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福祉が抱えがちなジレンマ

他人との比較が起きやすい「福祉」の現場

「福祉」と言うと、困っている誰かを助けるイメージがある。

この分野に関わる人たちの中には、自分が優位に立てるからその仕事を選んでいるように見える人もいた。もちろんそんなことはおくびにも出さない。というか、わざわざ頭で認識している人はほとんどいない。けれど、障害者や高齢者という自分より弱い立場に置かれている人たちを「助ける」ことで、自然と自分の価値を見出したり社会参加している感覚を得たりと、いろいろ都合の良いことが起こる。だから気づかないうちに、自分が相手に比べて優れた人間になったかのような勘違いを起こしてしまうのだ。

そんな人たちを近くで眺め、おこがましくも「自分はそんなふうにならないんだ」と心に誓いを立てながら働いていた。
実際、私は就職した会社がたまたま福祉分野に関わる流れの中にいただけだったし、自分の何かを克服するために福祉業界で働いてきたわけじゃないし、前にも少し書いたがかわいそうな人を助けようとして働いているわけではない。と、自分では思っている。

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比較で浮き彫りになった自分の幸運さと、戸惑い

なんだかいろんな面でコンディションが良くなくて自分の意識が内に内にと向いていたとき、ふと「自分はこれ以上幸せにならなくていい」と潜在的に思っていることに気づいた。気づいた時点で顕在化しているので、もはや潜在意識ではなくなったのだけど。

これは大変だ、と思った。
「幸せにならなくていい」なんて、潜在であれ顕在であれ意識下で思っていたら、自分にとって新しい形の幸せが現実にやって来なくなってしまう。

この観念をじっくり見つめていったときに、自分の幸運さが浮き彫りになってしまったのが原因だとわかった。

仕事はもちろんプライベートでも、私が出会う人たちは、何らかの生きづらさや苦しさを抱えている人が多い。そして彼らの生きづらさは大抵、個人に降りかかった社会の闇そのものなのだ。私自身の悩みや怒りなど全てをひっくるめたブラックなあれこれなんて、ただの黒ゴマに見えてしまう。

だからと言って、出会う人たちに同情したいわけではない。幸福感や人生の経験について他人と比較するものではないと、わかってもいる。

けれど、タイミングよくノルウェー行きのビザを取得し、職場や友達にも応援され、コロナ禍を縫うようにしてノルウェーに来た、ラッキーな自分がいる。ノルウェーに来てからも出会いやチャンスに恵まれ、何か大きな心配をせずに暮らすことに集中していられる、自由な自分がいる。日々自分をご機嫌にしてニヤニヤしながら、自分のために時間を使うことができている。

比較するものではないけど、あれ?私はこんなに小さな幸せをたくさん感じている。だったらこれ以上何を求めるの?「足るを知る」のがいいんじゃない?自分。という声が、いつの間にか聞こえるようになってしまった。

この気づきを友達に話していたとき「普通は『隣の芝生は青く見える』というのが一般的だけど、その逆ってこと?...隣の芝生が青く見えるっていうのも、意外と健全なことなのかもしれないね。」と言われ、なるほど〜と思った。どっちが健全不健全ということでもないのはお互いわかっているのだけど。でもそうか、確かに一般的には人のことをうらやましく思う気持ちが大きくなることのほうが圧倒的に多いのだろう。

私だって他人がうらやましくないわけではない。隣が青く見えたり、ずるいとか、自分ももっとこうだったらいいのに、と思ったりする。

でも人はないものを欲しくなるものだし、ないものをねだってもしょうがないから、ならば今あるものをどう自分の幸せにつなげていくかにエネルギーを使いたいと思っているにすぎない。

もしかしたら元々の気質というか思考の癖というか、そういうものも関係あるのかもしれない。
言われてみれば、うらやましいと思う気持ちや物欲は、多分、人より弱い傾向にある。

不思議なことに、幼い頃から、暖かい布団で眠れるという事実にとてつもなく大きな幸せを感じる瞬間が、よくあった。本で読んだとかテレビで観たとか、どこかの誰かと比較するきっかけはあったのかもしれないが、ご飯をお腹いっぱい食べられることや思いっきり走れることに対する幸福感が、突然胸いっぱいに湧き上がる。なんだろう、これは。

今日はノルウェーで手に入れたダウンジャケットを着て散歩に出かけた。歩きながらダウンジャケットの中には鳥の羽がたくさん入っているんだなぁ…なんて考えたら「私、鳥さんが周りに来て温めてもらってるみた〜い…☺️」と、今は亡き鳥さんに対する感謝の気持ちでいっぱいになった。

