インタビュー「〝逆境の壁〟を楽しみながら、国境も言語も越え、自分自身を生きていく」福地祐介(俳優)
各国を飛び回る多忙な日々
――主演された王育麟監督の新作台湾映画『動物感傷の清晨』(2023年公開)が北欧の国際映画祭にノミネートされて、昨年(2022年)11月には現地にも行かれたそうですね。
福地 エストニアの国際映画祭でワールドプレミア兼コンペティション部門に唯一の台湾作品としてノミネートいただき、首都タリンに1週間ほど滞在しました。
各国から大勢の映画人が来ていて、個人的にもイスラエルやスペイン、インド、フィリピンの素晴らしい監督さんたちと知り合うことができました。
――この7月からは、やはり主要キャストを務めるシンガポールのドラマ『Last Madame / Sisters Of The Night』の配信が始まりました。こちらはセリフがすべて英語です。
福地 コロナが落ち着いてきて、少しずつ忙しい日々が戻ってきました。拠点を海外に移してもう10年余り経ちますが、僕は1月1日が誕生日でもあり、年末年始は必ず日本に戻って家族や友人と過ごしてきたんですよ。
ただ、今年は年末に続いて1月2日から台湾のドラマ撮影が入っていたので、元日の便で台北に戻り、そのまま新幹線で台南に移動しました。
シンガポールのドラマは、過去にも何度か出演してきました。今回のシリーズは2月から3月にシンガポール国内で撮影をしたあと、4月上旬までマレーシアで3週間ロケをして、またシンガポールのセットに戻って撮影という日程でした。
そのあとは台湾のドラマ撮影でしばらくホテル暮らしが続き、6月は撮影でアメリカ西海岸、アラスカ、ニューヨークを回りました。なので、この半年以上、台北の家にはほとんどいなかったような感じです。
――そんな中、7月4日には自伝的エッセイ『逆境快楽』を台湾で出されましたね。早速、新刊のベストセラーとしてトップ10入りを果たされたようで、現地の大学、高校などで講演もなさったとうかがいました。
『逆境快楽』という書名は、中国語だと〝逆境を楽しめ〟とか〝逆境は楽しい〟というニュアンスになるんでしょうか。
福地 自分の未来に向かって何か夢を抱き、いざそこに向かって進もうとすると、当然のように「それは無理だ」という周囲の声があったり、実際に無理だとしか思えないような壁が立ちはだかってきたりします。
たとえ100人のうち99人が「不可能だ」と言っても、自分の人生ですから。自分がそれをやりたいという譲れない信念があるなら、覚悟を持って挑むべきだと思うんですね。
この本は、僕の人生の原点になった留学時代のエピソードから、これまでの俳優としての挑戦の日々を、今度は次の誰かにも伝えられたらという思いもあって書き綴りました。
ものすごく分厚い本です(笑)。4年かけて日本語で13万字あまり書いたものを自分で中国語に翻訳し、台湾のネイティブの方に校正していただきました。
これから留学しようと志している19歳、20歳という人たちに向けて講演のオファーをいただいた際に、その足で書店に向かい買ってくださった方たちもいました。出版社は全体の部数が気になるでしょうが、僕の中ではこういう1人に届くという手応えが、やはりとても嬉しいんです。
――この夏からは台中にある大手デパートでアート作品の個展も開催中ですね。
福地 僕は高校まで栃木の足利で過ごしました。父の影響で野球を始め、『SLUM DUNK』世代なので中学・高校はバスケットをやっていました。
一方で、母が文化服装学院卒で子ども服のデザイナーをやっていたこともあったりして、幼い頃から絵を描くのが好きだったんです。とくに絵の上手かった母方の祖父からはとても大きな影響を受けました。
本気でスタジオジブリのアニメーターになりたいと思って、高校1年生の時に絵を持ってジブリに押しかけたくらいです。「あなたみたいな人が月に10人ほど来る」と門前払いされましたけど(笑)。
俳優になって以降も、仕事の合間に誰に見せるつもりもなく好きで描いてきた作品がずいぶんあるんです。
人生の転機になった〝5分〟
――大学時代のアメリカでの旅が人生の転機になったとうかがいました。
福地 留学プログラムがあったので、法政大学の国際文化学部に入りました。2年生の後期に半年余り、提携校への留学ができるんです。僕が選んだのはカリフォルニア大学デイビス校でした。
19歳の夏に出発して翌年2月の帰国ですから、1月1日生まれの僕は地元での成人式に出られないことがわかっていたんですね。
じゃあ自分で記念となる何かをしようと、アムトラック(全米鉄道旅客公社)で何日もかけてアメリカ大陸を横断し、ニューヨークのタイムズ・スクエアで20歳の誕生日を迎えることに決めたんです。
列車にはガラス張りの展望車両があって、その先が食堂車でした。4人掛けのテーブルに順番で通されるので、必ず見知らぬ誰かと相席で食事をするわけです。
この留学で英語を上達させようと決めていたので、3食を毎回、食堂車で誰かと摂ることを自分に課しました。あとは展望車で現地の方と話をしたり。
とはいえ乗客はクリスマスをどこかで過ごす現地の方ばかりです。僕はまだそこまで英語が上達していないので、わからない話題には何とか笑顔を保ちながらも頑張って食らいつき会話に入っていきました。
