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「自閉症ではない」という考え方

最近の私は
私は「自閉症ではない」と考えながら
言い方を変えれば、自分を自閉症だとは思わずに生活しています。

それは
「あなたは自閉症なんかじゃないよ!」とか
「自閉症なんてただの甘え」とか
そういう自閉症を知らずに否定する方針ではなくて

自閉症の特性を知って
自身の特性を認識して、他のさまざまな人を見た上で
「自閉症だとあえて思わなくていい」と
そしてそうやって自分を自閉症ではないと判断し
そうした時にどんな弊害が起こるのか
愛を持って私が世界と接した時
私にそれでも耐えられないことはなんなのか検証していました。

その結果、「自閉症の私」と向き合う時間がなく
ブログやノートから離れていました。
ご連絡をいただいた皆様、失礼いたしました。
 

私たちが、自閉症であると言い切ることで得る利益は何なのでしょうか。
そして、周りの人に与えられる利益はなんでしょうか。
 
もちろん、「自閉症ではない」と言い切ったり
明らかに自閉症の特性を持っていながら
「自閉症って何?」という状態よりは
「私は自閉症です」と認識している状態の方がずっと自己理解ができているという意味で良質な生活が送れると思います。
 
これは自閉症に限らず、自分の性的志向であったり、自身の文化、血統、なんであっても、自己理解はあればあるほど良い。
これは事実ですから
自身が「自閉症である(可能性がある)」と理解できていることは
まず大きな良質な生活への第一歩です。
 
しかし、それを表立って
自己紹介のように「私は自閉症です」と言い切ることで
一般的に自身、そして周りにとって何が起こるのでしょうか。
何か利益があるのでしょうか。
 

自閉症とはなんなのか

 
まず第一に私(達)が自閉症だからできること・できないこと
何故周りの人が私たちが自閉症であることを知っておくべきなのかをお伝えします。
全員が全員同じわけではないし、学習障害の有無でも変わりますので、あくまでも参考までに読んでください。

  

自閉症だからできること

正直で素直 忖度がない

 
まずわたしたちは言葉をそのままに読み取り、
相手の表情や表現をそのままに読み取ります。
人によっては騙されやすい人もいると思うし
私たちは思ったことをそのまま言いますから
周りからしたらわかりやすく、忖度をしないので
なんでそんなことまで言うのよ、と思うことはあるでしょう。
 
これは私が自閉症だからでしょうか。
そうかもしれません。
私たちは成長する過程で、人を傷つけても嫌がられても
それでも思ったことを伝えることをやめずに大人になった人間達です。
私はその特性を知っていて、必ず相手の良いところばかりを見ることを自分の習性にしました。
おそらく見るもの聞くもの対面するものの良いところばかりが見えるのもまた自閉症の特性なのですが
私はそこにあえて注力することで、必ず相手に良いところ、素敵なところを惜しみなく伝えるようにしています。
引かれることも嫌がられることもありますが
別に人命に害があるわけでもないし、と割り切って忖度できない性格をうまく使っています。
 

愛情深いこと

 
私たちの愛情深さは誰が見てもわかるものなのではないでしょうか。
これは私たちが自閉症だからでしょうか。
HSP(Hyper Sensitive Person)も似ている部分だと思いますが
HSPよりもおそらく絶望的なほど重い愛情を持っているのも事実です。
簡単な言い方をすれば「あなたのために死んでもいい」と言い始めそうな規模の愛情。
 
恋には疎いでしょうが、愛には満ち溢れている
自分の人生を誰かに全力で捧げる覚悟のある人たちだと思います。
もちろんだからと言って浮気をしないとか、二股をしないとかという分析値がでているわけでもないし、
それが恋愛となった時にどうなのかは知りません。
 
私の例をあげれば、有り余る愛をどう与えたらよいかわからず
更には生まれ持っての自己評価の低さもあわさって
告白してくる人を1人も断ることができず、
一時期はポリアモリー(複数恋愛)を行っていました。
 
何人彼氏・彼女がいても全員を愛する自信があるから。
この特性を見た時に、私は特別自閉症だからです、と言う必要はないと思いますが、
愛情の表現の仕方が歪んでいる、あるいは歪み得る可能性はあるので
そちらは自身か周りが少し調整する必要はあるのかもしれません。
しかしこれは誰にでも過去の経験などによって当てはまることですね。
 

できることは半端なくできる

 
突拍子もなく秀でたものがある可能性があります。
もちろんその何かに出会わず人生を終える人も多いので
「馬鹿か天才か」みたいな言われ方をするのも事実ですが
小学校・中学校・高校・大学・社会人・・と
前に習って敷かれたレールを歩かせていたらその何かに出会わず花開かない自閉症も多くいるかもしれません。
さらには「障害者」扱いされて「できない子」扱いされる自閉症もいるかもしれません。
みんなが見れるその景色の中に私たちの才能を開花させられるそれが隠されているかどうかはわかりません。
幼い頃に子供が自閉症だとわかったら、とにかく多くの物事、世界のたくさんのものに触れさせてあげることを推奨します。
その中で没頭して興味を持つものがあれば、そこから派生させて色々なことを学ばせてあげてください。
天才的な集中力を発揮できる自閉症にとって同じ教育を受けさせることはあまり効率の良い生き方ではないです。
 
そして、この性質を持つ私は自閉症でしょうか。
自閉症とも自閉症でないともいえると思います。
 

自閉症だからできないこと

共感をしない


基本的に、感動的な時、人が悲しんでいる時、共感ができません。
「悲しかったね」「辛かったね」という慰めの言葉は出てこず、
どうしたらこの人の状況が改善されるだろう、と静かに考えている可能性が高いものと思います。