鳥さんたちがモフモフと私を囲んでくれているメルヘンな想像が始まったことに自分で可笑しくなって、歩きながら笑ってしまったけど(恥)
私の頭の中は、割とこんな調子なのだ。

おそらく、さまざまな欲求が高度に満たされているからなんだと思う。やっぱり私は幸せであることは確かなんだろう。

でも今感じられていない種類の幸せもあるはずで、それを追求していけないことはない。
この「これ以上幸せにならなくていい」という思い込みを見つめ理解したところで、自分にとって今までなかった形の幸せも積極的に見つけたらいいよっていうサインなんだと思うことにした。

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「福祉」の現場で起こりがちな勘違い

話を戻すと「福祉」の現場で、他人との比較は往々にして起こる。
特に介助する側にとっては、ただ障害者や高齢者と共に過ごす空間にいるだけで、自ずと自分が「助ける」側になるからだ。

誰かの役に立つって、結構簡単に喜びを感じられる。ちょっと意地悪に考えると、近くに手助けを求める人がいる環境は、誰にとっても自分の存在意義を見出し、自分が優位に立つ絶好のチャンスになるのだ。

そんなチャンスが目の前にあるとしても、介助なしに生活していくことが難しい障害者や高齢者がいる「福祉」の現場では、介助が必要な人たち(A)が他人の手助けを必要としながら生きていることを、介助者(B)は前提として理解した上で、自分の中にある尊重の思いを目の前の人に対してどこまでも体現していく。仕事として「福祉」に関わる上で、この前提理解と他人を尊重し抜く意思を意識的に持っていないと、働く側は精神的にきつい気がする。

友達とか家族は、この点では関係ない。
相手が障害者とか高齢者とか、介助が必要な存在とか全く関係なく、普通に友達・家族として向き合うから。

でも関係性に関わらず、介助を必要とする人が魅力的な人だったら周りに助けてくれる人もたくさんいるかもしれないし、逆に他人が「この人とは一緒にいたくない」と思うような人だったら周りは自然に去っていく。

例えば。
介助が必要な人(A)のそばに常に介助者(B)いるのは、それが介助者(B)の仕事だからであり、その人(A)が人気者だからという理由ではない。(実際、人気者という場合もある。)この点においては、障害があるからどうこうという話ではない。

介助を必要とする側にとっても、他人との比較において自身の捉え方と現実のズレが起きやすいポイントである。

でもでも。人間はそう単純でもなく、よくも悪くも情が機能するので、Aにとってお気に入りのBがいたり、Bにとって介助しやすいAがいたりして、相性や情がうまく作用する。私だって介助する相手がこの人だからこうする、という瞬間はいくらでもある。
お互い(AとBの間で)情を交わさずに仕事の関係性だと割り切ってしまうばかりでは、うまくいかない。

だから相手に対して怒ってしまうとか、いわゆるケンカはある程度あって良いのだろう。
他人の人生に関わるって、そういうことだと思う。綺麗事だけでは済まない、お互いのブラックな部分や嫌な部分を見ながら、それでも見捨てないと決めて泥臭いやりとりを続けていく。その結果、最終的に離れると決める場合もある。

ちなみにこういったAとBの心理的なぶつかり合いや依存は「福祉」という文脈でなくても、常に起こる普遍的な人間関係である。介助者と被介助者、先輩と後輩、教師と生徒、親と子、夫婦、恋人同士、どんな関係性にも当てはまる。

しかし、他人の人生に関わる仕事は、AとBのせめぎ合いがあってこそ健全な関係性が成り立っていくような気がする。ここで言う「健全な関係性」とは、あくまで当事者(AとB)にとって相互依存のバランスが良く、心地良いという意味である。そして「福祉」という文脈では、とりわけこのバランスが物を言うように感じている。

では「福祉」の現場で、このバランスを保つにはどうしたらいいのか?
日々どんなことを念頭に置くのがいいだろうか?

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自分が幸せでなければ、誰のことも幸せにはできない

「自分のコップの水がいっぱいじゃないときに、他の誰かに与えようとしちゃいけないよ。」

疲弊気味の私に対して、いつもこんな言葉をかけてくれる友達がいる。
つまり自分が満たされていない状態で誰かのケアをしようとしないほうがいい、結果的に継続できるケアではなくなるし、自分も相手も疲弊して誰のためにもならないから、というのが友達の意図するところである。

上記の調子で私は「自分は満たされている、幸せである」と認識しやすいタチなので、初めのうちはあまりピンと来なかった。いやいや何を言ってるの、私は自分が満たされてるからこそ「福祉」の分野で仕事を続けて来られたんでしょ?

