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【短編小説】習作・夢の話・久保さんとマヨネーズ  もりたからす

ひどい暑さのせいで、歩行者用信号機の色が一向に変わらない。辺り全てに陽炎が立ち、横断歩道の白さも歪む。この街はひっくるめて、蜃気楼かもしれない。

振り向くと、少し遅れて下校する久保さんがいた。僕は初めて、赤のままでも良いと思う。そう願うとすぐに、信号は青に変わった。渡ってしまい、先のベンチで彼女を待とう。

僕の隣には、カピバラがいた。どうやら僕の連れらしい。車線側を歩く世界最大の齧歯類は、もごもごと喋る。

「今夜は生徒会の集まりがあるよ」
初めて聞く大切な話は大抵、哺乳類の口から飛び出す。
「そんなこと言ってたかい」
僕は、自分よりずっと背の高いカピバラに問うた。
「言ってたよ」

今までに何度もその種の会合があって、僕だけが知らなかったのかもしれない。

「大丈夫、今回が初めてだって」
彼女にそう言われ、ひとまず安心した。彼女。その代名詞がカピバラの性別を決定し、僕の下校が様変わりする。久保さんに、何と言ったら許してもらえるだろうか。

とにかく、副会長に連絡を入れなければ。通学カバンの小ポケットには、古い携帯電話が入っていた。契約はとっくの昔に切れていて、誰にも、どこにも繋がらない。

スケート場の脇を抜け、曲がりくねった小道から角のカメラ屋を折れて県道に出た時も、まだ僕は諦めきれず、真っ赤な電話の真っ赤なボタンを、やたらめったら押していた。夕焼けが照らす隙もなく、いつしかすっかり日は暮れた。

県道を走る、ひときわ車高の低い水色のスポーツカーが、僕とカピバラのそばに停まった。運転手に見覚えはないが、どうやら僕の通う高校の教師らしい。

「おい、それこっちに見せてみろ」
彼の語調で、僕は厄介な校則に思い当たる。
「誤解です、先生。これは全く用を為しませんから。電波を拾わないからとても電話とは呼べず、こんな旧式で大型の代物は携帯ですらありません」

必死の弁明を続けると、教師の物分かりが不意に改善した。

「そうかい。まあ、見つかったのが俺でよかったな。気を付けて帰れよ。そっちの馬鹿でかいハムスターもな」

車が去ると、憤慨したカピバラは神社の裏手に走って消えた。僕も駆け出し、自宅を目指す。

自室には久保さんがいて、素敵な笑顔で、無地の手拭いを振り回していた。今夜の生徒会の会合のこと、電話をする必要があることを告げると、彼女は手拭いを放り、一緒に部屋中を探してくれた。しかし、携帯電話は見つからない。

久保さんの電話が鳴った。相手は副会長らしい。

「うん、そう、分かった。今一緒にいる。内緒ね。生徒会のこと心配してるけど。ああ、そっか。じゃあ私も行くね。大丈夫、うん」

久保さんが一つ相槌を打つたび、僕の焦りはほぐれていった。彼女は時々、目で合図をしてくれる。大丈夫だよ、心配ないって。

「分かった。はーい。そんなの良いって。モルモットのことだって、別に浮気とかじゃないし。信用してる。うん。はっきり言って、私、彼のためならマヨネーズだって飲めるから」

久保さんがマヨネーズを好まないことを僕は初めて知った。電話を切ると、久保さんはまたとびきりの表情で、ぶんぶん手拭いを振り回す。

僕も久保さんのためなら、納豆を食べられるだろうか。


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