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うつ病と診断されて10年経ったけど、何か質問ある?

 初めまして。一応、肩書き上は、作編曲家障がい者福祉士フリーターです。(?)
 追記:すみません、軽く書こうと思っていたのですが、思い返すと止まらなくて、めちゃくちゃ長いので、読みたい方だけ読んでください。目次分けされてるので、読みたい方も「壁のシミの数を数えるくらい暇」ってタイミングに一気読みか、日にちを分けてお読みください。

注意
*こちらは『読めばうつ病が良くなる』などと謳ったハウツーのようなものではなく、一個人の経験を通した価値観、考え方のお話です。
正解なんて存在しないので、記載されたことを鵜呑みにするのではなく、そこから自身の考えで行動してください。
*少しでも気分が前を向けるように、と願って記載を心掛けますが、僕自身メンタル不安定で当たり付くような文面になっていたら申し訳ありません。


まずは自分の話を

 見切り発車で書き出したはいいけど、「何に苦しんで来た人?」「アナタ誰?」となってしまっては読む気も失せるかと思うので、ウザいなと思われる程度に自分の話をさせて頂こうと思います。
 文章力には自信があるので、暇潰しに短編小説でも読むようなお気持ちで読んで頂けたら幸いです。

次回からちゃんと「考え方」や、「深掘り」の話をしていきます。
尚、「書いてても時間だけ浪費するばかりで、むしろ書かなきゃって責任感で押し潰されそうになったら」やめます。

①15歳でうつ病と診断


 
まず「うつ病」、及び、「起立性調節障害」と診断されたのは、高校一年生、15歳の夏頃からだったと思います。
 中学までは普通…よりはしゃぐ側の人間でした。多分8割くらいの人が引くくらいには女生徒に嫌われるようなタイプでした。

 高校に入学後、周りは全員初対面、という環境で、ほぼ全員が「話し掛けたくても話し掛けられない」という空気感で、「はしゃぐスキル」を活かして、まずは男子生徒を全員まとめるポジションになりました。
 「大臣(当時の謎のあだ名)のお陰で友達できたよ」とマジ顔で言われたり、自主性のシステムの中で担任から「学級委員に指名」される程、全員から信頼も置けていたと自負しています。

『 お前の高校生活、順風満帆じゃん。自慢なんか聞きたくねぇんだよ。 』

 安心してください。
 これからアニメの様な転落人生の幕開けです。
 この「沢山の人から信頼を置いていた1ヶ月間」は、神様が与えてくれた転落前の最後の幸福だったのかも知れません。

②女の子から告白

 ゴールデンウィークが始まってすぐ、『1ヶ月で誰一人として省かれる生徒なく男子全員のLINEグループで、ほぼ毎日、全員が気兼ねなく話せる環境』を作ったところで、「クラスをまとめるには次は女子だな」と考えていた頃、あまり喋ったことのないクラスメートの女の子からLINEを聞かれました。

 いや、まあ僕は中学時代もモテていたんですけど、尻の青い僕の気分は有頂天でした。いや、モテてたんですけどね。
 いや、本当にモテてたんですよ。
 修学旅行の夜に「顔はいいけど彼氏にはしたくないよね」って言われるくらいルックスもそこそこだったし、吹奏楽部の10人以上の後輩から「第二ボタン欲しいって伝えてください」って同級生越しに嘘か本当か分からないけど伝えられるくらいにはモテてましたよ。
 いやマジでモテてたんだって。
 男みたいな女の子から「てめぇキモいんだよ!」って背後からドロップキックを受けるくらいボディタッチも許されていたし。
 モテすぎて卒業式後のファミレスでの打ち上げでは女の子のいない席でドリンクバー混ぜて遊ばされるくらいモテてましたあれ涙が。

 まあ、直接的に好意的に接せられたのが初めてで、有頂天でした。
 某男子LINEグループでも自慢して、「初彼女じゃん笑」とか、「まあ大臣ならおかしくない」という声も貰いました。
 LINE交換も束の間、「実はこの1ヶ月間、君のことを見ててかっこいいなって思ってて…」と、脈ありの言葉を。
 迷える子羊から「もうそれ告白でしょ」レベルのメッセージが来て、もう僕の高校生活は終わるのか?という程に浮かれていました。

 それから、「ちゃんと告白したいから、このゴールデンウィーク中のどこかでデートしたい」と言われ、デートすることになりました。
 出発前には、ママに「服変じゃない!?」と確認もしたし、慣れないワックスも意味あるのか?程度に付けて出発!