3度の食事のたびに必死で会話するのは、回を増すごとに相当に疲れました。
その日も食堂車を出て、ヘトヘトになって展望車の片隅に座りました。車内は僕だけです。いつもは誰かが来るのを待って会話の機会を探すのですが、もう今日はやめて自分の席に戻りたいと思ったんです。
ただ、留学中の期間すべてを目的に向かって精一杯過ごそうと決めていたもう1人の自分から「本当にそれでいいのかい?」という声が絶えず胸の中に込み上げてきます。
それで、5分だけここに座り続けることで自分と折り合いをつけました。5分経って誰も来なかったら席に戻ろうと。
すると、アメリカ人の家族連れが展望車に入ってきました。お母さんと娘さんが僕のそばに座って、むこうから僕に話しかけてきてくれたんです。
僕が留学生であることがわかると、一家全員が僕のところに集まってきてくれて。自分たちはクリスマス休暇を過ごして、コロラドの家に帰るところなんだと。
お父さんが僕に「ほら見てごらん。これがコロラド川だよ」と。そして、高い空を舞っている鳥を指して「あれはコロラド鷲だ。滅多に見られないコロラド鷲に出会うなんて、君は幸運だね」と教えてくれました。
その一家とは1時間ほど温かい素敵な時間を過ごさせていただきました。次の駅で降車する一家を見送って自分の席に戻り外を眺めながら、僕は自分の人生が〝分岐した〟と感じたんです。
あの時に5分居続けることを選択したことで、その後の1時間が変わった。見知らぬ家族と仲良くなり、いろんなことを教えてもらい、今見ているこのコロラドの景色についていろいろなことを知っている自分になって、今ここに座っているわけです。
じゃあ1時間何かを選択して変えたら、1日何かを変えたら、1カ月何かを変えたら、これって人生が変わっていくんだと思いました。自分の未来は自分で作っていけるんだと。
どんなに些細に思えることも軽視しないで行動する。これが今も僕が大事にしている信条です。その一見なんでもなさそうに見える小さなことの中に、大いに未来が拓ける可能性があると知っているからです。
じつは『逆境快楽』には「SOUL ACT1ON」という英語の副題を入れました。自分の中の深いところが発する声、〝魂〟の声に耳を澄ませて行動に移していく。僕はずっとそうやって今日まで生きてきた実感があります。
そして、ちょっとこだわってACTIONの〝I〟の字をあえて数字の〝1〟に置き換えています。なにごとも最初の小さな「1」が大事で、そこから必ず人生は動いていくんだという思いを込めました。
上海に届けた荷物の中身
――その後、モデル事務所に入り、数年はロンドンと東京を往復しながらお仕事をされますね。
福地 留学から帰ってくると3年生で、周囲は就活のOB訪問とか始めていましたけど、もう僕は留学中に〝表現する仕事〟に就こうと決めていたので、都内のモデル事務所に所属しました。
第2外国語のフランス語を真剣に勉強し直したのもこの時期です。
そして、右も左もわからないまま、最初にオーディションで受かった仕事がフランス版『VOGUE』とイギリスの『AnOther Magazine』だったんです。
荒木経惟さんに撮っていただいた『VOGUE』では誌面に載らずに悔しい思いをしたんですが、池袋の書店の洋書コーナーで開いた『AnOther Magazine』を見て驚きました。見たこともない自分が写っていたからです。
それで、もうイギリスで仕事をするんだと決めて卒業旅行はロンドンに行き、奇跡的に現地のエージェントと契約まですることができました。
しかも最初にロンドンで受かった仕事がPUMAの2006年世界キャンペーンだったんです。卒業式だけ帰国して、すぐロンドンに戻って撮影に入りました。
――福地さんの〝SOUL ACT1ON〟が、もうこのあたりから本領を発揮していきますね。今では台湾やシンガポールのネイティブ役も中国語で出演されていますが、中国語を勉強し始めたのは意外にも20代後半に入ってからだとか。
福地 モデル時代、日本では映画やドラマの仕事も少しずつ経験させてもらっていました。
20代半ばでロンドンから戻って、本格的に国を問わず俳優として仕事をしたいと思ったんです。その時期に触れたアジア圏の映画でとても素敵だなと思う俳優の方々に中国語圏の方が多かったんですね。
当時、ウォン・カーウァイとか素晴らしい監督の作品をたくさん見ていましたから。しかも調べていくと、北京の中央戯劇學院出身の俳優・監督が多くいました。
物価の高いロンドンから帰国したばかりで、東京でのアルバイトを探していたところ、バイト情報誌に「中国語を勉強したい人におすすめ」とあった千葉のパソコン修理会社を見つけました。
まだiPhoneが発売される前でしたので、海外から日本との連絡に欠かせないノートパソコンを自分で直せるのは役立ちますし、なによりそこでは中国からの留学生が大勢バイトしていたんです。
昼休みに彼らと会話をし、終業後は地元の駅前のカフェで毎晩遅くまで中国語のテキストを開きました。
