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千羽鶴の行方

拝読しているnotoで「鶴が折れない」という記事があった。
「逆上がり」ができないことも。
鶴が折れなかったり、逆上がりができないとどんな不都合があるのか。
私は折り紙はできるが逆上がりはできない。
でも、この年まで生きて来れた。

事情があって自転車に乗れない。
家族が死に絶えたあとは、もう乗る必要もないし、公共交通機関がなく自分の力で歩けないほどのところには行かないと決めて、車の運転免許も返上してしまった。
係りの人は、「まだそういう年齢でもないのになぜ」と理由を問うたから「病気があるので」と答えた。
用紙にもそう書いた。
読めばわかる。
答えたあとで「この質問は必要か?」と思った。

そのあと、事故で左手が不自由になったから、運転をしない選択は結果的に正解になった。

夏にコロナに罹ったとき、確かな診断と処方箋欲しさに病院に行った。
しかし、タクシーを使ったら運転手さんにうつしてしまうのではないかと思い、熱のあるなか、一人でヨロヨロと歩いて行った。
一般の患者のように勝手に院内に入ってはいけないので、予約をしたのに外で延々と待たされた。

起き上がって駐車場を探していた看護師さんに手を振ると、彼女はすこしだけ「あら」という顔をした。
世の中の前提は「家族」。
こんなときの移動の前提は「家族が車で送ってくる」になっているのだ。

「普通は」とか「一般的には」という無意識の前提が人にはある。
そして、つい、そこに当てはまらない場合もあることを忘れる。
かくいう私もだ。

多くの人と違っているとき、それは「違い」であって「優劣」ではない。
でも、私の場合はどこかに「できる人に比べて劣っている」というコンプレックスみたいなものがあって、「できません」と答えるのにちょっと勇気がいる。
心の別の部分では「できないから、それがなんだよ!」とも思っているのに。

妻として、嫁として、娘として「やってあたりまえ」「できてあたりまえ」という呪縛にずっと苦しめられてきた。
あたりまえなんかであるもんか。
できるように無理を重ねたり、そうしてもなお不可能なこともある。
でも、そのしんどさは、「あたりまえ」にできる人にはなかなか想像されない。


小学校5年のとき、初めて入院した。
1か月くらいだったか、もう忘れたけど。
産まれたときに既に死にそうだったので、正確には初めてではない。

そのとき、クラス全員の「早く良くなってね」みたいな寄せ書きと千羽はないけど千羽鶴を持って、代表?がお見舞いに来た。

仲良しの子は、そんなイベント?には関係なく、遊びに来るみたいな感じで病院に寄ってくれていたから、私は別に、代表?に来てもらわなくてもよかった。
こんなことを言うと、すごい恩知らずな奴なんだけど。

クラス全員の寄せ書きは、親しい子もそうでない子も、先生の指示で書かされたもの。
そして鶴を「折らされた」。
ホームルームの、授業の一環で、先生の命令で作られた友情か善意のアピール。
それを、嬉しそうに受け取る私。
嬉しそうに受け取らないと悪いから。
だって、翌日のホームルームで、代表が報告するでしょう?
「風待っちゃんは、元気そうでした。
みんなの思いを受け取って、とても喜んでいました。」

千羽鶴は、本当に始末に困った。
寺社に奉納するのなら、お焚き上げとかするのかもしれないし、私が死んでしまったのなら棺に入れたり、他の遺品と一緒に処分できる。
だけど、私は治って退院してしまった。

病院ではベッドサイドに飾っておいた千羽鶴、自宅には置く場所がない。
私には自室がなかったから。
茶の間のちゃぶ台を片付けて、そこに布団を敷いて寝ていた。
隣には祖母。
徘徊を見張りながらの就寝である。

申し訳ないが、鶴は紙袋に入れられ、ゴミになってしまった。
みんな、あれをどうしているのだろう?

入院中、ひまだったので、同室の人から折り紙をいっぱい教えてもらった。
双子の鶴や、どこまでも羽がつながっていく鶴。
それらは、退院の日に捨ててきたけれど、教えてくれたお姉さんのことは、いまも顔も名前も覚えてる。
折り方は忘れてしまった。

千羽鶴は持って帰ったけれど、40何人いたクラスの子で、覚えているのは数人だ。

だからというわけじゃないけど、数合わせで頼まれての折り鶴は、できる限り、お断りしている。
心の込めようもないもの。
それから、心を込めたという自分の優しさアピールにしかならないもの。

でも当時、「折れません」と言えなかった子のことは考えなかった。
そのことは、後年、心の傷となっている。
人と違うことは劣っていることとイコールではないけれど、それを想像しようとしないことは、劣っていることだといまは思う。

読んでいただきありがとうございますm(__)m