 なんか書くのが楽しくなってきて、出会い編が長すぎるとクレームが入りそうなので、もう少し割愛します。

 デートはお互い会話がずっと続き、普通に楽しくショッピングしました。
 その後、公園で告白を待っていたところ、振られました。

 いきなりの急展開!?
 だから割愛しない方が面白いって言ったのに~。

 理由は、「今日のデートを通じて、『恋人より友達』として接した方が今後楽しそうだから」という至極真っ当なもの。
 もう何も言い返す余地はありません。
 一人残された公園、120円で買ったカフェオレを片手に、男子グループから「おい、付き合えたのかー?」という煽りLINEに返信する気力もなく、謎の敗北感に打ちのめされながら、遊具で遊ぶ子供を眺めました。

 いやいや、僕の目的は「一人の女の子と付き合うこと」ではない。
 この男共と同じく、女の子の方も誰一人省かれる人なんて出さず、みんなをまとめたかったんじゃないか。
 これはむしろ、その計画において好機と言っていい。
 だって「友達として過ごすの楽しい」って言われたのだから。

 よし、と、缶を近くのゴミ箱に捨て、慣れない土地の駅へ向かう為、僕は前向きに帰路へと着き、男子グループにも「俺が振られた笑」と、女の子を傷付けないように返信したのを強く覚えています。

 あの時の僕は戦士でした。戦死した戦士でしたすみません。

③転落開始

 皆さんお待ちかね、転落の幕開けです。
 ゴールデンウィークを明け、「これからは女子たちとも打ち解けられるように頑張るぞ!」と意気込んで登校しました。

 登校後、僕は変な違和感に身体を強張らせました。
 男子グループが全員まとまったとは言え、当然複数のグループには分かれていました。
 僕は、入学後すぐにあった合宿で仲良くなった三人とよく行動していました。

 一人はサッカー部でワックスイケイケの陽キャ。
 一人はノリが良く家庭環境的にクソ真面目なツッコミ役。
 一人は僕と一緒のボケ役、筆箱を初日で忘れ、謎に筆ペンだけ持ち合わせていた隣の席の不思議男子。

 隣の席の不思議男子に挨拶すると、いつもの様に返しが。
 その光景を見るなり、少し後ろの席のツッコミ君は、僕たちの下へ来て、朝礼時間まで談笑に興じていました。
 違和感と言うのは、他の生徒たちからの『視線』でした。
 おふざけ役も担っていた僕は、登校後、扉を開けて全員に「おは~!」とか言うんですけど、いつもより返事が少なかったんですよね。
 五月病かな?と思いつつ、返事は少なかったのに、僕たち三人をジロジロと見る目線の数は異常でした。

 おふざけ役の僕は、授業中も「授業の妨げにならない程度に」先生も笑わせながらボケたりもしていました。
 それに先生がツッコみ、女生徒もみんなが笑いながら授業を受けている光景を見るのが凄く嬉しく感じていたのが印象深いです。
 「おふざけも大概にね」とは苦笑いで言われていましたが、新任の教師からは「盛り上げてくれて助かる」と言われていました。

 しかし、その日は、どんなにふざけても誰一人笑わず、先生も「おかしいな?」と感じつつ、普通に叱ることしか出来なかったと言っていました。

 それから毎日、どれだけふざけても、先生に焦点を当てても、誰一人クスリとも笑わず、女子は真顔、男子は申し訳なさそうに僕と目を合わせない様にする光景が、凄く胸に痛かったのを覚えています。

 先生からも普通にお叱りを受けるようになったが、既に止められなくなっていた僕のポジション、キャラクターから、『普通に授業妨害をする邪魔者』に格下げしてからすぐのことでした。