ある日、修理会社の社長から上海への出張を頼まれました。ちょうど上海万博が開催されていた時で、2、3日ゆっくりしてきていいぞと言われたんです。
以前、中国での仕事の経験がある日本人の録音技師さんと、とある日本のドラマの撮影現場で知り合っていたので、出発前に連絡していろいろお話を聞きました。
その方から、上海にいる女性プロデューサーに持って行ってほしいと小さな荷物を託されました。出張の用務が終わったあとこのプロデューサーさんを訪ねて、当時片言も言えないほどの中国語を介して預かってきたものをお渡ししました。
その後、僕はバイトで貯めたお金で北京の中央戯劇學院に8カ月留学します。そこで台湾のエージェントと出会い、2011年に台湾に引っ越すことになりました。
少しして日中合作映画『スイートハート・チョコレート』への出演オファーをいただきました。監督は以前にお仕事をさせていただいていた篠原哲雄監督。
当初は、ある登場人物の成人後の役柄でオファーをいただいていました。ところが話が巡りに巡って、蓋を開けるとリン・チーリンさん、池内博之さんと共に主演の1人として出演させていただける機会に恵まれたんです。
それに伴い、すぐに顔合わせのためにパスポートと荷物を持って東京に飛ぶように言われました。
その東京の顔合わせ会場に、中国側のプロデューサーが到着しました。その方というのがなんと、さっきお話した、僕が上海でお会いしたミシェル・ミーさんだったんです。しかも、彼女を案内してきたのは、僕にお使いを頼んだ録音技師さんでした。
そして、あの時に僕が預かってミシェル・ミーさんに渡したものこそ、この『スイートハート・チョコレート』の初期段階の企画書だったというんですよ。
――日中関係が最も冷え込んだ時期でしたが、同作は中国で2013年11月に公開され、いきなり興行ランキング第9位を記録しましたね。音楽は久石譲さんです。
福地 この仕事を機にリン・チーリンさんとも親しくさせていただき、『逆境快楽』には「推薦序文」を直筆で寄せてくださいました。
世界で勝負するということ
――国境を越え、言語を越え、さまざまな国の人間を演じるようになって、ご自身のアイデンティティはどんなふうに変化しましたか。
福地 これまでの経験から、国籍とか常識とか、さらに言えば年齢とか性別とか、そういう自分をカテゴライズするような意味での社会に存在しているアイデンティティが、あまり興味の対象ではなくなってしまいました。
僕は「福地祐介」という人間であり、「福地祐介」以外の誰でもない。
体も役柄に応じて作り変えます。アスリートのように筋肉をつけたり、逆に今回の『動物感傷の清晨』では3カ月かけて筋肉も含めて減量し痩せさせました。
じつは、6月のアメリカでの撮影中は『逆境快楽』の入稿の大詰めでした。毎日撮影が終わってから、ちょうど昼夜が逆転する12時間の時差がある台北の出版社とやりとりしていました。
最後の原稿チェックはニューヨークのタイムズ・スクエアで、夕方4時頃、たまたま携帯を充電させてもらいに入ったバーカウンターでコーヒーを飲みながら書き終えたんです。
しかも、書籍全体の最終チェックであった、20歳の誕生日を迎えるためにタイムズ・スクエアに行った時のチャプターの最終チェックを、そのタイムズ・スクエアの席で終えたんです。
原稿を書き終えて、20年前に誕生日を祝った場所まで記憶をたどりながら歩いて行きました。思いがけないシンクロに感動しながら「あの時、自分が思い描いた未来に、俺はいるぞ」と思いました。
嬉しかったのは、当時の僕が抱いた熱意よりも、今の僕のほうがそれ以上の熱を持ってこの場に立てているぞという実感があったことです。今の僕はメインキャストとして撮影に臨むためにアメリカの地を訪れていましたから。
漠然とモデルや俳優に憧れながらも何者でもなかった20年前の自分に、「おまえ、大丈夫だよ」と言ってやりたい――そんな気持ちになりました。
監督もカメラマンも素晴らしい人たちが世界にはいっぱいいます。中国なんか見ていると本当に俳優の層が厚い。
世界で勝負するというと、何かとても大変だと思われがちです。もちろん日本で仕事をしていても大変なことはいっぱいあるわけで。海外でやっていくというのは、それよりも少しだけ大変さが増すかもしれないけど、実際にやってみると、なんとかしようとすれば、なんとかなるものです。
英語と中国語が喋れれば、世界のかなり広い場所で仕事ができます。今も毎日、特に英語と中国語はこれまで少しずつ工夫を重ねてきた自分の独自の方法に従って勉強を続けています。
仕事の舞台をさらに世界に広げていくことは、僕の中に明確な目標としてあります。どこかの詩人の言葉にありましたが、「幸運の女神とは、自分の前髪をサラッと触れて通り過ぎてしまうほど繊細なものだ」と思っているので、そのチャンスにちゃんと気づいて反応できるよう、常に準備ができている自分でいられているか、毎日意識して過ごすようにしています。
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取材・文)東晋平
写真)本人提供
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