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【長編小説】清掃員の獏(20・最終話)

前回

 自分で持てるのに、荷物は全部父が持つと言って譲らなかった。退院手続きも母が全部済ませてくれていた。だから沙凪が自分でできたのは、お世話になった医者や看護師にあいさつをすることくらいだった。
 右腕の骨折と、首のムチウチ、その他数箇所の打撲。それだけで壊れものみたいに扱われるのは居心地が悪かった。けれど、入院した経緯を考えれば致し方のないことなので、大人しく従った。
 どうやら沙凪は自殺しようとしたらしい。会社の隣のビルの屋上から飛び降りたとか。
 私が?
 それが説明を聞いた沙凪の最初の感想だ。
 だけどよくよく話を聞いていくうちに、そういえばそうだった、といった具合に色々なことを思いだしてきた。
 不思議な話だけど、この数ヶ月のできごとのはずなのに、もう何年も前のことみたいに感じた。確かにつらかったけれど、それはつらかったという記憶が残っているだけだ。だから警察に深水のことを説明する時も冷静でいられたし、むしろ怒り狂う両親を沙凪がなだめる場面もあったくらいだった。あれほど夢中だったのに、沙凪の中では深水は完全に過去の人になっていた。復讐するほどの関心もない。自分と同じめにあう人が出る前に、捕まってほしい。それだけだ。
 ただ、直前の数日間の記憶だけは、どうしても思いだせなかった。医者が言うには、ショックによる一時的な記憶喪失らしい。その原因が、落ちた時に頭を打ったせいなのか、精神的なものなのかは不明だし、戻るかどうかも分からない。そんな沙凪のことを、みんなそっとしておいてくれた。現在の沙凪が精神衛生的に健康なら、無理に思いだす必要はないと医者も言っていた。沙凪もそう思うことにした。思いだしたところで、今後の人生にプラスになることは、きっとないから。
 でも、ひとつだけ気がかりなことがある。
 沙凪が助かったのは、ビルの窓を清掃していたゴンドラに引っかかったからだという。そして、そのゴンドラに乗っていた清掃員が沙凪の巻き添えになってケガをした。その清掃員が下敷きになってくれたおかげで、沙凪はこの程度のケガで済んだのだという。それなのに、沙凪はその人に会うことはおろか名前すら教えてもらえなかった。なんでも先方が沙凪の事情を気遣って、素性を一切明かさないようにしたいと言っているらしい。両親が調べてくれて会社名まではすぐに分かったけれど、会社は「命にかかわるようなケガではないから」と言って両親が持参した菓子折りさえ固辞したという。ニュースから、四十代の男性だということだけは分かっている。もしもそのニュースを書いた記者に連絡をとれれば何か分かるかもしれない。けれどそのせいで逆に沙凪がマスコミに目をつけられることを恐れたらしく、両親もそれ以上は調べていないようだった。
 訴えられたりするよりはましだけど、お礼もお詫びもできないなんて、ただただ申し訳なくて、なんだかもやもやしたまま退院の日を迎えた。
 病院の外の空気はまだ冷たかった。でも日差しの下に出ると、春の暖かさが体にしみこんでくる。心地よさに顔を上げると、高い空には雲ひとつなかった。景色のひとつひとつが妙に新鮮に感じられる。
「待ってて。車とってくるから」
 荷物を母に預けた父が、小走りに駐車場へ向かっていく。沙凪は母とふたり、入口前の車寄せで春の日差しを浴びていた。
 ふわっと覚えのあるにおいが鼻先をかすめた。
 においを視線で追いかけると、植えこみの影に隠れるように設置された喫煙スペースに、スウェット姿の中年の男性が立っていた。緩めの襟からは肩から胸にかけて巻かれた包帯が覗いている。左腕を服の下で固定してあるらしく、垂れ下がった左の袖は邪魔にならないよう途中で結んである。男が右手でタバコをつまみ、煙を吐きだす。
