人間失格 太宰治 4.第三手記-一
本を読んでて思った。というより同時に隣で母がドラマを見ているのでそれを見て思った。
本は描写がとても多い。わかりやすいわけでもなくやけに複雑に感じる。
人の心に深く触れている気がする。
気がする。
気がするんだ。
確かに、できるとも思う。でもそれは映画でもドラマでも漫画でも、そのように作っておくことはできる。
むしろ、文字による描写がなくなることで難しくなっている。
つまり、文字にしてもらえることでわかりやすくなっている。
難しいから本はいいんじゃない。
わかりやすいから本はいいんだ。
いきなり人の心情やそこらを文字も使わず学ぶことはとても難しい。
それを文字に起こしてくれいているのだ。
高尚だからいいんじゃない。
初級だからいいんだ。
さて、本の感想。
堀木の家に行って、お汁粉が出される。
それは「お湯のにおいがして、そうして、お餅をたべたら、それはお餅でなく、自分にはわからないものでした。」とのことすぐ後に、
「決して、その貧しさを軽蔑したのではありません。」
と。じゃあわざわざいうなよ。
「たまらなく侘わびしい思いをしたという事を、記して置きたいだけなのです。」
これとそれがつながるかい?ただ後半のことを言えばいいのに、それをわざわざ。。
嫌味たらしいたらない。嫉妬も深く、惨め。
「お便所の穴をまたぎそこねて怪我をしたという例は、少しも聞かないし、そんな仮説を「科学的事実」として教え込まれ、それを全く現実として受取り、恐怖していた昨日までの自分をいとおしく思い、笑いたく思ったくらいに、自分は、世の中というものの実体を少しずつ知って来たというわけなのでした」
科学的事実が報じられて、ネガで落ち込むやつ(A)も、ネガで興味を惹きつけ金を取る輩(B)も嫌いってのはわかる。
けれど、そんな事はほとんど多くの人が知っている事でAやBとなんら変わらない。
知ったところで高尚かと言われればそうでもない。賢く生きるとは別な気がする。
もっと正確に言えば、まるでそんなことを知っているのはとても少数の賢い人で自分は素晴らしいのだ、という、なんの統計的根拠のないことに振り回されていると言う意味で全く変わらない。
実際に手前で研究して数えてもしない限りは本当のことは知り得ない。
たとえ、研究したとしても、その統計の取り方は合っているのか?
まああっていたとして、知ったところで偉いのか?
そもそもその事実は数ある知識のうちの一つで、何も特別でもない。
つまり、より多くのことを知っている人間が「高尚」だったとしたら、
研究をして知ったとしても高尚たり得ない。
そんなこともわかっているが
人間の性的に、習慣的に適当な「統計的事実」を作って一喜一憂するしかないんだ。
いちいち口にせずにすぐに意味がないことに気づくしないのか。
少なくとも、口にする意味はないし、またそこから「おれは頭がいい」「奴らはダメだ」なんて拡大解釈なんてのは真平必要ないのだが。
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