立てる!

「ギギッ、ギッ!」

悶えながらも、奴は文房具のコンパスの針のように鋭い脚を激しく振り回す!紙一重で躱そうとしたが、顔にかすり傷、脚にそこそこ深い傷を負ってしまった。まだ俺は死んでない!見える!自分でも驚くほどの反応速度と身体能力。だが、畜生。リロードしてる暇はない。ここで決める!俺はありったけの力を込め、奴の頭部を抱くようにして後頭部にナイフを突き立てた!力いっぱい握ったせいで掌を深く切ったが、かまうものか!そのままグリグリと押し込む!

「ハァアアアアーイヤイハァアアアアー!」

耳をつんざく絶叫!反射的に耳を押さえようとしてしまった。それがいけなかった。その隙に、俺の腹部を鋭い脚が貫いた。異物感。腹に別のものが入ってきた。次に激痛。背中にまで貫通したことが自分でもわかる。そのまま蹴り飛ばされ、派手に壁に激突した。俺の背後には、ペンキでやったように現代アートよろしく赤黒い飛沫が花を咲かせているだろう。もっとも、この世界じゃ色は存在できないし、俺もその光景を自分で確認することができない。体が動かない。致命傷だ。これは死ぬやつだ。奴は、どうした。あいつは……

ガシャ ガシャ ガシャ

鉄蜘蛛は即死しなかったようだ。タフな奴だ。そうだな。わかってる。そうだよな。もうわかってるんだ。

鉄蜘蛛は俺に顔をくっつけそうなぐらい接近してきた。何も喋らない。襲ってくる気配もない。俺はもう立つどころか、下半身に力が入らない。寒くなってきた。目もかすむ。壁に背を預けたまま手を伸ばし、鉄蜘蛛のヒビが入った能面をゆっくりと外す。その顔は……

「……やっと会えたな、理央」

よく知っている顔だ。幼なじみ。理央だ。

「……」

何も答えない。最後の力を振り絞って言葉を放つ。

「続きをしよう。それと、俺に言いたかったことって、なんだ?」

皮膚がボロボロになった血塗れの理央の顔。体は歪な鉄の塊。

「……………………お、」

半分なくなった唇がわずかに動いた。

「おたんじょうび、おめでとう」

理央の残った片目から涙がこぼれ落ちた。俺は少し笑った。

「ああ、ありがとう」

自分のこめかみにリボルバーを押し当てる。一発だけ残してあるんだ。最初からわかっていたから。俺は引き金を引いた。灰色の世界が真っ黒に変わる瞬間、理央だったものが俺の体を引き寄せ、かき抱いた。すべてが終わった。

【続く】

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