④ウワサ

「大臣のウワサ聞いたんだけど、アレ本当?」

 突如、人がほとんど来ないトイレ裏(外にあった場所)へ呼び出され、話し掛けられたのは、同じクラスの男子生徒で、斜め後ろの席、寡黙で真面目、男子グループで省かれる環境にしていなければ絶対浮いてただろ、という具合にはノリも悪く、ふざけると普通に真顔で指摘してくるような生徒でした。

「え、ウワサって何?」
「いや、大臣が〇〇さんに暴力を振るったって…」
「は? え? 暴力…?」
「やっぱり嘘だったんだ、あのウワサ。おかしいと思ってたんだけど、誰も聞きに行かないから」
「待って、それ、いつ聞いたの?」
「ゴールデンウィーク終わってから、クラスが大人しくなったじゃん? それから1週間後くらいに聞いた。俺もあまり人と接する方じゃないから、聞くのは遅い方だったと思うんだけど、別のクラスに同じ中学だった人がいて、

『お前のクラスに春木って奴いる? アイツやべーな笑 女の子に告白して振られたら殴ったんでしょ?笑』

 気付いた頃にはもう遅すぎました。
 だって、全く知らない他のクラスの人にまで行き届いている。
 一躍有名人でした。クズとして。

 廊下を歩けば、顔も知らない人から指を差され、少し接点のあった男子からは確認の嵐。てんてこまい。
 彼から話を聞いた僕は、早速LINEグループに尋ねました。

「〇〇くんからウワサの話聞いたんだけど、みんな知ってたの?」
「すぐ聞いたんだけど…ごめん、俺たちも陰口の的になりたくなくて…。大臣がそんなことしないのは俺たちは知ってるんだけど…」

 なんかイライラしてきたのでもう少し割愛していきます。
 まあここからは本当に綺麗な転落事項しかありません。

 その後、僕への陰口だったのですが、僕とずっと一緒にいたせいでウワサを聞くこともなく、陰口の対象になってしまっていたツッコミ役の彼は、自分が陰口を言われていると勘違いし、無事に不登校となりました。

 唯一、陰口と戦い、僕とずっと一緒にいてくれたのは、タスクと言う、筆ペンの不思議男子でした。
 でも、共に戦ってくれていた彼の好意も裏切り、僕もやるせなくなって無事に不登校になりました。

⑤不登校

 不登校になりました。と言いつつ、その期間は実は短く、僕の不登校期間はたったの2週間でした。

 タスクからの毎日「無理しなくてもいいからいつでも来いよ!」と、献身的なLINE。
 他の男子生徒も「俺たちは大臣のお陰で今があるのに、助けないでどうするんだ!」と活気付いてくれ、毎日励ましのLINEをくれました。
 でも、引きこもる僕の頭に渦巻くのは、「お前らウワサに対して何もしなかったじゃん」。
 所謂、人間不信に陥っていたのか、中学の同級生にもそのウワサは伝わっており、弁明も面倒臭く、LINEも全て削除しました。
(人間関係とか全部消すやつ、リセット症候群って言うんだっけ?)

 そんな中で、僕の気持ちを変えたのは、同じく学級委員だった女子生徒でした。

 ある時、朝食中に母親から話がありました。(母親には全て話し、不登校になっていることも了承済み)

「今朝、担任の先生から連絡があって、春木が学校来れるようになるまで代理の学級委員を立てたいらしいんだけどいいわよね?」
「もう学校行かないし。代理じゃなくて普通に新しくしてって伝えて」
「そうよね。ただなんかね、同じクラスの学級委員に〇〇さんって女の子いる?」
「あー、なんか、喉の調子が悪い日が多くて、俺が代わりに号令とか請け負うこと多かった印象の子だな」
「その子が、『春木が来るまで他に学級委員は作らないで欲しい』って、担任の先生に言って聞かないらしいのよね。私一人で頑張りたいし、代理を立てたら、本当に来辛いと思うからって…」
「え…? 〇〇さんが…? だって、ほとんど話したことないし…」

 混乱。
 可愛らしくはあるけど、どちらかと言うと静か目の子で、おふざけ役の僕的には日常会話がし辛く、話すとしたら学級委員関連のみ。
『そんな子がどうして俺を庇うんだ…?』

