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網棚の蜘蛛

電車は、少しだけ混んでいて、疲れた身体を落ち着かせる座席は空いていなかった。
これという青年に「当たり」をつけて、その前の吊り革をつかむ。
長年の通勤経験で培った「当たり」には、ちょっとした自信がある。

文庫本は、ただのカバンの重しになり果てている。
文字が文章として頭に入ってこない。入ってこないように、集中しないように、わざと注意力を散らしているのだ。

去年、車にはねられてから、私の左手は思うように動かない。
右手で本を持つべきか。
いや、左で吊り革を掴むのは心もとない。
両手を開けて、初めて片手が自由になる。

たった数行で読書をあきらめると、網棚が車内壁に接するあたりで、何かがキラリと光った。
一輪挿しを置くのにいいコースター。
細くて薄くて、けれど強くてしなやかに編まれた糸。

蜘蛛の巣だった。
そうして。
その主は、車内壁に小さな影を落として確かに存在していた。

真下の座席が空いた。
「当たり」は当たったのだった。
瞬間、空いたシートを見、次の一瞬で真上の蜘蛛を確認した。
逡巡する私に、座らないの?という隣客の視線が飛ぶ。
蜘蛛に気づいているのは、どうやら私だけらしい。

毎日、毎瞬間、些細な選択と決断の連続だ。
疲れた身体を休めるか、嫌いな蜘蛛から遠ざかるか。
蜘蛛にめげずに座らねばならぬほど疲れているのか、疲れた身体で立ち続けるほど蜘蛛が嫌いなのか。

蜘蛛を承知で座席に腰を下ろして、件の蜘蛛が眼前に垂れてくる確率はどれくらいか。
いや、頭上に届いた蜘蛛に、私が気づく確率は。
いやいや、私がそんなことはあるまいと「いいほうに」思いを向けられる可能性は。

結果、私はその座席を占領した。
誰かに獲られる前に。

気がつかなかったことにしよう、と思った。
蜘蛛の存在など知らなかったことに。
でも。

私は知っているのだった。
不自然でないくらいに目を上げて、網棚を確認しようとした。
けれど、立っているときに見えた場所まで、視線は届かない。
言い換えれば視線の届く範囲に、蜘蛛の姿はない。
そのことに安心すべきなのに、私の心は不安を追い払うことができないのだ。

私はきっと、悪いことも悪いこととしてすべての現実を視界に収め、覚悟を決めなければ落ち着いていられないのだろう。
そして、いいことだけを考えられる人たちの楽観性を受け入れられないのだろうと思う。

駅をふたつばかり過ぎて、私の前にすこし年かさの女性が立った。
老人と呼ぶには早いかもしれないが、私は即断して席をゆずった。
むろん、その人のためではない。

網棚の蜘蛛は、どこにもいなかった。
探すことはせず、通路を移動して、別の吊り革につかまった。
そうやって初めて、蜘蛛のことはどうでもよくなった。

読んでいただきありがとうございますm(__)m