こんな特性を持っている人は自閉症以外にいるでしょうか。
いると思います。
いると思いますが、どんな属性の人たちか、と言われるとわかりません。
ざっくりと、多くの人が共有する特性なのではないかと個人的には思います。
「花は自閉症だから共感してくれないから、花の前で泣いても無駄だよ」
と裏で根回ししてくれるならそれは私は楽でいいですが
別に私はこれを悪いことだとは思っていません。
しかし、10人の女性達が1人の女性を慰めているシーンを目の前にした時
どうしたら良いのかわからなかったのは本音です。
せめてもの社会性を使って、しばらくは黙っているようにしましたが
本来ならばすぐにでも改善案や解決策を提案したいのが本音です。
それを受け入れられるビジネスシーン、職場などの環境ならば私の対応はうまく動くからこそ、私たちはプライベートの社交に向いていない いわば内向的な人間といえるでしょう。

合理性がなければ理解はできない

合理性なのか自身の正義と合致しなければなのかは正直わかりませんが、私の場合は話に合理性、整合性がなければパニックを起こします。
そして否定だけをされると、こちらもパニックを起こしますが、これは合理性がないからだと個人的には想定しています。

例えば何かが床に溢れていて、「それ拭いて〜」と言われたとする。
私はあたりを見回して、自分が適当だと思った布か何かを見つけてそれを拭きます。
すると発言者が来て「それで拭いちゃダメじゃない!」と言ったとする。
ここまでで対話が終わっていたら、自閉症側(拭いた側)がパニックを起こす結果になると思いますが
そこで「今溢れているこの物質はこう言った特性があるから、こういう種類の布で拭くといいよ」と、正解を指し示しながら、否定系ではない指摘を行った場合、ここに自閉症の困惑はそこまで生まれません。
私は実際に自分のパニックを知っているので、相手が誰であってもこのように人に接しますが、なかなかできる人はいないし
定型発達の方はそんなことをしなくても文脈から読み取って、否定されてもどうして否定されているのかわからずパニックを起こすこともないのだろうから、見逃されている部分なのかもしれません。

私が自閉症(アスペルガー症候群)として申告をするべきなのでは、
と思う唯一の点はこのパニックです。
私はパニック障害ではありません。
理由がなければパニックは起こさないと思います。
しかし理由があった時、パニックは止められないことがあり
人によっては暴力的になることも多いようです。(自傷も含む)
それが私がアスペルガー症候群を我ながらに怖がるところであり
他の部分は 誰だってあるだろう と思う特性なのです 
 

ではこのパニックはどう防げるのか。
前述では、合理性がなければ理解は難しいという話をしました。
これがアスペルガー症候群全員に当てはまることなのか
私だけなのかはわかりません。
しかし少なくとも、人格否定のような、非建設的な否定をされた場合パニックを起こすことは少なからず他人の自閉症の方でも見てきました。
 
そしてもう一つは、その人ができないことを見極めておくこと。
私で言えば、人が多いところに行く、あるいは本来したくはないことを無理にしようとする
等すると、躁鬱になるかパニックを起こすかなどの結果が伴います。
それを徹底的に人生から排除することもまた、健康であると言えます。
 

鬱ではない慢性鬱

私たちは超センシティブでありながら超鈍感です。
コロナが流行り始めた頃、自閉症がマスクができず困ったという話が多く出回っていました。肌の敏感さや、口を閉じられている恐怖感などさまざまな理由でマスクに耐えられないのでしょう。
私たちは、少なくとも私は鬱ではないし、鬱状態の時期があるとしたらそれには必ず理由があります。
理由もなく鬱という時間はないので、薬で治療をしようとするのは極力やめてください。私たちの鬱は根源を解消することが何よりも重要です。

そして、予防としては
少しでも鬱であったり否定的・悲観的な情報や感情の渦巻く場所に自閉症を置いておくことを避けてください。
ここはHSPの方々と繋がると思いますが
少しでもそういった空気を感じるとすぐに鬱に陥ります。
そして一度鬱になると何ヶ月と起き上がってこれなくなったりもします。
生命力が抜群に強い自閉症群が活気を吸い取られてしまうことは本望ではなく
なるべく周りが一貫して元気であれば、自閉症の人間は楽しんでいるのか周りから見てわからないとは思いますが
自分自身も元気になっていると思います。

 

書き出せばもっと特性はあるし
だから私は自閉症、だから私は自閉症と言わなくて良い
と導き出すことはおそらくできるのですが
結局のところ私は他人・自分に危害が加わらなければ自閉症だと名乗り出る必要はないと思っています。
 
それは、パニックを起こさないことでもあるし、鬱にならないことでもある
他人を拒否して逃げ出さないことでもあり、人に誤解されて嫌われないことでもある。
「自閉症なんです」ということで周りの理解が得られて
「そうなんだ!じゃあ大きな心で見守るね」と言ってくれる人たちばかりの世界ならば、事前申告をしておいてなんの損もないと思いますが
現代の、「自閉症」への理解の薄い社会の中で
それを申告する必要性があるのかどうか。
 
自閉症についての理解がないまま差別だけが際立つ現代では
申告することの方が本人へのリスクも高まるのならば
自身の特性を根本的に理解して、できること・できないことを仕分けて
できることを伸ばしてできないことをしない選択をしていくことが賢明なのではないか。
 
そういった考えを
自閉症の1人として、提唱したいと思います。

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