 そんな、混乱した頭に漬け込み、母は続けました。

「朝礼終わった時間ね。朝礼終わったら担任の先生と電話する約束してるんだけど、春木がよければ、担任の先生が直接話したいって。もちろん、無理しなくていいけど、どうする?」

 当然、答えは OK です。
 何故なら、「なんでそんなことになっているのか、原因の究明をしなければ、僕の心は休まることが無いし、真実であるならば、僕はその子にずっと迷惑を掛け続けることになるから」です。

「あ、春木くん? 担任の〇〇です」
「あ、お久しぶりです…。母から話は聞いたんですけど、〇〇さんはどうしてそんなことを言っているんですか…? 僕のことはいいので、代理の学級委員を立ててください。最後の方では普通に授業妨害する生徒になっていたし、これ以上迷惑なんて掛けられません」

 と言うより、もう僕に関わって欲しくない、という気持ちの方が強かったと思います。

「春木くんならそう言うと思ったからね、先生からも同じように伝えたんだけど、『春木くんから何を言われても、私は曲げません』って返されちゃってね…。あの子、持病で喉も悪いから、私もどうしたらいいか分からなくて…。遅刻もなんでも大丈夫だから、あの子の為にも来てあげられない…?」

 どういうことだ? 何が起こっている…?
 そんな困惑する脳とは裏腹に、溢れ出ていたのは涙でした。

 喉が悪そうなのは感じていたけど、持病だったとは。
 保護者からも学級委員が決まった時に重々注意するよう言われているらしく、悪化しかねない話もその時に聞きました。

 今、考えてみれば脅しみたいですが、そんなことよりも、僕の頭を占めていたのは、『あまり話したこともないのに、未だ自分を信じてくれて一緒に戦ってくれようとする女の子もいる』という事実でした。

 そこからは早かったです。

「先生、すみません。今日から行きます、学校。〇〇さんにも伝えてください」
「え…。来て欲しいって話したのは先生だけど、無理はさせたくはないの。ごめんなさい、こんな言い方になってしまって…」

 当時の担任の先生も、確か三年目とかの新任の方でした。

「いや、目が覚めました。周りが見えなくなっていました。タスクもずっと一緒に戦ってくれていたのに無視をしていたし、〇〇を不登校にしたのも、遠回しに僕のせいでした。自分で責任を取らせてください」

 母も驚きの顔で僕の言葉を見ていました。
 でも、僕ももうアドレナリンがドバドバでした。

「そういうことで、行ってくるから。ごめん、不登校。心配かけて」
「いや…いいけど…無理はしないでね…」

 確かこんな感じでした。
 アドレナリンに任せて動いていたので、ここら辺の記憶は曖昧です。
 勢い任せにザッと支度し、タスクには「今日行く」と連絡し、僕は遅刻して人の少なくなった電車に乗り込みました。

 しかし、電車に揺られながら、やはり怖くなり脈打つ心臓。
 今現在、不登校で苦しむ子は、こんな無理はしないでね。

 学校に辿り着き、「嫌だ」と言う二文字が一生脳から離れない中で、それでも足を前に、ゆっくり、本当にゆっくり、一歩、一歩と踏み出しました。
 教室を前に立ち止まり、開けるのが本当に怖かったです。

 今は授業中、なんの授業だったか、先生は誰だったか、誰にしろ何か話さなければいけない、何を話せばいい、どんな反応をされる、クラスメートには何を思われる、俺は、本当に来るべきだったのか?

 パンクしそうな頭、いつまでも開けられない扉、巡り続ける疑問、聞こえてしまいそうな心臓の音って本当にあるんですね。アニメの中だけだと思っていました。

 そんな僕の巡り続ける脳を止めたのは、授業中なのにきっと目を盗んで送ってくれたのだろう、タスクからのLINEでした。

『俺がなんとかするから、お前はいつも通り入って来い』

 ぷつりと思考が止まって、恐怖心はあれど、笑みが零れました。
「なんとかするって…なんだよ…w」

 そして、次に浮かんできたものは、「〇〇さんの為に来たんだ」「俺には味方がいるんだ」「俺がいない時もずっと、戦ってくれていた」。

 ハハッ、なってやろうじゃねぇか、悪役。

 もう考えるのはいいや。学校に行けなくなるなんて体験をした。
 未来なんてなかったはずだ。もうどうなってもいい。

 ガバッ! 扉を開け、一声。

「 おはざーす!!!! 」

 とても不登校だった人間の第一声とは思えない大声での一声。
 担当の先生も目を丸くしていました。
 もちろん、全くいつも通りではない入場をした僕に対し、なんとかすると言ったタスクも、笑いながら僕のことを見ていました。

