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【長編小説】清掃員の獏(19)

前回

*   *   *

 イミューンが完全に消え去ると、神谷は電池が切れたみたいにひざから崩れ落ちた。
「神谷さん」
 沙凪は神谷に駆け寄る。散らばった瓦礫に気をつけていたつもりが、あと二メートルというところで瓦礫を踏みはずした。
「あうっ」
 派手に転んだ沙凪は苦笑いする。
 神谷がこれみよがしにため息をつく。いつも通りの呆れた顔だったが、体内にたまっていた悪いものがすべて汗になって流れ落ちたみたいに清々しい顔をしていた。沙凪も同じだ。胸の奥につかえていたものがイミューンとともに蒸発したような、身軽になった気分だった。
 神谷が怪訝けげんな顔をする。
「何を笑ってる」
「なんでもないです」
 沙凪は立ち上がり、手で服についた土埃をはたく。
 その時、震動が床から突き上げた。揺れは細かく立て続けに起こり、天井から細かい粉が降ってくる。小さな石が床を跳ね回り、瓦礫の山がバランスを崩してなだれ落ちた。
 沙凪は、遠くから響く、もっと大きなものが崩れる音を聞いた。壁に亀裂が走る音、揺れに耐えかねた柱が折れる音。すべてが混ざり合って、何かの予感のように沙凪に伝わってきた。
「世界が、消えようとしてる」
「ようやくこの世界のことが分かってきたみたいだな」
 神谷は皮肉っぽく笑い、痛みをこらえるようにゆっくりと立ち上がる。沙凪はよろけた神谷の腕を支えた。何度も地面を転がってすっかり白っぽく汚れたつなぎは、ところどころ破けて血がにじんでいた。汗を血が混ざった液体が顔の半分がぬらしている。肩で呼吸をしていて、立っているだけでもつらそうだ。
「早くここから出ないと」
 あたりを見回すが、ここには何もない。天井に空いた孔と、瓦礫だけだ。
 どうしよう。
 どっちに進めばいいのだろう。今まで上がり続けてきたから、やはり上だろうか。ということはまずは、天井の孔の上の荒野に戻ればいいのか? あの不気味な赤い空がゴール? それとも別の道があるのか? あまり時間がない。崩壊の音はどんどん近づいている。今思えば、病院で扉を呼んだのはきっと神谷だ。エレベーターなら沙凪も呼べたが、下にしか行けないんじゃ今は意味がない。
 どうしよう。
 今の神谷には頼れない。沙凪がどうにかしなきゃいけない。なのに、あせればあせるほど、頭は同じところをぐるぐる回り始める。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「沙凪」
 突然、背後から声がした。
 振り向くと、瓦礫の中に空澄が立っていた。ここに落ちてくる時に見失ってしまったけど、無事だったのだ。安堵で思わず頬がほころぶ。
「空澄」
 空澄が来てくれた。今までも沙凪を導いてくれたのだから、この状況だって、きっと空澄ならをどうにかしてくれる。
 無意識に伸ばしかけていた手を、沙凪は引き戻す。
 今までずっとそうだった。沙凪がひとり途方に暮れていると、どこからともなく現れた空澄が助けてくれた。沙凪はいつだって、自ら助けを求めることすらせず、ただ待っているだけ。そうやって空澄の優しさと強さに甘え続けてきた。
 沙凪は伸ばした手で神谷の腕をつかみ、肩に担いだ。
「空澄、力を貸して」
 助けてくれるのを待つのではなく、きちんと助けを求める。手を引いてもらうのではなく、対等な友達になりたい。
「私、ここを出る」
 空澄がにっこり笑った。
「私の力は必要ないよ」
 空澄は沙凪の胸にそっと手を添える。
「落ち着いて。沙凪なら大丈夫だから」
 空澄は目を閉じる。すると淡い光が空澄の体を包み、ぱっと弾けた。
 粉雪のような細かい粒となった空澄は、沙凪の方へと吸い寄せられる。光は沙凪の体に触れるなり、じんわりとした温もりになってとけこんでいく。
 光がすべて沙凪の中に入りこむと、別の揺れが部屋を震わせた。
