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マルコ

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 ぐらりとベッドが歪んだ気がして、モロコはそれまでのふんわりと心地のよい微睡みから一気に現実の朝へ引き戻された。カーテンの隙間から眩しいほどの光が部屋の中へ注ぎ込まれ、窓の外では何やら騒がしい声が聞こえている。
 えいと勢いをつけて上半身を起こすと、胸の上に乗せていた熊のマルコがごろんと傍らに転がった。背中の縫い目が少しほつれて中の綿が見えている。黄色いクマのぬいぐるみはモロコが三歳の時にパパがお土産にくれたもので、マルコがいればいつだってモロコは安心して眠れるのだった。
 モロコはそのまま首を伸ばして二段ベッドの下の段を覗き込んだ。がっしりとした木製の二段ベッドはパパの手造りで、モロコは嫌がったのに赤いペンキが塗られている。

「ほら、かわいいじゃないか」
 パパは塗り終わった刷毛をペンキ缶に放り込みながら言った。
「乾けばこれよりも落ち着いた色になるからな」
 けれども、妙に艶のある赤い色は残念なことに乾いても落ち着いた色にはならず、二人の新しいベッドは、ほんの少しピンクの混ざった派手な色になったのだった。
「使っているうちに慣れるさ」
 パパはそう言って肩をすくめた。

 下の段ではサバクが寒さに耐える犬のように小さく丸くなって眠っていた。上の段のほうが暖かいのだ。暖かい空気は軽くなって上がっていくと理科の授業で習ったサバクは自分だって二段目がいいと文句を言ったが、その代わりに夏は涼しいじゃないかと言われてすぐに納得したのだった。
 サバクはどうやら眠っている間に毛布を蹴飛ばしたらしく、体には何も掛けていない。もう八歳になるのにまだ親指をくわえていた。
 ドーン。花火の音が響いた。昨日からどこか遠くの街でお祭りをやっているらしいのだ。
「モロコ、サバク、そろそろ起きなさい」
 ママが大きな声を出した。カタカタと食器の音が聞こえているからきっと台所にいるのだろう。
 モロコがベッドのハシゴを降りてサバクの足の裏に触れると、サバクは大きな声を上げて体をよじりながら頭を持ち上げた。大笑いしている。
「何するんだよ。くすぐったいじゃん」
「朝だよ。もう起きなきゃ」

 素早く着替えて顔を洗い、それからモロコはじっと鏡を見つめた。モロコは来週で十一歳になる。十一歳になったら色つきのリップを買って貰う約束になっているのだ。
 ダイニングではパパが難しい顔をしてテレビを見ていたが、モロコの気配に気づくとリモコンを手に取ってチャンネルを変えた。
「パパおはよう」
「おはよう」
 パパはニッコリ笑うとモロコを引き寄せて朝のキスをした。パパは顔中がヒゲで埋まっているから、いつもモロコはほっぺたに掃除ブラシを当てているような気になった。
「あら、サバクは?」台所から顔を覗かせたママが聞く。
「僕もいるよ」
 部屋の入り口でサバクは毛布を手にしたままぼうっと立っていた。まだパジャマ姿だ。
「サバク、早く着替えてきなさい」
「うん」
 椅子に座るとパパがコップに温かいミルクを注いでくれた。両手でコップをしっかりと持ち、ミルクを口に含みながらモロコは窓の外をぼんやりと眺める。
 アパートの三階から見える朝のこの風景がモロコは好きだった。白い雪を被ったいくつかの屋根が太陽を反射してキラキラと光っていた。その光を受けて、教会の十字架もピカピカと点滅するように輝いている。隣の建物にびっしりと広がったツタは、茶色から緑に変わろうとしていた。ベランダの花壇でも芽が出始めている。冬の間はここを離れている鳥たちも、まもなく戻ってくるだろう。
 もうすぐ春が来るのだ。雪が溶ければ春の香りをたっぷり吸い込むのだ。

