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終戦に思う

今年の8月14日は、伝統的七夕の日だった。             国立天文台が、毎年旧暦7月7日にあたる日を、伝統的七夕の日に定めたのだ。毎年この日は、梅雨も明け、織姫(ベガ)と彦星(アルタイル)が天頂にのぼり、天の川をはさむ両星を見るには最適の日のはずだった。しかし、ことしは大雨だった。 晴れていたら、BGMはドビッシュー「月の光」で、星を眺めようと思っていたのに。

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そして8月15日。                          日本の夏は独特だ。四季のはっきりしているこの島は、日中の照り付ける太陽が、夕方にはスコールを生む。少し涼やかになった夕べには虫の声が一層の風情をかきたてる。                        帰省して田舎に戻る。そこでの夏の思い出。               あるいは、白球を追いかける球児に代表されるように、スポーツに汗を流し、生命を謳歌する夏。                          そして、ヒロシマ、ナガサキ、敗戦。                    七夕、お盆。先祖の霊を迎え、また送る。生と死の境界があいまいになる時。これらが混ざり合い、不思議な相乗効果をかもし出している。          今年、オリンピックがこの国で行われた。まるで語呂合わせのようなパンデミックとオリンピック。これも夏の記憶として新たに刻まれるのだろうか。

私たちの生命とは何なのか。                     先の戦争では、お国のためにと、多くの息子、父親が銃声に消え、多くの娘、母親が戦火に焼かれた。                     しかし、国とは何だろうか。それは人類が生み出した幻に過ぎない。   私は国家公務員なので、日の丸はためく元で日々仕事をしている。国がなければ民は惑い、生活をしていくことはできない。今日、全ての国民が安全で文化的な一日をおくるために、日々汗を流させてもらっているつもりだ。 しかし、国とは何なのかをよく知っておかなければ、国民をとんでもない惨禍に陥れてしまう。そのことを決して忘れずに、私の小さな役割を果たすことを肝に銘じている。                        国も金も幻なのだ。だからそれ自体が目的になってはならない。        私たちは、今日、生きて、食べることができたら十分なのであり、その他のエネルギーは次の世代のために注ぎ、命を紡ぐこと。                     それが本来の生命のあり方なのだと思う。それ以上でもそれ以下でもない。現代人は物質的に豊かになったが、あれやこれや抱えすぎて踏み外した。

南洋の島で、遺骨収集に来た家族が叫んでいた。                                       「お兄さん、一緒に日本に帰りましょう! あなたの知っている日本とは違う国になりましたが…」                                                                                  それを叫んだ人も今はもういない。

「日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」

三島由紀夫は、なぜ割腹自殺をしたのか。                自分を含めて人の命を奪い、また傷つけたのだから、その行為は決して褒められたものではない。でも、彼は自分の美学から逸脱していくこの日本を黙って見ているわけにはいかなかったのだと思う。

若い人と接していると、義務とか責任とかを嫌がることが気にかかる。  義務や責任なんてものは背負わず、自分のために自由に時間や金を使いたいと言う。しかし、私たち人類が社会を作り出したのは、次の世代が命を紡ぐために、より良い環境を整えるためだ。それを忘れないように。                  社会で生きている限り、どんな時も、どんなところでも、義務と責任はある。

このパンデミックで、私たちは自分らの現実をまざまざと見せつけられた。一年前、ウイルスがどんなものかわからなかった時、恐怖にかられた我々は、から騒ぎをしていた。自粛警察などというものが出現したりした。  しかし、今はどうなのだ? 緊急事態宣言が出されているにもかかわらず、集まって酒を飲み、それを憚らない。というか、そういうことをしているのだという自覚さえない。なのに、社会の出来事や政府、そして隣人を批判している。

年をとると愚痴が多くなる。でも年長者の言うことに耳を傾けてほしい。亀の甲より年の功だから。                       もし今日、路傍に花を見つけたら、人がどんなに着飾ったとしても、この花には及ばないことを知ってほしい。                     むなしいことに命を使わず、命のために命を使ってほしいから。

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