 部屋の中央で、床から光の円柱がせり上がってくる。柱は天井を突き破っても伸び続け、しばらくすると、同じように床から生えてきた階段が柱に巻きついていく。
「行きましょう」
 階段を一瞥いちべつした神谷は、何も言わずに小さくうなずいた。
 天井を丸くくり抜いた孔を貫くように階段は伸び続けている。穴の中に入ると一気に静かになった。
 沙凪は神谷が進むのに合わせて、ゆっくり階段をのぼる。
 今までの白い階段と違い、数メートルおきに、柱に蛍光灯がとりつけられていた。蛍光灯の明かりが、階段の青白さをいっそう引き立たせている。
 轟音とともに、ひときわ大きな揺れが階段を震わせた。
 下を見た沙凪は、言葉を失う。
 上がってきた階段が、途中からなくなっていた。それどころか、その下にあったはずの白いホールが跡形もなく消えており、何もない闇だけが広がっていた。
 もう、あと戻りはできない。
 極めて冷静に確信する沙凪の脳裏に、ふと、何かがよみがえった。
 そんなことを考えながら、こんなふうに長くて白い螺旋階段を歩いたことがある。
 一段上がるたびに、今までの自分の記憶や思い出を捨てていくような感覚だった。それなのに名残惜しさとかはこれっぽっちもなくて、ただ淡々とのぼっていた。
 だけど、それはいったい、いつのことだろうか。
 神谷が足を止めた。
 階段がそこで終わり、目の前には一枚の扉があった。
 今までの両開きのものとは違い、丸いドアノブがひとつついた片開きの鉄の扉だ。開くことを拒むように分厚くどっしりとした存在感を前に、沙凪は立ち尽くした。鉄の表面にペンキをぬっただけの冷たさが肌に突き刺さる。
「どうした?」
 気づけば沙凪は、支えていたはずの神谷にしがみついていた。心臓が痛いほど強く鳴っている。
「どうしよう、神谷さん。怖い」
 この先に何があるのかは分からない。でも、どうしようもなく怖い。この先に進んではいけないと本能が叫んでいる。
「ってことは、答えはここにある」
 神谷は沙凪の手から腕を抜くと、横に一歩ずれた。そして少しだけ沙凪の背中を押す。
 押されたまま前へ進み、震える右手を左手で包んだ。すきあらば逃げだしそうになる足を深呼吸で抑える。
 高鳴る心臓の音を聞きながら、震える手でドアノブをにぎる。冷たいノブを回し、目を閉じて重たい扉を一気に押す。
 風の壁にぶつかった。
 髪が一気に後ろに流れ、一瞬、息すら継げなかった。
 押し倒されそうになりながら前へ数歩出ると、風は急に大人しくなった。
 やっと目を開けた沙凪は、一面に広がった青に目を奪われた。
 遥か下の方に流れる雲のおかげで、かろうじてこれが空だということが分かる。天井に埋まっていた偽物の空ではない。上にも下にも、どこまでも青が広がっている。
「屋上か」
 しばし揺れを忘れて見とれていた沙凪は、神谷の声でようやくここがどこかを気にかけた。
 そこは体育館くらいの広さがあった。入ってきたドアの後ろにはもうひとつ建物のようなものが建っていた。壁がわりの白い目隠しの向こうで大きな機械が何台も駆動している音が聞こえる。床は真新しい白いタイルが敷き詰められていて、端を銀色の柵に囲われている。
 沙凪は引き寄せられるようにふらふらと柵の前まで行く。胸くらいの高さの柵につかまり、そっとその下を覗きこんでみた。
 やはり青空が広がっているだけで、何も見えない。柵の向こう側にも一メートル程度床が続いているせいで階下が見えず、この屋上だけが雲の上に浮いているように感じた。
 この景色を、覚えている。
 沙凪の中で眠っていた何かが、色をとり戻していく。
「どうすればいいか、分かってるんだろ?」
 背中に投げかけられた言葉に、沙凪はうなずく。
 分かる、けれど。
「まだ怖いか?」
 神谷の言葉に、沙凪は首を振る。
 怖くはない。
 だが、まったく怖がっていないことが、逆に恐ろしい。
 沙凪の中に、強い諦めがあった。何もない砂漠の真ん中で立ち止まるような、抵抗することに疲れて、すべてを見限り投げだすような、自暴自棄な気持ち。日陰へ逃げることもせずにただ太陽を恨むだけ。そんな朽ち果てた心を引きずって、ここに立っていた。