「二人とも聞いてくれ」
 サバクがパンを食べ終わったところで、パパは姉弟に向かって静かに話し始めた。その隣ではママがパパと同じように優しい笑みを浮かべている。
「私たちは、ここを出て行かなきゃならない。それもすぐに」
 モロコはびっくりして、手に持っていたフォークを落とした。カタンを大きな音を立ててフォークがテーブルの上を転がる。
「お出かけ?」サバクが聞いた。
「そうだ」
「どこに行くの? お爺ちゃんのところ?」
「もっと遠くだよ」
「どうして? 学校は?」モロコは眉をひそめた。
 なんとなくはわかっていた。あの音がお祭りの花火ではないことも、夜になるとパパとママが怖い顔をしてひそひそ話をしていることも、近所の人たちが急に車に荷物を積み込んで出かけていることも。
 ドーン。遠くで爆発音がまた響いた。
「ここにいると危ないの」ママはそう言ってモロコの手を優しく握る。
 モロコは頷いた。何かよくないことが起こっているのだ。
「それじゃ、今すぐに出よう。二人とも車に向かいなさい」
 そう言ってパパは立ち上がった。床に置いてあった黒い革製の大きなボストンバッグを両方の手で一つずつ持ち上げる。持ち上がる瞬間に、床がミシリと音を立てた。
「私の荷物はどうなるの?」
「何も持って行けないんだよ」
「だって教科書は? おでかけバッグは?」
 パパは静かに首を振った。
「マルコは?」
 ママがそっとモロコの肩に手を置いた。
「一つの家族で鞄が二つまでなの。あとは全部置いていかなきゃダメなの」
「だったらそのバッグに私のものも入れてよ。マルコを入れてよ」
 モロコが泣き始めた。
「僕の本も入れたい」サバクも大きな声を上げる。
「どうして全部置いていかなきゃダメなの?」
 マルコがいればどこへ行っても安心できるのに。いつもの旅行だってもっといろいろ持って行けるのに。
「いいか。二人とも、よく聞きなさい」
 ドドーン。
 近くで爆発音が響くのと同時に部屋が大きく揺れて、モロコの涙が引っ込んだ。
 素早く窓際に立ったパパは、外の様子を見てすぐにこちらを振り返る。
「ダメだ。もう時間がない。早く出るんだ」
 それまでの穏やかだった口調と打って変わって、あまりにもパパの声が荒かったので、モロコはお腹の底がギュッと痛くなるような気がした。
 サハラもびっくりしたのか、いきなり泣き始める。
「大丈夫。パパとママがいるから」ママは両腕でサハラを包み、体の向きを変えさせた。
「いきましょう」
 後ろから急かされるように階段を駆け降りて、ママと姉弟が車に乗り込んだ。パパはトランクを開けて、中に入っていたものをどんどん取り出しては後ろに投げ捨て、空になったトランクにボストンバッグを一つ無理やり押し込む。きれいな空色をしたフランス製の車は、小さくて可愛い代わりにたくさん荷物を載せることができない。
 ドドーン。また爆発音が響いた。今度はかなり近くだった。どこからか飛んできた小さな砂の欠片が車のフロントウインドウに当たってパチパチと音を立てた。
 運転席のママがエンジンを掛ける。ガラガラと回り始めたエンジンの音がしだいに低い低い唸り声となって車内を静かに満たしていく。
 ダン。
 助手席のドアが開かれ、パパがボストンバッグを座席に置いた。すぐにドアが閉められ、かわりに後部座席のドアが開く。
 パパが体を半分だけ車内へ乗り入れてきた。
「さあ、おいで」
 そう言ってパパはモロコをギュッと抱きしめた。そのまま手を伸ばしてサバクも一緒に抱きかかえる。
 ほっぺたに冷たいものを感じて、モロコはパパが泣いていることに気づいた。やっぱりよくないことが起きているんだ。なんだかすごく嫌な気がする。いつまでもこうして欲しかった。掃除ブラシのヒゲをずっとほっぺたに当てていたかった。モロコは自分も泣きそうになるのを何とか堪え、黙ったままパパにしがみついた。
「ママの言うことをよく聞くんだぞ」
 二人から顔を離したパパはそう言ってにっこりと微笑んだ。涙は流れていなかったけれども、真っ赤なウサギの目をしていた。
「パパは?」サバクが聞いた。
「パパはあとから行く」
「でも」
 さらに尋ねようとするモロコを遮って、パパは車から出るとゆっくりとドアを閉めた。ガチャと軽い金属の音がなる。
 ドドン。また爆発音が響いた。
 向かい側のアパートの裏手からもわっと黒い煙が上がった。焦げ臭い匂いが車の中にまで入り込んで来たのでモロコは思わず鼻を摘まむ。
 タンタンと二度、パパは運転席側の窓を叩き、ママに向かって頷いた。これまでモロコが一度も見たことのない表情をしている。ママも両手をハンドルに掛けたまま窓の外に向かって頷いたけれども、どんな顔をしていたのか、モロコには見えなかった。
 アパートの前のターンアラウンドを一度回ってから大通りに入ろうとしたところで、車が急に止まった。
「ねえ、あそこに誰か倒れているよ」サバクが窓から外を指差す。茶色のオーバーコートを着た人が荷物を背負ったまま道でゴロリと横になっている。顔は向こう側を向いているので誰かはわからないけれども、体つきや格好から、たぶんお婆さんだと思った。
「二人とも、これを被りなさい」
 ママが助手席のボストンバッグから小さなブランケットを二枚引っ張り出し、後ろの席に放り投げた。
「どうして?」
「いいから。ママがいいと言うまでそれを頭からずっと被っていなさい」
 ママの声がとても強張っていたので、二人は慌ててブランケットを頭から被った。何も見えなくなる。すぐに隣のブランケットの塊の下からサバクの寝息が聞こえ始めた。
「さあ、いきましょう」ママがきっぱりと言った。
「何があってもいきましょう」車が勢いよく走り出す。
 ドドドーン。パーン。
 後ろから大きな爆発音が聞こえてモロコは振り返った。ブランケットの隙間から目だけを出し、汚れたリアウインドウを透かして遠くを見る。
 ターンアラウンドから大通りに出たすぐのところにパパが立っていた。もうずいぶん小さくなって表情はわからないけれど、パパはずっと手を振っていた。

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