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白い一日

厚口の器が好きだった。
ぐい飲みにせよ、珈琲カップにせよ、素焼きの味わいを残す陶器に惹かれた。

唇に触れたときの、熱くもなく冷たくもない、その心地よさ。
私が唇を寄せるのではなく、陶器のほうから迎え入れるような、包まれるような安心感。
だから、萩や備前や信楽の器が、我が家にはたくさんあった。

一番多いのが珈琲カップで、これは少々高くても本当に気に入ったものだけを一客ずつ買い揃えた。
いつか、一枚板のカウンターのある喫茶店をやってみたいなどと思っていた。
店内にはシャンソンか、ジャズを流そう、と。

いつの頃からだろう。
かつて、見向きもしなかった伊万里や九谷に心が留まるようになった。
触れたら破けてしまいそうな薄口の儚さを愛しいと思うようになった。

炎が織り成す偶然に驚嘆するのではなく、計算と技を尽くして生み出した染付けの色と構図に心が動く。
この色を生むために、作家がかけた時間と手間と技と心意気を思う。
繊細な筆跡にこめられた息の詰まるような緊張感を思う。

時を同じくして、青磁や白磁にも目が留まった。
1300℃の灼熱地獄に耐えて得た深い透明感、矛盾しているが濁りを内包した透明感というものが心を捉えた。

ボーンチャイナは、その名ゆえに、骨の気配を恐れながら惹かれた。
それはもしかしたら、命などあっけなく消えてゆくものだと実感したからかもしれない。
生はいつも死と隣り合わせにあるということを思い知ったから。

いくつもの命を看取ったが、私自身は見納めかもしれないと覚悟した病室の天井を再び目にすることができた。
この世は多くの儚さで満ちている。
それを証明するように、集めた陶磁器は、ただの震災ゴミとなった。

今も、ああかつては、ここに鼠志野の秋刀魚皿があったなぁと思う。
そして、100均で買った皿に秋刀魚を置く。

昔、小椋佳作詞・井上陽水作曲 「白い一日」の歌詞で「真っ白な 陶磁器を 眺めては あきもせず かといって 触れもせず 」という一節があり、この「とうじき」がなぜか「そうじき」に聞こえた。

「真っ白な掃除機を眺めていて何が面白いのか」と思ったものだ。

でも以外に悪くないかもしれない。
意味も意義も求めず、ただぼんやりと何かを眺めているひとときも。

雨が止んだらしい。
風の音もすこしおさまってきた。
この嵐が春を連れてくるのだろうか。
嵐なしで穏やかな春を味わうということはできないものか。


読んでいただきありがとうございますm(__)m