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少年の為の小さな海

 緑、飛ぶ虹彩。刺すやうに。見る。
 ソラスは立ち尽くしていた。港。船着き場に船は一艘も無い。海は白ばんで、たおやかに息をしている。
 少年と呼ばれる時間は幾ほどだろうか。13歳。新浜中等学校の二年、夏、七月。未だ、ソラスはただ少年でしか無く、青色だった。
 爪が伸びている事に気づく。僕は生きて居るやうだ。気持ち悪い。
 齧り、爪など剥ぐこゝろ。生など、嗚呼なんと醜い!コンクリートに仰向けて、空に堕ちる。堕落したいんだ、神様。
 「カモメ飛ぶ日に 太陽がーーサ、」
歌いかけて止める。相応しく無いから。
 僕には、聲など。こんなかすれた、大人に変わってゆく汚い音など。
 楽譜が好きだ。音符や記号はとても美しく、黒もシャープに其処に居る。ピアノを追うと、気持ちが少しはましに成る。
 ボー。
 舟が来た。ちいさな漁船。赤錆びて、もう魚を採る為には使われていないようだった。
「あい、坊っちゃんよ、こんな良い日に。」
これも又赤錆びた顔の男が言った。
「ーー乗せて、くれる?」
ソラスの弱い聲。緑の眸が海に映るやう。
 トビウオが見たい。あの銀の背びれ!光を受けて、綺麗だな。今日は、それだけ。
「乗りな、ほら、」
男が逞しい左手を伸ばす。ソラスはそれを避け、這い上がるように舟の先に座り込んだ。
 舟は海へ戻る。還る?海へ還る?良いな。そんな風に、死にたひな。
 少年の白いシャツと躰は、ゆらゆらと運ばれて行く。波は気紛れで、言う事を聞かない。赤錆びの男ですら。
 自分が痩せすぎて居る事に気づく。肩の骨、肘、手首。どれも骨のかたちが見え、不健康極まり無ひ。まあ、良いか。どうせ死ぬのだし。はは。
 舟は150メートルほど沖へ出た。ソラスは縁に頬杖をつき、海面を眺める。
 青とも白とも、グレイとも言えない色。余り素敵では無い。潰れた空き缶が泳ぐ。
「あ、!」
トビウオだった。それも群れの、瞬間飛び上がってキラメキ直ぐに落ちた。
 あの背びれが、銀の尾が、僕にも有ったなら!飛べるのに、屹度、きっと。
 天へ。
 昇るやうに落ちてゆく事。
 生と、死。
 総てだよ、それが全部ぜんぶだ、僕には何も無い、光も愛する人も無い、肉体は穢い、助けてくれ僕を僕の名を一息に!
「ッっは、あ、はあ、あ、」
急に息が苦しくなる事がある。手首に刻んだ十字を見る、青いインクを入れたのに、未だ赤く腫れていて、あゝ僕には救済は来なひのだ、フランダースのやうには、無理だ、さふいう命だから。御免なさい。
 背をずらすやうに、ゆっくりと、頭から海へ落ちてゆく。水が入って来る。苦しひ。嬉しひな。僕は、ねえ僕はーー
「おい!お、」
男の声はもう聞こえない。僕は遠いところに居る、海の中、漂い、魚達に纏わりつかれ、泳ぐとも無く、沈むしずむ鎮む。
 おしまい。此れが僕の、死。中々綺麗だと思うんだけれど。
 独りにして呉れ。静かの海へ、還ったんだから。サア。僕の名前は?空、そらのやうな名前だった、誰にも呼ばれず仕舞いだったな、可哀想に、あ、ソラス。変な響きだ、滑稽だ、サアカスよりも道化だ、僕は哀しひ少年だった、サヨナラさよなら世界なんて奴、良かった。ふふ。
 もう呼吸をしないソラスは、魚に啄まれ肉と骨の欠片ばかり水に浮ひて、汚くてきれい、弔いをしやう!盛大に、さあ!鐘を鳴らすんだ。黄金色の、あの鐘だよ。
 じゃあ、ね。手紙を書くかも知れないよ。そのときは又。インク切れだけれどね。
 ーーーー。し、ン。さああ、ザア。

おたすけくださひな。