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歴史学は役に立つのか

タイトルの問いには、歴史学を学んできた身としては、是が非でもイエスと答えなければならない。実際に歴史学が役に立つかどうかは、正直問題ではない。日本において、歴史学が今後も生き残っていくためには、このように答えるしかないからだ。では、歴史学は役に立つということを前提とした上で、どのように役に立つのだろうか。

歴史学の歴史を振り返ってみれば、それは科学的であろうとする歴史だったとも言えるかもしれない。科学的であるために、歴史学者はこれまで試行錯誤してきた。そのための方策の一つが、可能な限り厳密な論理を構築することである。科学とか学問というのは、検証可能性(再現可能性とも)が重要だ。これは大雑把に言えば、他の人もその結果を検証することができる、ということだ。そのために科学者は実験をしたら実験ノートを書いて記録を残す。歴史学者は実験はしない(できない)。しかし、どの史料をどのように解釈し、どのような歴史像を紡ぐのか、それを可能な限り論理的に示そうとする。それにより、自らの主張に正当性・説得力を与えるのである。

ここで、「可能な限り」という留保をつけた。それは、完全に論理的であることはできないからである。過去を知るために必要な情報は、その全てが現在まで残されているとは限らない。特に時代を遡れば遡るほど、一時的に全く資料が残っていない時代というのが存在する。また、比較的最近の事柄でも、戦争の被害などによって資料が失われていることもある。そのため、どれだけ頑張っても、完璧な論理を作ることはできないのである。ただ、歴史学者は欠けたピースを少しでも埋めようと努力する。それゆえ、「可能な限り」と書いたのである。

すこし、話が外れたように見えるかもしれない。しかし、これこそが歴史学が役に立ちうる可能性のある部分であろう。

歴史学は人と人の営為を、その研究対象としている。しかし、人間というのは困ったもので、常に論理的な行動をするとは限らないのである。たとえば、戦艦大和の特攻は「空気」に流される形で決められたとされる(山本七平『空気の研究』)。また、真珠湾攻撃も、アメリカとの圧倒的物量差を踏まえれば、実施されなかっただろう。日本に勝ち目はほぼなかったわけだから。

このような、かつての人がした非論理的な行動も、歴史学ではなんとかして論理的に説明しようとする。歴史学が学問的であるために。

非論理的な対象、事象をも論理的に理解しようとする。これが歴史学の特質の一つと言えるのではないだろうか。現代社会も、もちろん人が中心的な存在である。非論理的なものをなんとかして論理的に理解しようとする歴史学の姿勢は、現代においても、相手との交渉等において十分に役に立つのではないかと思われる。

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