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ルームメイト ~猫語が話せない~

今日は、通りすがりのネコたちにお出ましいただくことにする。
当人(当猫)の承諾はとっていない。
私は猫語が話せない。

幼い頃、うちには猫がいた。
飼っていた、のではなく、いた。
居ついていた、というのがふさわしい。

「ぶち」と呼んでいた。
白と黒のぶち猫だったから、安直なものである。

「ぶち」が、いつからうちにいたのかわからない。
私たち家族が来る前から、そもそも先住していたのかもしれない。
ドラマチックな出会いの場面などきっとなかったのだろう。

「ぶち」は、飼い猫ではないから、生活の糧は自己調達である。
田舎のことであるから、ネズミなどの小動物や木の実などを摂っていたのだろうと思う。
我が家は、その日の米をその日に買いに行くようなありさまで、とても「あまりご飯」が発生するような食生活ではなかった。
「ねこまんま」は、飼い猫の特権である。

しかし、私たちが食事をしているのを、気にも留めずに(そんなふりをして)ひとりで内職の部品にじゃれ付いているのを見ると、なんとなく不憫になり、茶碗の底にわざとご飯を残したりした。

それが、子供の私だけでなく、年の離れた兄も、あろうことか両親や祖母までもそうであるとわかり、私たちは顔を見合わせて照れ隠しに笑った。
「ぶち」は、争いの絶えなかった家庭に、そんな柔らかい空気を与えてくれたのだった。

味噌汁のだしをとった「煮干」をのせた、わずかな「ねこまんま」を、「ぶち」は飼い猫としてでなく、同居人(同居猫・・・ルームメイト)へのおすそ分けとして、ニャゴニャゴ言いながら食べた。

「ぶち」は律儀であった。
一宿一飯の恩義というものを大切にした。
彼は、食事の自己調達の帰りに、手土産を持参するようになった。
すなわち、蛇やカエルや虫類、ときにモグラなどである。

手土産であるから、傷がつかないように丁寧にくわえて持ってくる。
生きたままだ。

「お気持ちだけで結構です。」
と言いたかったが、私をはじめ家族に猫語を話せる者はいなかった。

「ぶち」の帰宅時には、私が出入り口の前で彼を待ち、手土産を戸外で受け取るのが日課となった。
あの頃、蛇や虫など平気だった。
今なら卒倒する。

暑い夏の夜は、窓も出入り口も開け放って眠った。
そういう時代のそういう土地だった。
蛾が入るので、電気を消していた。

褪せた緑色の蚊帳の中で横になっていると、開いた窓や入口から蛍が何匹も舞い込んでくる。
蚊帳の外側や壁に止まっては妖しい点滅を繰り返す。
この蛍の来襲に、「ぶち」は怯えていた。
いつまでたっても慣れなかった。
彼の目に、妖しく光る求愛のサインはどう映ったのだろうか。

凍てつく冬の夜は、彼は私の専用アンカとなった。
唯一の暖房である火鉢の火は、たぶん落として眠ったと思う。
雪深い北陸の片田舎の家とは呼べない小屋の中で、さっきまで言い争いをしていた家族が、生きるために身体を寄せ合って暖をとった。

出会いのシーンはなかったが、別れのシーンは突然訪れた。
私たちは、ある冬の夜、東京に行くことになった。
もとより家財道具などないから、布製のボストンバッグふたつみっつの旅立ちである。

「ぶち」を連れて行くことは、誰も考えていなかった。
彼はペットではなく、ルームメイトで先住者である。
きっと彼自身も考えていなかったと思う。
彼は、私たちが出て行ったあとも、たぶんあの家に残って今までと変わらない暮らしを続けていたのだろう。

ラストシーンに彼は登場しない。
彼は、家の中にいて、私たちの立ち去る気配だけを感じていた。
犬のように尻尾を振ることも追って走ることもしない。
いつもどおりのリズムの合間に、ちらりと私たちを見たのが「今生の別れ」である。

今、その家はもうない。
いや、家ではなく、小屋なのだから、取り壊すのは造作もなかっただろう。
一面田んぼと畑だったその土地は、高速道路の下となった。

「ぶち」はそのあとどれくらい生きたかわからない。
だが、彼はハンサムだったから、きっと恋人や花嫁には困らなかっただろう。

「ぶち」は三毛猫や白猫やトラ猫の彼女にそのDNAを伝えたに違いない。
その子が親となり、その仔猫もまた親となり、連綿と続く命の流れの果てに「ぶち」のDNAを受け継ぐものがいるだろう。

その中の一匹くらい、ゲージに入れられて上京してはいまいか。
眠る女の子の膝に抱かれて、高速道路を東京に向かってはいなかったか。


路地でネコを見かけると、どうしても気になる。
「お前はぶちの子孫じゃないの?」
「それならどうして逃げないの?」
「なぜ、私を見つめているの?」

ルームメイトのDNAがあるのかないのか、彼らは答えてくれない。
私は猫語が話せない。

読んでいただきありがとうございますm(__)m