でも実際に仕事を続けて来られたのは、私が自分の状態を認識しようとしていなかったから。今になって、ようやく気づいた。
それに、社会人として働くことに慣れていたのもあるし、心理的なストレスを共有できる上司や同僚がいたことも大きい。だから当時は疲れる前になんとなく発散できていたのだと思う。

仕事として他人の人生に関わっていると、心を使うことが多く、心を使わずには仕事ができない一方で、いつの間にか疲れているという事態が発生する。

ノルウェーに来てから心を使う仕事そのものは減ったけれど、言語のわからない環境に身を置くのは、これまで以上に心を柔軟に使っていく必要があった。言語というツールをうまく使えない代わりに、毎日心をたくさん使って周りの言わんとすることを読み取ろうとし、常に意識を集中させる。それは生活そのものだから、仕事だ!と割り切ることはできない。これまでとは種類の違うエネルギーを使い続けていることに気づかないまま、ジワジワと疲れが溜まっていくのである。

心は見えない。だから「福祉」の現場でも、心を使って働こうとする人ほど疲弊していく。

だからと言って、機械的に作業だけをこなせばいいわけでもない。もしそれができるなら、介助・介護の担い手不足は解決しているんじゃないか。
AIや機械ではなく人間が、しかも心を使える人が「福祉」の現場には必要なのだ。

実際、現場には心を使って仕事をしたいという熱意と理想を持って挑戦してくる人が多いと思う。

一方で、本当は自分が疲弊している/心が満たされていないことに気づかないまま、他人に何か(介助)を与えようとしてしまう人も多い。簡単に自己犠牲できてしまう体質の人々。
受け取る側にとっては善意の押し付けのように感じられたり、何か重いものを渡されている感じになったりするから、たまったものではない。そんなものを受け取り続けていたら、精神的な健全さを失ってもおかしくない。こうして現場が崩れていく。

そう、だからやっぱり、自分のコップの水がいっぱいじゃないときに、他の誰かに与えようと力を入れて頑張っちゃいけない。

難しいのは、自分が満たされているのかどうか認識できていないときこそ、他人との比較大会が脳内で始まり、自分が用意した各種の出来レースで勝利する自分が、まるで相手より優れた人間になったかのような錯覚に陥ってしまうことだろう。

まぁ脳内大会は無意識に始まるものだから、仕方がないと言えば仕方がない。頭で紙雷管が鳴り響き比較大会が開催されたことに自分で気づけるかどうかが、肝な気もする。

〇〇支援、介助、サポート、お世話、子育て、総じてなんらかの手助けに相当する行いには、この心持ちが当てはまるのだと思う。なんらかの手助けに携わる人にこそ、意識的に日々の自己ケアや外部サポートが大切になってくる。

私も立場上、これからも意識して気をつけようと思う。
「自分のコップには今、どれくらいの量の水が溜まっているだろうか?脳内で比較大会は始まっていないだろうか…?」

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福祉とは何か?

ノルウェーの福祉の捉え方。
それは誰にでも関わるWell-being(ウェルビーイング・よりよく生きる)という考え方である。辞書的には「幸せ、幸福」。

福祉の概念に、保育も教育も特別支援教育も、医療も介護も、休暇制度も休暇中の給与保証も、移民統合も含まれる。

この感覚を言語化するのは難しくてうまくいかないのだが、今挙げたそれぞれが福祉と捉えられていることを、ノルウェーで生活する中で私は感じている。福祉が自分に関係のないことだとは思わないし、何か困ったときには自分の手に届くセーフティネットがあるんだという安心感がある。どんなときにどんな機関に相談に行けば良いか、大人はある程度わかっている。外国人の私でも、ちょっと調べたり聞いたりすればリーチできる感覚だ。

日本語でも辞書的には、福祉という言葉の定義は英語やノルウェー語と変わらない。というのも、元々は欧米から入ってきた概念だからそうなんだろう。

だけど、日本語だとやっぱり「生きる上での幸福」「誰も彼もにとってよりよく生きること」というイメージはないし、家族や身近に高齢者や障害者がいなければ、生活の中で「福祉」を意識することもほとんどないのではないか。
私も仕事があったから役所の福祉課と連絡を取っていたし、福祉制度についても少しずつ知ったり調べたりしたけど、普通に生活していたら知らないことばかりだった。障害者や高齢者が身近にいたとしても、そもそも制度があることを知らなかったり、制度の使い方がわからなくて結局使えなかったりするケースも多かった。

なんでだろう?なんだろう、この感覚の違い?

