#094 だって、鶴が折れないから。
私は鶴が折れない。とある研修のグループワークで、折り紙が配られ「まず、鶴を折ります」と言われたときには絶望した。隣の子に教えてもらいことなきを得たが、なんだか恥ずかしい気分だった。そのことを恨んでいる訳ではないのだが、ずっと引っかかり続けている。
そこには、「普通」や「常識」や「当たり前」で省略する世界があったのだ。
近所の古い家が取り壊され、更地になったあとマンションが建つ。我が家の周囲は最近こればかりなのだが、出来あがった建物を見て不思議に思う。最新の建物なのに、なぜ無用に思える段差があって、杖を使っている人や、車椅子の人が不便を感じる作りにしてあるのだろう。
そこには明らかなバリアがあるように見える。どうしてこれは、こうなったのだろうか。きっと、鶴を折れるひとが作ったのだろう。
ところで、小学生の頃、ずっと逆上がりができなかった。コツに気づいて克服できたのは、中学生になってからだ。これについては恨んでいる。
教師はやれというだけで、体の使い方を教えなかった。しかし実際、やらせていれば大半の子供ができるようになるのだろう。教え足りないことを、落ちこぼれたとみなして切り捨てていく。そうして、「私」と「普通」の間に線が引かれる。
うまくいかないことがある度に、社会のモデルケースと私の人生がずれていき、境界線は増え続ける一方だ。
そうそう、本人確認をする場面で、運転免許証と言われるのもグサっとくる。私は免許を持っていない。最も携帯している可能性が高いものだからそう聞くのだ、ということはわかる。ただ、私はそこで「当たり前」を突きつけられた気分になる。
これから先もきっと、独身であることや、心の病気であることや、その他思いもよらない何かに傷つき、消耗し続けるのだろう。
私は自分を特別だと思っている。自信があるときには。だけど、いまはそう思えない。
だって、鶴が折れないから。
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