 何事もなかったかのように後ろを通り、自分の席、一番前の席に着席。
 みんな何も言わず、先生から何か言われることもなく、授業続行。
 タスクからは「お前wwwアホかよwww」と言われました。

「お前は、こんなアホを救おうとしたんだ。これからはアホみたいに戦っていくから、覚悟しろよ」

 そう笑って返してやりました。
 一粒だけ、涙を落としてくれていたのを覚えています。
 担当の先生は、僕に「盛り上げてくれてありがとう」と伝えていた先生で、そんなやり取りを注意することはありませんでした。

⑥うつ病と診断

 学校に行けるようになりましたが、当然、僕は陰口の的。
 しかし、覚悟していた分、味方が側にいる安心感から、むしろ標的を他に移さないようにと、「何見てんだ、アァ!?」とか返せました。
 中学の頃、どのグループにも属さず、カーストなんて言葉すら聞いたことがなく、不良連中とも付き合いがあった甲斐がありました。

 しかし、登校も順調…では、ありませんでした。
 朝起きると、吐き気に襲われるようになっていました。

 当時、アドレナリンだけで行動し、中二病末期だった僕は、「クッ…これが無理をした代償か…。屈してやるものか…!」とか考えていたのですが、起き上がるとその不快感は増し、「本当に気持ちの問題か…?」と思う程、立っていられず、立ち眩み、嘔吐、そんな中で、遅刻しても行く姿勢だけは見せていました。

 学校には行ける。俺はもう戦える。なのに、心の奥底ではやっぱり行きたくないのか…?

 そして、遅刻癖を見兼ねた母親から言及されました。

「無理しなくていいのよ…。心配なんだから…」
「いや…行きたいとは思ってるんだけど…本当に気持ち悪くて…」

 しかし、『気持ち悪い』を信じてくれる人は誰一人おらず、僕がやはり陰口に怯えて言い訳をしているものだと思われていました。

 よく言うやつです。「誰も信じてくれない」。
 ” 本人にしか分からない "
 本当に、無責任な言葉ですよね。

 でも、僕の訴えを信じてくれた人が一人だけいました。
 それが、当時の担任の先生でした。
 母と話し、僕は精神科へ受診することとなりました。

「うつ病と、吐き気は起立性調節障害から来るものでしょう」

 初めて『うつ病』『精神疾患』を知った瞬間でした。
 そんな『心の病気』と言うものがあったのか…。

 しかし、福祉士の母は、自分の息子がそんな病気になってしまったことを受け入れられず、頑なに『サボり』だと信じようとしていました。

 ここまでが、前フリです。
 ここまでお読み頂いてありがとうございました。

⑦問題は過去

 問題視すべきは、『うつ病と診断されたこと』でも、『原因が女子による陰口』でもありません。

 それから、通院することになったのですが、『何かストレスに感じてきた経験はありますか?』と、医師からの質問。

 ストレス…?
 えー…今回の陰口の件しか思い浮かばないな…。
 中学までは結構自由にしてたし、それなりに迷惑かけてきた。
 塾に通っていた頃、うるさくし過ぎて全く別のクラス・学年の生徒からクレームが入るくらいにはふざけて来たし…女子のおっぱいをツンツンして先生が家に来て学校全体の問題になったことすらあったしな…。

 と、赤裸々に恥ずかしい過去を話せるほど、思い当たる節がない。

 しかし、「あー、そう言えば」

「父に反発して家出した時に、友達の家でボコボコにされて、鼻の骨が折れたことがあったんですよ。でも、未成年への顔への暴行は犯罪に当たるからって、転んだことになったんですよね。アレは辛かったなー。マジで〇してやろうかと思って、包丁手元にあった時は自分が怖かったです(笑)」