「どうするかはお前が決めろ。俺はそれについていく」
 神谷はそう言って、沙凪の少し後ろで待つ。沙凪の背中を押してくれる優しい声だった。
 ここに立った時の感情が、よみがえってくる。
 これまでずっと、待っているだけで助けてもらえたから、自分で助けを求める方法を沙凪は知らなかった。ようやくそういう選択肢があるのだと思いついても、その頃にはもう、助けてくれる人はいなくなっていた。こんなに苦しいのに、だれも助けてくれない。精神はどんどん腐り、だれも信じられなくなっていった。家に閉じこもり、ひとりで後悔を反芻はんすうし続けた。全部自分のせいだ。沙凪のことを見ている人はもうだれもいない。自分がいなくなってもだれも悲しまない。それなら、いつまでもこんなに苦しい思いをするより、さっさと終わらせてしまった方がいい。
 あの時の沙凪は、全部終わらせれば救われると思って、ここに立っていた。
 でも、今は違う。
 これで終わりじゃない。
 帰って、会わなくてはいけない人がいる。もう一回だけでいいから、会って、ちゃんと謝って、大好きだと伝えたい。
 震動がさらに大きくなってくる。
「行きます」
 沙凪は揺れるフェンスを慎重に乗り越えた。フェンスから手を離し、足元に気を配りながらふちへと進んでいく。
 神谷が横に立った時、一際、大きな揺れが起きた。
 屋上のタイルに亀裂が走り、下から盛り上がったり陥没したりしながら歪んでいく。ふたりのすぐ後ろに深く亀裂が走ったかと思うと、とけた氷河のように屋上の一部が崩れ落ちた。
 体がふわりと浮く。
「いいか」
 神谷が沙凪の脇を抱きかかえる。
「はい」
 つなぎの背中あたりをつかんだ沙凪は、タイルを蹴った。
 果てしなく広がる青に、体が吸いこまれていく。
 不思議と今回は、目を開けていられた。風を感じるが、全身がベールのようなもので包まれている。
 しっかりと体を抱きとめてくれる強い腕を感じているだけで、恐怖はなかった。さっきまで頭の中にひしめいていた諦めとか、やけっぱちな思いもどこかへ消えていた。ただただ、透き通る青を目に焼きつける。
 目の端にたまった涙が風にさらわれていく。
 ひときわ分厚い雲を突き破った時、目の前にはビル群と海が広がっていた。
 立ち並ぶビルの間を、人や車が行き交っている。その向こうには銀色に光る海が見えた。青空は雲に遮られて見えなくなっていた。これまでいた場所がまぶしかったせいか、世界がひどく薄暗く、くすんで見えた。
 現実感とともに「落ちている」感覚が押し寄せてくる。手足に力が入ると、それだけで体が不安定に揺れた。戻そうとすると、余計にバランスが崩れる。いくら手足を伸ばしてもつかまれるものが何もない。
 いつの間にか、神谷もいなくなっていた。
 慌ててあたりを見回すと、見覚えのある屋上が見えてきた。
 薄汚れたタイルに緑のフェンス。沙凪の会社があるビルだ。日当たりがよくて海が見えることから、かつては屋上で昼食をとる社員もいた。それが今は、新しくできた隣のビルの陰にすっぽり覆われてしまっている。
 沙凪は、その陰を作っている、大きな隣のビルに向かってぐんぐん落ちていく。屋上の白いタイルが一瞬で後ろへ通りすぎていき、窓ガラスに腹をこするのではないかと思うほど近くを落ちていく。ものすごいスピードなのに、目や耳や肌が感じる一瞬の情報が克明に脳に飛びこんできた。
 やだ。
 怖い。
 死にたくない。
 その瞬間、神谷と目が合った。
 ビルの窓にへばりつくようにして吊るされたゴンドラに乗った神谷が、上を見上げる。
 あっ、と声を上げる間もなく、沙凪は神谷の上に落ちていく。

つづく

Photo by Victorあず吉あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ

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