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サンプルと概念の違和感

ドラマ「不適切にもほどがある」の録画をいま見た。
リアタイしなくなったということで、興味や期待が薄れたことは自覚していた。
最終回の内容について書かれたものは、ほぼ読んでいないので、もしかしたらこんなふうに感じたのは私だけ?みたいな不安もある。
「せっかくの感動にケチつけんなよ!」と怒られるかもしれないけれど、それこそ「多様性」と「寛容」でお願いしますm(__)m
って、このふたつの言葉を出しときゃいいだろうというのは、やっぱり安直だよね。すみません。

以下、あくまでも私の感想です。
誰かの感動を否定するものではないのでご容赦ください。

そもそも期待値が高かった。
クドカンだもの。
「あまちゃん」も「いだてん」も「俺の家の話」も全録画している。
そして繰り返し見るたびに、やっぱり面白いなと思う。

最初の2回くらいは、楽しく鑑賞した。
1986年は懐かしいし、昭和の小ネタも楽しい。
ミュージカル場面の挿入は、正論を正面切って言うと説教臭くなるのを緩和しているんだろうなと感じていた。

しかし、回を重ねるごとに、そのミュージカル場面こそに説教臭さと「くどさ」を感じてううっとなることが多くなった。
「クドカン、どうしたの?」みたいに思っていたところ、阪神淡路大震災の回があって、「おっ、やっぱりクドカン、これこそクドカン」と視聴モチベーションが回復した。

私の興味は、未来を(自分と愛する娘の理不尽な死を)知って、そこまでをどう生きるかにあった。
あるいは、タイムパラドックスを回避しつつ、どうやってこの災害から逃れるか。

自分だけ生き残る選択はないだろう。
でも、自分と娘さえ助かればそれでいいのか。
それとも、すべてを受け入れて何も知らなかったように日常を暮らすのか。
どんな心情に至れば、それは可能なのか。

けれども、そこの大もとの話は進まず、昭和と令和の価値観の対比の話ばかりが続く。
私はだんだん「もういいよ、わかったよ」というような気持ちになってきた。
それは、私自身が昭和と令和の現実を生きてきたからだろう。
「昔は子供だったからよくわからなかった」というほど、私は若くはないからだ。
サンプルが多すぎて、主旨がぼやける。

そのすべてのサンプルに対する落としどころが「寛容」だった。
正直、当たり前すぎて拍子抜けした。
そんなこと、過去9回も重ねないとわからなかったの?
そこに解決策を求めるなら、1、2回で十分じゃん。

そして、それを訴えるミュージカル場面がくどい。
なんだか「寛容」を強制されているような、いうなれば「同調圧力」を感じてしまった。

そもそも私は「〇〇しましょう」「〇〇になりましょう」という言い回しが好きではない。
誰かが「つらいけど、自分、頑張ります!」と言うのには応援したくなるし、「私も頑張る!」と呼応したくなるけど「みんなで頑張りましょう!」と言われると「はん?」と思う。

あなたと私の困りごとは、違うものだし、違う対応が求められるものだし、比べられないものなのに?
みんなの個々の事情を知って言ってるの?
私の何をわかってる?
「しましょう」と言うあなたは何様?
啓蒙活動家?

ドラマはあくまで登場人物個々のストーリーを描いて、そこから見る側が(作る側ではなく)普遍性を感じ取ったり、自分に置き換えて悲しんだり喜んだりするものだと思っている。
私はそういう楽しみ方をしている。
だから、これまで登場人物の個々の立場や心情に感情移入していたのを、突然「サンプル化」して、「いままでいろいろ例をあげてきたけれど、つまりはみんな寛容にいきましょう」と片付けられた気がして、興ざめしてしまった。

寛容は大切なことだが、寛容に対応できることもあれば、できないこともある。
してはいけないこともある。
さらにその線引きは、個々に違うものだし、その違いを「多様性」として描こうとしたのではなかったか。
そこにこそ寛容が必要と言いたいのかもしれないけれども。
最後、時間がなくて十把ひとからげに「概念」でまとめたような印象がぬぐえない。

ラストのおじいさんになった井上さんの再登場は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のデロリアンの燃料がプルトニウム→ゴミとなったシーンを想起させたけれど、さほど必要なシーンとも感じなかった。

クドカンの次回作に期待する。


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