もしかしたら、日本の場合は「幸福」の定義・具体的根拠が見えないからなのかもしれない。

人間にとっての幸せってなぁに?というところ。
幸せの感じ方は人それぞれだけど、それでも人はどういうときに幸せを感じるものなのか。ノルウェーでは、そこに基づいてあらゆる制度をつくっている感じがする。

例えばノルウェーには「休暇って、人が幸せであるためには大切ですよね?」という前提がある。どんな状態だったら人が幸せを感じるかに基づいて「じゃあ休暇を取る権利、休暇期間を保証しましょう。休暇中のお金も出しましょう。」という具合に、具体的な制度がつくられているのを感じる。

「メンタルヘルスが保てていなければ、人は幸せを感じられませんよね?」
「健康でいることは幸せにつながりますよね?健康でいるためには、医療に誰でもアクセスできる安心感が必要ですね?」
「子どもを安心して預けられるところがあれば、仕事で幸せを感じられるチャンスも増えますね?」

「幸せが何か?」にフォーカスして築かれている社会ならば、国民の幸福度が上がるのも、ある意味当然の結果なんだと思う。もし幸福度が上がっていなかったら、それは政策の失敗を意味するから。(ただし、この幸福度というのも他国と比較したときに出てくる指標でありランキングなので、それにより政策が評価されているわけではもちろんない。)

日本が幸せにフォーカスしていないわけではないと思うけど、ノルウェーに比べればこういう姿勢は弱いんじゃないかという気がする。

日常的なレベルでの例を挙げると、趣味を聞かれて「自分のシュミってなんだ?」となる人が多い。

「あなたはどんなときに幸せを感じますか?何をするのが1番好きですか?」
自分にとっての幸せが何か、私はこれが好き!その時々で答えが違ったとしても、これを言えるのって、生きていく上で強みだと思う。

人間にとっての幸せって何だろう?
「これです!」って確定した答えが出ることは永遠にないけど、みんながみんな、それぞれの幸せを定義し、更新していければいいのだろう。
そうか、みんなの幸せが実現できる環境を整えることにフォーカスしている国を「福祉国家」と呼ぶのか。なるほど。今更ながら、すごい腑に落ちた。

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(もしかしたら)福祉国家のジレンマ

「福祉国家」は制度を整え、システム化するのが上手い。一旦制度が制定され社会システムの中に組み込まれてしまえば、その後政権や政策が変わったとしても、構築されたシステムはそう簡単に崩れない。賢い。

誰にでも手の届く、安心な社会システム。多くの人が感じるであろう「幸せ」に基づいてできたシステムは、理想的な反面、取りこぼしへの対策が弱い。

例えば、希少難病を発症した場合や、複合・重複障害がある場合、通常プロトコルに乗れないせいで支援対象から漏れる、本来受けられるはずの支援に行きつかないケースがあるようだ。
国外に行かないと治療できないケースもあると聞いた。(これは人口比率的に仕方がない部分もあり、一概に社会システムの影響が大きいとは言えない。他国に比べて人口が少なく、難病の場合、国内での症例がないこともある。故に医者などの専門家にも診断が下せない。診断が下せないと医者は診断書が書けず、患者は診断書がもらえないと特定の支援が受けられない...とセーフティネットから外れて埋もれていく。この点は日本でも全く同じことが起きている。)

福祉ではないが、私が銀行口座を開設するにあたって「例外にあたるから」と通常の何倍も時間がかかった話もシステムからの漏れに当たる。通常の手続きでうまくいかないとなると、担当者は「私たちにはそれ以上何もできない」と言い出し、困っている当事者は途端に誰に何を頼めばいいのかわからなくなってしまうのだ。

いくらシステムが整えられていても、システムに不具合が起きたとき、例外が発生したとき、最終的に手を差し伸べてくれるのは人。それもただの人ではなく、やっぱり心を使える人なんだと思う。

心を使える人を育てるって、どうしたらいいんだろう?
ノルウェーでは「自分を大切にする→他人を大切にする」ことを学ぶ教育はあるんだろうか?

また新たな興味が広がった。

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結局、私自身のジレンマ

福祉が抱えがちなジレンマとしてワラワラといろんなことを書いたけれど、結局のところ全部、私自身が悶々と抱え続けていることである。

でも「福祉」で働いている仲間は、少なからず私と同じように悶々とする瞬間があると知っているから、普段の思考を言語化してみることにした。

彼らに共感できる何かがあれば、仲間としてうれしい。そしてこれからも一緒に悶々としながらも、少しずつ前に進めたらいいなと思っている。

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