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白い闇

目覚めると6時だった。
通勤の時は6時半に起きるのだが、あとすこし寝ていたいなと思うことがある。
実際は布団の中でうだうだしているだけで眠れるわけではない。
休みの前の晩に限って、いつもより早く寝る体勢が整い、翌朝いつもより早く目覚めるのはどういうわけだろう。
いったん起きた後も、好きなときにまたうだうだできるという安心感かもしれない。
これは一人暮らしになるまで感じなかったこと。

レースのカーテン越しでは何も見えなかった。
花粉の季節になってから、室内にいても目が痒いし、ゴシゴシしすぎて痛くもなる。
ひょっとして角膜を傷つけてしまったのかと思ってギョッとした。

窓を開けた。
濃い霧が、あたり一面に立ち込めている。
目のせいではなくてホッとした。

認知症を自覚した母は、自分の脳について言っていた。
頭の中に白いもやもやがかかってよく見えないの。

ガンが肝臓に転移して肝性脳症となった兄も同じように言った。
頭の中に白い闇がある。

確かにそこにあったという記憶があるのに、それが何だったか思い出せない。
存在していることだけわかってるのに、色も形も見えない。
その白い闇が日に日に濃くなる。
そのとてつもない不安と恐怖。

私もいつかそういう日が来るのだろうか。
来たということを教えてくれる家族はいない。
せめて、自分で気づいて、後の始末をつけたいと強く願う。
しかし、人生は思い通りにはならないということを、私はよく知っている。

1時間ほどで闇はずいぶん薄くなり、8時になるころには、すっかりと消失した。
苦しいこともつらいこともすべて、こんなふうに消えてしまえばいいのに。

霧が晴れた後も空の青さが足らないのは、たぶん黄砂のせいだろう。
ガラスのような砂ということだから、目や喉に入ればきっと傷つく。
花粉症の人はアレルギー症状が強くなるおそれがあるから、今日と明日はなるべく外に出ないほうがいいでしょうと、気象予報士が解説していた。

洗濯も断念した。
今日しなければ、という強迫観念から解放されてずいぶんラクになった。
私一人の暮らしで、今日しなければならないことなんてないのだ。
逆に、明日の大河ドラマを見るために生きていたいと思う。

こうなるまで、あらゆることに対して気を張って力を入れて生きてきた。
そうしなければ、倒れてしまうような気がした。
平櫛田中だったかの「俺がやらねば誰がやる。いまやらねばいつできる」という意識が常にあった。

いま思うと、自分では闇と認識していない闇の中で、ただ手足をバタバタさせてあがいていただけだったかもしれない。
でも、今朝の霧のように、待っていれば自然に消失するものでもないから、あれはあれでそうするしかなかったのだろう。
「私がやらねば」という意志で乗り越えられたことも、たぶんいくつかはあるはず。

もう、ものごとに大層な理由はつけまい。
私がやらねばならないのは、私が生きることだけ。
脳みそが白い闇に覆われるそのときまで。

明日も黄砂が飛ぶらしいので、洗濯は明後日にしよう。
副業を受注するかもしれないが、それはそれでよし。

桜が咲いたと報じられているが、名所につめかける混雑の映像を見るだけで気持ち悪くなる。
会社の昼休みに、近くの並木を散歩しようと目論んでいる。


読んでいただきありがとうございますm(__)m