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【推し本】82年生まれ、キム・ジヨン/メタとしてのキム・ジヨン

すでに多くの人がこの本を読み、あるいは映画を見たでしょう。

先日、訳者の斎藤真理子さんの講演を聞く機会があり、これがとても興味深かったです。
もともと「キム・ジヨン」は当初韓国でも日本でもこんなに売れるとは出版社には思われてなかったようです。韓国も、必ずしもフェミニズムに寛容ではありません。
売れた理由は、韓国の女性を取り巻く社会的状況の数値エビデンスを示すために精神科医という猿回し的な人物を立てたこと(小説という形式において、数値の説明がそぐわないため)、キム・ジヨンの夫も家族もそれなりに思いやりがあってちょっと卑怯、でも基本的にいい人たち、つまりどこにでもいる人たちで特別ひどいDVやいじめをするわけではない(特定の誰かに酷い目にあったとなると個人の物語になる)、主人公のキム・ジヨン自体も自己主張などあまりせず内面がわからない、と周到に人物設定がされているのです。
あえて薄ぼんやりした人物たちの、日常あるある、という言動や出来事、しかも一つ一つは些細と思えるようなこと、が繰り返されます。
これにより、キム・ジヨンがメタとなる効果をもたらします。
結果、顔のない表紙が象徴するように、多くの女性は自分のことが書いてあると投影して共感し、男性も気付かずにこういうことやってしまっているかもとちくりと思わされ、ある意味誰もが客観的に読めない本となったのです。
うーん、マーケティングとして巧妙で上手い!

ちなみに日本では文化的に韓国と共通点が多いけれども一緒でもない、名前もキム・ジヨンだから生々しさがなくなり少し客観的に読めるので受け入れられたとのこと。これがNYが舞台の「82年生まれ、ローラ・パーカー」なら自己投影しにくく、川崎が舞台の「82年生まれ、山本裕子」なら生々しすぎて読んで辛いですね。

さて、普通にまじめに生きてきた女性が、どこにでもいる人たちによる、時には悪意すらないマイクロマイクロアグレッションの積み重ねで追い詰められてしまう前に、何ができるのでしょう。
キム・ジヨンでも、子どもの頃にはいくつかの小さな勝利もありました。例えば、給食を食べる順番を男子からでなく女子からにもするよう訴えて勝ち取る、いじめてくる隣の席の男子から離れるために席替えを勝ち取る、男子というだけで何でも与えられている弟にげんこつをくらわす、、、。
それが思春期も過ぎると、学校、家、社会の中で”そうなっている”ことや制約に飲み込まれ、選択肢すら与えられない、作り出せないことが増えていきます。
最後の最後にキム・ジヨン氏を打ちのめすのは、公園で隣にいた見ず知らずのサラリーマンの一言です。いろいろ積もりに積もったうえでの、これが最後の藁(Last straw)となり、もう”どうにもならない”となったのでしょう。
”どうにもならない”、ではなく、”どうにかなる”と思えるために、それまでのキム・ジヨンの人生を逆戻ししていくと、何があったらよかったのか、マイクロマイクロアグレッションではなくマイクロマイクロサポートになりえたのかと考えてしまいます。

私はキム・ジヨンよりひと世代上になります。
外資系に長く務める中で、Diversity, Equity & Inclusionにはかなり関わっている方です。理不尽な思いも一通り経験し、それでも女性が働き続けること自体で次世代の道を開いている、とも思っています。
しかし、女性の立場がなかなか向上しないどころか逆戻りすらしている日本の現状を見るにつけ、結局、私自身も一定程度は疑問も持たず、あるいは仕方なく受け入れてきたことがあること、女性同士の連帯をもっとできたのではないか、もっと声も上げられたのではないかと、現状に一種の共犯性すら感じます。

キム・ジヨンでは、全体的に薄ぼんやりした登場人物の中で、母親のオ・ムスク氏だけがキャラ立ちしています。
母親は娘二人にやっと部屋を確保できた時、壁に世界地図を貼って”ソウルは点だ、世界は広い”と言います。ここは著者自身も好きな場面だそうです。
日本の女性も、いっそ海外に出てこそ本当に活躍できると最近心底思います。

著者あとがきでチョ・ナムジュはこう書いています。

娘が生きる世の中は、私が生きてきた世の中より良くなっていなくてはなりませんし、そう信じ、そのようにするために努力しています。世の中のすべての娘たちがより、大きく、より高く、より多くの夢を持つことができるよう願っています。

そう、やはり私のことが書かれている、と思うのです。

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