 知らない男だ。それなのに、沙凪はその男の顔をじっと見続けてしまう。どこかで見たことがある気がする。取り引き先の人? よく行く店の店員とか? 記憶をさらってみるけど、分からない。最近、あの顔を見たような気がするのに。
「あっちで座ってようか」
 においに気づいた母が、さり気なく沙凪を少し離れた場所へ連れていこうとする。
 もしかしたら、単に病院の中で見かけただけかもしれない。そう思うことにして、母のあと追った。
 その時、病院の入り口から出てきた女性とすれ違った。
「あ、いた。もう、神谷君」
 女性の声に、沙凪の足が止まった。
 振り返ると、その女性は喫煙所の男に近づいていく。
「入り口にいるって言ったじゃない。探しちゃったよ」
「入り口だろ、大体」
「迎えに来てあげてんだから、もうちょっと見つけやすいところにいなさいよ」
 女性に急かされ、男は半分ほど残ったタバコを灰皿に落として歩きだす。
「まったく、肋骨折れてんのによくタバコなんか吸う気になるよね」
「片手でできることっつったら、これくらいしかないんだよ」
「いっそ複雑骨折で肺挫傷でも起こせばよかったのに」
「禁煙する前に死ぬだろそれ」
 軽口を返した男が、顔を上げる。
 目が合った。
 男の足が止まる。かすかに目を見開き、沙凪を凝視している。
 大柄な体格に、短い髪。伸びきった無精ひげには白いものが混ざっている。
 やっぱり、この人を知っている気がする。
 見かけたとか、そんな薄い接点ではない。もっと近い。それなのに、いくら記憶に手を突っこんでも煙のようにつかみどころがなくて、もどかしい。そこにあるのは分かっているのに、どうしても思いだすことができない。
 男が再び歩きだす。沙凪に向かって、まっすぐに。
 もしかしたら、この男がその答えを教えてくれるのではないか。期待をこめて、沙凪はじっと男の顔を見つめる。
 男一歩近づいてくるたびに、心臓が強く高鳴った。
 ところが、男は黙って沙凪の横を通りすぎていってしまう。
 あれ?
 沙凪はしばし固まる。
 置いてけぼりになった視線が、だれもいなくなった虚空をさまよった。
 一緒にいた女性は不思議そうに沙凪を見やり、男を追いかける。
「いいの? 知り合いじゃないの?」
 沙凪の後ろで、女性が男に問いかける声が聞こえる。
「いや、違った」
 そう答えた男の声には、なんの感情もこもっていなかった。
 突き放されたみたいな寂しさが、沙凪の中にあふれていく。どうしてこんな気持ちになるのだろう。会ったことがあるかどうかも分からない。呼ぶべき名前も知らない。それなのに、遠ざかる男の背中に手を伸ばしそうになる。
「沙凪? どうしたの?」
 心配する母の声で我に返った。慌てて「なんでもない」と首を振り、母のそばに寄る。
 だが耳だけは、離れていくふたりの会話を追いかけてしまう。
「ねえ、お昼まだでしょ? つき合ってよ」
「いいぞ」
「何系にする?」
「お前が決めろ。俺はそれについていく」
 胸が、ぎゅっとした。
 強く背中を叩かれたみたいに、一瞬息が止まる。
 体が熱くなる。
 けれどその反動のおかげで、次の一歩がだせる。前に進める。
 自分でもよく分からないけれど、とても清々しい気持ちだった。
 沙凪は、おそらく、もう二度と会うことはない男へ視線を向ける。男と女性は、駐車場の方へ消えていった。
 父の車が到着して、母がトランクに荷物を乗せる。
 丁度同じタイミングで巡回バスが車寄せに入ってきた。
 何人かの人がバスから降りて、その中のひとりが、まっすぐこちらに向かって走ってくる。その懐かしい姿に、沙凪の顔が自然と笑顔になる。
