土鍋ごはんの話&昨日の記事のリコメ、のようなもの
昨夜は、お試しでガスでご飯を炊いた。
家族がいたころの鍋用の大きな土鍋しかなかったので、あえて「炊飯用」と謳っている小さなタイプを購入。
1合から炊ける。
せっかくなので「おこげ」を作りたくて、レシピに書いてあるより2分くらい長く火にかけたら、すこしだけど底のほうが焦げた。
焦げてないところは、電気炊飯器で炊いたのと顕著な差はない。
炊飯器にも「土釜で炊いたような」というキャッチフレーズがついている。
どちらも美味しい。
昨夜に半分だけ食べて、残りは冷凍せず、今朝、冷やし茶漬けにした。
冷凍の塩鮭を焼いて、惜しみなく投入。
レンチンで温めたごはん(お焦げ付き)に市販のお茶漬け海苔をかけて、焼き立ての鮭を乗せ、冷たいほうじ茶をかける。
お焦げが香ばしい。
昨日の記事にいただいたコメントの返事を書きかけたが、どうにも長くていけない。
記事の長いのは気にならないが、コメントの長いのは避けたい。
かといって、無理やり言葉を端折れば、思いを端折ったような結果になりかねない。
以下は、リコメも兼ねた朝ドラの感想文。私だけの。
なので見ていない人、興味のない人には「なんのこっちゃ」事案。
さらにほぼ悪口なので、トラツバファンのかたがたは、ここから先はスルーされたし。
「リーガルエンタテインメント」という触れ込みだった。
なので私が勝手に「リーガル・ハイ」をイメージしてしまった。
昭和という時代においての女性法律家の人生を描く。
その過程で、法律やその解釈が、わかりやすく興味深い事例として視聴者に提示される。
法によって、これまで救われなかった人々に救いの道が開けていくという希望と期待が見られるのだと。
「昔は良かった」じゃなくて、未来こそがさらにいい時代なのだということを、いまだからこそ見せてほしかった。
前半は、法律家として立つまでのヒロインの成長過程。
焼き鳥のタレのついた新聞紙で新憲法の成立を知るところがピーク。
さぁて、ようやく虎が翼を得てこれからが楽しみーとなったけれど、思ったよりも法廷シーンは少なく、さらに雑さが目立つようになった。
戦後の市中や人々の姿、スリやかっぱらいを重ねる孤児たち、障害者となった友人、同性愛、性転換、夫婦別姓、事実婚と、いまにつながるたくさんの問題が盛り込まれる。
しかし、数が増えれば増えるほど、ひとつひとつに対する丁寧さは失われ、それを描きたいという作者の思いとはうらはらに「ただ触れてみただけ」のような印象になる。
世間では、「触れた」こと自体を画期的と評価されているけれども、私は中途半端に触れるなら触れないでほしいと思ってしまった。
薬も包帯も持たず、ただ興味本位で他人の痛みに触れてほしくない。
いまの時代なら、LGBTは傷でも痛みでもないだろう。
けれど、物語の時代は昭和なのだ。
昭和を生きてきた私には、違和感しかない。
どうして、あの時代ならではの理不尽や差別感をきっちり描いて、それに反発し抵抗していくヒロインの頑張りを見せないのか。
どうして、最初からみんなで「なんでもないこと」みたいに受け入れてしまうのか。
車いす生活になった玉ちゃんとヒロインたちが表で話すシーンがある。
屋内に入るためのコンクリートの階段が数段ある。
そこを上ろうとしているふうなのだが、上っているシーンはない。
その上ろうとしている描写が、現実にはありえない(そのやり方では無理)角度や所作なのだ。
バリアフリーなどなかった時代。
私はそれを見たとき、なんのために玉ちゃんを車いす設定にしたんだろうと訝しんだ。
そして、次に、なんだか「ネタ」にされたような不快感を覚えた。
弱者に心を寄せるヒロインにしたいのか。
でも、そういう場面はない。
戦災孤児も障害者も同性愛者も性転換した人も夫婦別姓や事実婚を出すのも、どれひとつ必然性がなく、ただ「流行りの事象」として触れてみたいから「ネタ」にしたんだと感じてしまう。
それは私がへそ曲がりだからかもしれないけれど。
そうして、そう捉えられていると気づいて焦ったのか、脚本にはもっと丁寧に書いていたが尺の都合でカットになったと長文の言い訳を発表し、挙句の果て高額な「シナリオブック」を販売し宣伝するというありさま。
はて?
ではドラマの意味はないではないか。
ドラマは、シナリオブックのためのダイジェストだったのか。
伝えたいこと、表現したいことは、ドラマの中で描き切るのがプロの腕ではないのか。
失礼を承知で想像すれば、昭和という時代をリサーチ仕切れなかったのだろうと思う。
マイノリティの人々が、世間の無理解の中でどういうふうに耐え、どういうふうに生きる道を見つけていったのか。
登場人物たちのほとんどは、ドラマの中では当時のマイノリティにも安易に共感する。
それはヒロインたちが優しくて寛容な人物であると言いたいのかもしれないが、当人や周囲の苦悩の過程を省略したことで、ものすごく雑な印象になってしまった。
ただ、「アイコン」として並べただけのような。
それは、当事者にとってすごく失礼なことではないのか。
少なくとも、親からじかに戦中戦後の話を聞いていた私、昭和という時代、世間が同性愛や性転換や内縁関係をどういう目で見ていたかを、私は感じながら生きていた。
私だって、子供のころ、若いころは、それらのかたがたに対する偏見があった。
周りの大人がそうだし、ドラマも小説も、土台がそうだったから。
だからこそ、時代が進んで、それは違うよという動きが出てきたのだ。
時代の経緯を辿るドラマってそういうところに意味があるんじゃないのか。
それが書けないなら、現代の数年間を描くドラマにすれば良かったのだ。
「あまちゃん」とか「おかえりモネ」とかあったじゃん。
苦手な、あるいは知識不足な個所を「目次」という存在にして中身をすっ飛ばし、得意分野のLGBT関連になってきたところで水を得た魚のように饒舌になった。
それが、「押しつけがましさ」「啓蒙」「洗脳」ととらえられてしまうのは、その饒舌さが登場人物の心情の表現ではなく、選挙カーのように「名前の連呼」だけだからだ。
お題目だけをしつこく連呼しているからだ。
それで理解されないとみると、ドラマの外で言い足りなかったことを言う。
史実でなくてもいい。
ドラマのために盛ってもいい。
それが面白ければ、と私は思っている。
でも、お題目だけの連呼では、どこにも感情移入できず、面白くない。
今回のモデルとなった人を、私は知らなかった。
ドラマだから丸ごと「こういう人だったのか」とは思わないが、私が遺族なら、いささか不快だと思う。
それから、新潟は私にとって、すごく思い入れと思い出のある場所なので、新潟時代の登場人物があまりいい印象に描かれなかったことも、残念に感じている。
まあ「リーガルエンタテインメント」というキャッチに過剰な期待をした私が悪い。
登場人物の誰一人にも感情移入できないので、誰と結婚しようがしまいがどうでもいいという気になっている。
丁寧に描いてほしいのはそこじゃなかった。