 そして、医師は静かに僕の目を見つめました。

『 それ、かなり異常なことですよ? 』

『 え? どのご家庭も教育なんてこんなもんでしょ? むしろ僕は好き勝手やってきたし、緩い方だと思うんですけど…。 』

『 ちょっと待ってください。君が今まで、保護者さんにされた経験で、外傷を負わされた経験や、今でも思い出してしまうような辛かったことはありませんか? 』

  • 僕の意志で始めたものも多かったですけど、小学生の頃は週6で習い事があって、もっと遊びたかったなー。

  • あ、小学生の頃は100点以外取らないと説教されてましたね。お陰で、割と勉強しなくても点は取れる方なんですよ。

  • 母が仕事で忙しくて、教育はほぼ祖父母だったんですけど、門限に帰れなくて、虫の多く、汚い倉庫に一夜、散々泣いて、朝やっと出されて正座で説教。母に心配かけないように内緒にしろって言われてました。

  • 祖母は暴力を振るう人じゃなかったんですけど、親戚が多くて、孫の代がよく比較されるんですけど、「要らない」って電話越しで言われてから、頑張る気力とか、色々失くした気がします。

  • 取り合えず何かあったら暴力。でも僕もヤンチャだったんで、やり返すこともしばしばあったんですけど、やり返したりしたら、今度は暴力ではなく、パンイチで縄で結ばれてベランダに出されたのはトラウマですね。

  • ゲームをし過ぎると、もちろん基本は没収だったんですけど、喧嘩がヒートアップすると投げて壊されましたね。

  • 小学4年生の頃に、ずっと単身赴任だった父と一緒に暮らすことになって凄く嬉しかったんですけど、二人の兄妹を育てた祖父と違って加減が出来ない不器用な人で、叱られる度に暴力・痣。今でも父から「引っ叩くぞ」って言われると、その言葉だけで泣きそうになります。

 と、「どこもこんなもんですよね?」と、こんなのストレスの内に入らないですよ、と笑いながら話していると、医師の表情は曇って行きました。

『 うつ病のキッカケは確かに学校でのイジメかも知れませんが、原因は保護者さんかも知れません。その教育の受け方はかなり異常です。 』

 そこで初めて知りました。僕の家庭事情は異常だったのだと。
 同時に、その言葉を幕切りに、色んな感情が憎悪へと変わりました。

  • そう言えば、母は一度浮気していたことがあったな。大人の事情かと思っていたけど、普通おかしいよな。

  • 父とサッカー? キャッチボール? ふざけるな、思い返してみれば暴力を受けた記憶しかないぞ。

  • 単身赴任で母子を食わす為に頑張ってくれていたって尊敬していたのに。

  • 母は福祉士で、自分の施設に来た生徒はみんな息子って、寂しかったけどそんなところを尊敬していたのに。

 そう言えば、俺は両親から何をしてもらった?

 教育はほとんど祖父母に任せ、その内情も知らない。
 教えるなってのも今考えてみればおかしかった。

 あれ? 俺は愛されていた訳ではなくて、祖父母からしたら比較する時の道具でしかなくて、両親からしたら、何?

 そう言えば、浮気相手にも会ったことあったけど、「君のママとちゅっちゅしてごめんね。大人には色々あるんだよ」って、色々ってなんだ?
 母からは、死に別れた奥さんの代わりに話を聞いてあげてるって聞いてたけど、理由付けてクズな自分を正当化してるだけだったのか。

 そうして、暗闇に支配された僕が決めたことは、復讐。

 叱られる度に返した言葉は、「間違えてるお前らに正されることなんて何もねぇんだよ。次俺に指示したら指の骨折るからな。あと、祖父母には俺に近付くなと言っておけ。いつ病院送りにするか分からない」。

