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布団の中のラジオの匂い

ミミタコ、という歌がある。
ナツメロ的な番組で、その歌手が出てくると、必ず歌わされる(歌うほうももう飽きちゃってるんじゃないの?とか思う)歌がある。
最近はあまり見ていないが「紅白」もしかり。
大ヒット曲であり、その人の代表曲でもあるのだろう。
アリスなら「チャンピオン」か「冬の稲妻」
谷村さんなら「昴」か「いい日旅立ち」か。

でも、私は「またかよ~」と思う。
どんなにいい曲でも、たまには、その歌手の別の歌も聴きたい。
いや、新曲じゃなくて、別の小ヒット曲。

たとえば「神田川」

私は、思い切り銭湯に行き倒したクチである。
しかも、大学時代につきあっていた人が、利便性?を求めて、うちの近所に引っ越してきたので、私は同棲とはいかないが、ほぼ入り浸りであった。

朝、起こしに行き、朝食を用意し一緒に食べ、大学またはバイトに行き、一緒にまたは私が先にアパートに戻って夕食の支度をする。
そして、ときには一緒に銭湯に行く、という具合。

その頃は、私の自宅にも風呂があったのだが、わざわざ銭湯に行ってからアパートに戻り、そこからあらためて自宅に帰る、というシチメンドクサイことをやっていた。

彼のアパートは四畳半一間。
風呂なし、トイレ共同、部屋を入ってすぐに流し台とも呼べない流しがあり、横に丸い一口のガス台が据えてあった。
窓の下に川はない。

映画を観に行くとか、ドライブを楽しむとか、そういうことはほとんどなく、あるのは日常的なあれこれだけ。
暖かく平穏な「家庭ごっこ」がしたかったんだろうな、と今は思う。

まあ、ふたりともカネがないから、という理由も大きかったのだけれど。
でも、そのカネのなささえ、甘やかなときめきに変えてしまえるのが、若い恋のマジックなのだろう。

だから、私は実感として、女の洗い髪が芯まで冷えるほど長湯な男、という歌詞の世界にどうにも納得できない。
え~、風呂でなにしてるの?と思う。

もしかして女よりロンゲで、洗うのに長時間を要するとか、途中でお腹が痛くなり、風呂とトイレを往復しているとか、それにしても毎度かよ、と思い、いや裸になり湯船に浸かるとお腹がゴロゴロ緩んでくる体質なのかもしれないとも想像し、メンドクサイオトコやのぅ~と思ってしまう。
風情もなにもあったものではない。

私が、大ヒットしたこの歌にいまいち感情移入できなかったのは、女を待たせるほど長湯な男、というただ一点のみにであった。

今後、ナツメロ番組のこうせつさんには「僕の胸でおやすみ」か「おもかげ色の空」を歌っていただきたいものである。

今日、4年ぶりにコスモス畑に行った

大人になって気づいたことはいくつもある。
別れてから知ったこと。
別れたからこそ感じられるようになったこと。

あなたの優しさが怖いものだと感じる女には、まだ未来があるのだ。
でも、未来の自分は、あなたと別の道を歩いているかもしれない。
こんなにこんなに好きなのに。
こんなにあなたは優しいのに。

女の恋は点なのだ。
今はこんなに想っていても、次の瞬間には、そうでないかもしれない。
互いに好きだと確かめ合った瞬間はその瞬間だけで、明日には、いや今夜にはまた不安になる。

だから、何度も何度も訊いてみたくなる。
私のこと、好き?

男のそれは線だから、一度好きだと言えば、それは嫌いと言い直すまで未来永劫有効だと思っている。
だから男は、遠い明日ばかり見て、女の足元のぬかるみに気づかない。

私は思う。

あなたの優しさが怖いのは、優しくなくなってしまう未来が、いやその優しさすら疎ましく感じてしまうような未来が、明日にもやってくるかもしれないから。

けれど、結婚生活という一応の安定路線を経験した今の私には、あの頃のすこし後ろめたいような気持ちと別れの不安に怯えながら、それらを振り払うように愛しい人の腕を求めた自分をひどく懐かしく感じる。

男の長風呂の点を除けば、「神田川」のそのせつなさに涙するのは、若かった当時の自分ではなくて、今なのだ。

白い花のさびしさが好き

手にないものは手に入れたいと願い、手に入れたら今度は失うことを恐れる。
だから、満ちている愛も優しさも、本当はみんな怖い。

小学生の頃から、ラジオの深夜放送を聞いていた。
今日、チンペイさんの訃報を聞く。
晩年、ソロ活動で人生を歌い上げる谷村新司より、アリス時代の恋や挫折の曲が好き。

恋することだけでなく、その挫折にすら憧れた頃があった。
布団に隠して聴いた深夜放送の、古いラジオの匂いがする。

読んでいただきありがとうございますm(__)m