晴雨兼用
ホームに降りると、屋根の隙間から矢のような雨が突き刺さってきた。
車内では、持っていた文庫本に熱中していたため、窓打つ雨に気づかなかったものだろう。
思わず発した「あっ」という声が、そこかしこから漏れていた。
改札を出ると、その前の電車で到着した人もいるのか、たくさんの人が佇んで、恨めしそうに外を眺めていた。
天気予報は何だったかしら、と思ったが、思い出せない。
降水確率の数字など、こうなってから思い出したとしても、何の役にも立たないのだが。
そうだ。
日傘を持っていた、と気づいた。
日傘ではあるけれど、確か晴雨兼用だったような気がする。
しかし、それを買ってからまだ、雨の日にさしたことは一度もない。
生涯で初めての折り畳みの日傘。
スーパーで、値札とデザインを見くらべるようにして買ったもので、高級感などあるはずもないが、長い間それなりに大切に使ってきた。
おかしなものだが、これ1本であとのすべての人生を賄うような気持ちがある。
雨傘は何本も買うが、日傘はこれ1本というような。
だから、雨の降りそうな日には、朝晴れていても、日焼けを我慢して、雨傘を持って行った。
晴れたときに出かけて晴れたうちに帰れると思うときは、長い日傘をさして出る。
折り畳み傘を兼用させるということは、考えたこともない。
色は黒。
真夏の日差しに透かすと、金魚が泳いでいる。
そこに水はないが、泳いでいる。
それなのに、雨を避けてきたのは、不思議なものだ。
駅で佇む人の数は増える一方になった。
次の電車が着いても、前の人は出発しない。
もうすこし。
もうすこしと待っている。
この驟雨の上がるのを。
ささやかな決断を促したものは何なのか、よくわからない。
私は、人波をよけて、一番前に行き、折りたたんであった日傘を取り出した。
そうするのが当たり前のように開くと、朝の余韻なのか、かすかにお日さまの匂いがした。
そして、それを誰かに告げたかった。
けれど、知った人は誰もいない。
いたとして、そんなことを言うのもおかしい。
だから、自慢するように、人々の前で背筋を伸ばした。
傘をさして、豪雨の中に足を踏み出した。
もうすこし待てば、きっと上がるというのに。
黒い傘のしずくが黒くなるのではと心配したが、そんなことはなかった。
着ていた白いシャツに、シミができることもない。
しかし、布製の傘は、水を吸うのか、すこしずつ重さを増してくる。
歩いている者はいない。
傘を持っている人も、どこかの軒先でいっときをしのぐ、そんな降り方だった。
こんな中を兼用とはいえ日傘をさして歩くなんて、我ながら、酔狂なことだ。
しかし、そういう自分を、私は嫌いではないのだった。
揺れる水たまりに映った空は、薄い水色だった。
もうすこしで私の目線の高さまで来そうな太陽も見えている。
雲は黒雲ではなく、水槽にうっかり落とした一滴の墨汁が広まったほどの色だ。
その水槽で、私の黒い金魚が泳いでいた。
空と雲と太陽と、そしてびしょぬれの足元を見ながら、傘の重みに耐えていると、不意に笑いだしたくなった。
晴雨兼用。
晴れでも雨でも、なんとか使える。
完ぺきではないけれど、まあまあしのげる。
そうやって、みんな生きているんだと、突然思った。
人間も、晴雨兼用。
止まない雨はないとよく言われる。
でも、その慰め方は、私は好きじゃない。
晴れと雨は、たぶんバランスがとれていない。
でも、生きている。
人は、みんな晴雨兼用だから。
スーパーに着いて、買物を済ませて外に出ると、すでに雨は上がっていた。
夕暮れでもあるし、日傘をさすには不似合いだと思ったが、濡れた傘を開いた。
ほんのわずかでも、乾かしてやりたい。
雨水を吸った傘の、ずしりとした重みに感じるいとおしさを抱いて歩いた。
「とりどりの 薬並べて数えたる 生かされし日々 生きるべき日々」
読んでいただきありがとうございますm(__)m