 実際、それからは今まで受けて来たものを全て返すかのように、僕は両親を両親とは思わず、暴力で返す日々が始まりました。

 転落人生 第2シーズン 復讐編 の始まりです。

 もちろん、始まりません。
 もう大学生が提出できるレポート級に書いた気がする。

⑧最後に

 暴力劇開幕! という、カスみたいな人生が幕を開ける訳ですが、10年足掻いた結果、未だにうつ病真っ只中、お先真っ暗です。

 ただ、両親とは様々なことが和解し、母の浮気に関しても訂正します。
 僕の父と僕に何かされたくなければ言うことを聞け、と、脅され、母はイヤイヤと守ってくれたそうで、証拠もちゃんと見ました。

 冒頭に、障がい者福祉士と名乗りましたが、今では「体調のいい時だけ」母の職場のお手伝いに行ったり、イベントがあれば弾き語りライブを行ったりしています。
 父も、あれからすぐに更生?反省?自分の過ちを謝罪し、僕が過去の教育が原因で疾患者になったと知ってから、一度も暴力、及び叱られたことはありません。
 祖父母の時代は暴力の時代だったから、仕方ない、で済ませてしまうのは虚しいですが、母は祖父母(自分の両親)を責めることだけは止めて欲しいと、うつ病になったことは伏せていました。
 二十代も中盤頃に、一度何かあって祖父母を責めたことがありましたが、もう時既に遅く、ボケで全て忘れていて、いい記憶しか残っていませんでした。
 その時はやるせなくて責めてしまいましたが、今では祖母を送迎したり、祖父にも祖母にも優しく接しています。金くれるから。

 二十代で職もなく、音楽に縋りつき、友人も指折りで数えられる人数になり、母に真面目に「死んでもいいか」相談しました。
 「嫌だ」と切り捨てるのは無責任だ。向き合って、検討して欲しい。と、話したところ、考えてみる、と言われましたが、まあ生きてます。

うつ病と診断されて10年経ったけど、何か質問ある?

 この十年で診断書に移せるものがどれか分からないですが、診断を受けたものを箇条書きで載せていきます。

  • うつ病

  • 起立性調節障害

  • 自律神経失調症

  • 嘔吐症

  • パニック障害

  • 間欠性爆発性障害

  • 心因性失声症

  • 乖離性障害

  • 人格障害

 ここにつらつらと診断された病名を記載したのは、僕個人として、こんな名前はどうでもいいと思っているからです。
 少しだけメッセージ性のある話をしますが、『今起きていること』以外で悩む必要なんてないと知りました。

 チェンソーマンのデンジくんも、「シリアスなこと考えなくてもいいか。楽しくないこと考えても楽しくないだけ」と言っていましたが、当時、色んなことをぐるぐる考えてしまう僕は、その単純でシンプルな一言に強く感銘を受けました。

 今現在、気持ちとしては、母に生きて欲しいと言われたので生きてます。
 頑張って生きようとしている人や、生きたくても生きられない人に対して失礼だ、不謹慎。僕もそう思いますけど、僕はどちらかと言えば、死にたいけど死ねない人の味方なので、普通に受け流します。

 通院先も転々とし、7年経った頃にようやく合う通院先になりました。
 薬は応急処理みたいなものしか頂いていません。
 医師の言うことはキチンと聞き、薬もODしたりはしていません。
 朝の吐き気は未だに健在ですが、対処法が分かり、寝起き30分ほどで気持ち悪さは拭えるようになりました。
 一度だけ、15万払ってお祓いしてもらった翌日の朝だけは吐き気がなかったので、霊障?かと思ったけど、すぐにぶり返したし、窓ガラスも知らない内に割れていたので乗り込もうかと思いました。

 祖父母の悲しい顔は普通に見たくないけど、金って考えてないとどうにかなりそうなので、金の為に優しくしていると言い聞かせています。
 父・母には、お小遣いを貰えないと、作曲も何も出来なくなるので、心配を掛けないように程々に暴力政治で訴えています。

 自分に都合の悪いことは受け流しますので、好きにコメントください。
 闘病11年目です。こんな人間に育ちました。よろしくお願いします。

 皆さんは、無理しないでください。
 とか言っても、何が無理かも分からないので、取り合えず生きてみてください。
 僕以上のクズではないのだから、アナタはきっと生きていていい。

 有名人ではないのですが、少しだけマニアな方からファンになって頂ける程度には再生回数が伸びた曲を宣伝しておきます。

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