見出し画像

【読書日記1】ラブカは静かに弓を持つ

昨秋行ったクラシックコンサートのプログラムに、チェロの独奏があった。曲はチャイコフスキーだった。

それまでのオーケストラの迫力ある演奏からうってかわって、たった一台の楽器の音色がホールに響き渡る。

チェロの音域は、人間の声のそれとよく似ているそうだ。
だからあんなにも感動したのだろうか。鳥肌がたったのを覚えている。

と書いていて、楽器の音を言葉で表現する難しさを実感する。私には「響き渡る」「感動した」くらいしか書けない。
あの『ガラスの仮面』を描いた美内すずえ氏も、最初は琴を弾く少女の物語にしようと考えながらも「本から音は出ない」と編集者にとめられたというエピソードを語っておられた。

だが、この本からはチェロの音色が聴こえてきた。
バッハの「無伴奏チェロ組曲」
パッヘルベルの「カノン」
その調べが、確かに私の耳に届いた。
本当にそう感じさせるような、美しく端正な文章だった。



この本との出会いは偶然だった。
昨年12月下旬、年末年始に読む本を探しに図書館を訪れたものの、目当ての本は全て貸し出し中だった。
その場でネット検索し、目にとまったのがこの小説だった。著者名も作品名も知らなかったが、その美しい装丁が目をひいた(上掲の画像は帯でよく見えないが、ぜひ表紙全体を検索してみていただきたい)。
キャッチコピーは「音楽×スパイ」。それを見て「あ」行の書架に走り、幸運にもそこにあったその本を私は掴んだ。


主人公は、「全日本音楽著作権連盟」に勤務する20代後半の青年橘樹たちばないつき
上司から、著作権侵害の証拠をつかむためにミカサ音楽教室への潜入調査を命じられる。期間は2年間。

橘は少年時代にチェロを習っていた。そのことからチェロ教室の生徒として潜りこむこととなるが、彼は過去に辛い事件を経験しており、その傷はまだ癒えていない。
チェロ、そして音楽への思いを封印し、人との関わりを最小限に留め、橘はひっそりと生きてきた。まるで深海魚のラブカのように。

複雑な心境と身分を隠し教室に潜りこんだ橘は、チェロ講師浅葉桜太郎あさばおうたろうの元でレッスンを重ねていく。ポケットに録音機をしのばせて。

仕事とわかっていながらも音楽への熱情を抑えられなくなる橘と、その演奏能力に気づき熱心に指導する浅葉。他の生徒仲間との穏やかな付き合い。
深い海の底にひとりぼっちで潜んでいたラブカは、おそるおそる陽のさす方へと浮上していく。

しかし、その関係は偽りのうえに成り立ったものである。期限の2年が近づいたころ、すべては明るみに出た。

この本はもう図書館に返却してしまったため本文を引用することが難しいが、唯一書き留めていた箇所を記しておく。

講師と生徒のあいだには、信頼があり、絆があり、固定された関係がある。それらは決して代替のきくものではない。


これは、裁判の証人となった音楽教室講師の証言である。
この言葉のとおりの関係を、橘と浅葉も築けていたのか。浅葉は橘を許すのか。

終盤は、けっしてダイナミックに展開するわけではない。しかし橘は、チェロで本当に弾きたかったのは何かを浅葉に告げることができた。それまでのレッスンでは、潜入の目的上ポップスばかり弾いていたのだ。
音楽のもつ圧倒的な力が、裏切り裏切られた者たちの思いを浄化していく。
私は、気がつくと泣いていた。


ちなみに、この小説に出てくる著作権侵害のエピソードは、実際にあった事案がモデルのようだ。


私も小〜中学生のころ、街の音楽教室でエレクトーンを習っていた。ポップスを弾きまくっていた。あれはセーフだったのか、アウトだったのか……。


この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?