「沙凪!」
 走ってきたままの勢いで抱きしめられる。
 空澄は、沙凪がここにいることを確かめるみたいに、何度も名前を呼び続けた。
 大げさな抱擁ほうように戸惑いながら、沙凪は空澄の髪の香りに目を閉じる。なぜかこのにおいがとても恋しかった。
 ようやく体を離した空澄は、両手で沙凪の頬を優しく包んで、じっくりと観察するように目を見つめた。沙凪はされるがまま、空澄の視線を受け止める。
 空澄はうるんだ目を細めて、沙凪に微笑む。
「よかった。思ってたより、ずっと、元気そう」
 その奥に隠れたさまざまな言葉が、沙凪には分かってしまった。空澄も沙凪の事情を知っているのだ。
 それ以上は悟らせまいとしたのか、空澄は沙凪をいたわるみたいに肩や背中をなで回す。
「元気だから退院が早まったの?」
「ううん。予定通りだよ」
「あれ? おばさん、明日って言ってなかったっけ?」
 驚く空澄に、母は首を振る。
「そんなはずないわよ。七日って言ったでしょ?」
「嘘っ、じゃあ私が勘違いしたの? 危うくすれ違っちゃうところだったじゃない」
 沙凪の顔から笑みがこぼれた。しっかり者の空澄をそこまで動揺させてしまったことが申し訳ない一方で、ちょっとだけ嬉しかった。
 沙凪の顔を見た空澄が、ふいに神妙な顔つきになる。空澄の視線は、ギプスで固定された沙凪の右手に注がれていた。
「私、沙凪に謝らなきゃいけない。あの時、私がちゃんと話を聞かなかったから……」
 空澄が珍しく言葉に詰まった。
 沙凪は首を振る。
「話を聞かなかったのは私だから。空澄が謝ることじゃないよ」
 空澄は沙凪の身を案じてくれていた。聞く耳を持たず、その手を突き放したのは沙凪自身だ。空澄は何も悪くない。
「いつも心配してくれてありがとう」
 沙凪がそう言うなり、空澄の目からぼろぼろと涙がこぼれ始めた。化粧が流れるのも気にせず、顔をくしゃくしゃにして、その場で泣き崩れる。
 慌てて動く方の手を差しだしたけど、支えきれずふたりで地面にひざをつく。
 今までに見たことがない空澄の姿に動揺する沙凪を、空澄は強く抱きしめる。
「沙凪、生きててよかった。沙凪、沙凪ぁ」
 涙に声を震わせながら、空澄は何度も沙凪の名を呼び続ける。いつの間にか、空澄が沙凪にすがりつくような形になっていた。空澄の体を受け止める沙凪は、とても安らいだ気持ちでいた。
 ずっと、こうしたかった。
 困った時は、待っていれば必ず空澄が助けてくれた。いつも沙凪はもらってばかり。もちろん大事にしてくれるのは嬉しいけど、沙凪だって本当は、空澄がしてくれたみたいに、空澄の力になりたかった。それができなくてずっと後悔してきたことを、唐突に思いだす。
「空澄。私も、あるの。謝らなきゃいけないこと」
 胸に抱いた空澄の顔が上を向く。長いまつ毛の上で、涙が震えるのが見えた。
 不思議なことに、目が覚めてかというのも、空澄にまつわる記憶はどんどん蘇ってきていた。子どもの頃のたわいもない会話から、最近のつらいできごとまで。その時の沙凪の感情も、そのあとの後悔も、本当はどうしたかったのかも。全部が鮮明に、まぶたの裏で再生することができた。
 正面から空澄の目を見る。
 言わなきゃ。
 伝えなきゃ。
 今までの気持ちを。
 今の、本当の気持ちを。
「空澄、あのね――」

〈了〉


悩みをかかえた方は適切な機関へ相談を。

こころの健康相談統一ダイヤル
0570-064-556

Photo by Victorあず吉あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ

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